9 ストーキング

 不倫されてから三日が経過した。


 淳樹からは一日数回必ず着信があるけど全て無視している。

 LINEでは、ごめんなさい、許してください、もう一生しません、愛してる、別れないでくれ、やり直そう、帰ってきてくれ、あたりの言葉がローテーションで送られてきていた。


 それを見かねた華奈は、私のスマホを取り上げて着信拒否とLINEのブロックをした。自分では躊躇していたのに、通知が消えるだけでせいせいした。


 華奈といると気が紛れる。ねちっこい愚痴には食傷気味だが、自分のことを考えなくてよいから現実逃避にもなっている。


 でも、いつまでもこの生活を続けるわけにはいかない。一つの部屋に二人で住むことは規約違反だし、他の住人や大家さんにバレたら華奈にまで迷惑をかけてしまう。


 それに、淳樹の元不倫相手の気配を常に感じるのも精神衛生上よくない。過去のことを思い出して気が沈んでしまう。


 そろそろ居候をやめなければ。実家にも知られたくないから自力で家を探すしかない。私は華奈が出勤したあと、不動産屋に向かった。


「いらっしゃいませー」


 店へ入ると、ジェルで髪をがちがちに固めた体格の良い男性に出迎えられた。肌は黒く、ひげは濃く、胸板は厚い。不自然な幅広二重にぎょろりと見つめられて委縮した。


 不倫をされて以来、男性ホルモンの強い男性を無意識に警戒するようになった。何度浮気されようがどんなジャンルの男でもウェルカムな華奈はすごい。


「ではご希望条件をお伺いいたしますねー」


 私は希望を述べた。セキュリティの良い物件、オートロック、バス・トイレ別、三階以上、南向き、駅から徒歩五分以内、部屋数多め、築十年以内。


 希望はつらつらと出てきた。ふと、自分は欲深い人間なのかもしれないと思った。


 男性はにこやかに希望条件をPCへ入力し、いくつかの物件を紹介してくれた。新築、タワマン、デザイナーズ物件。今までは淳樹が勝手に決めた物件に住んでいたから、心が弾む。


 その中でも特に気に入った一軒を指さし、「ここにします」と即答した。家賃はかなり高額だが、実家からの生前贈与で賄えるだろう。


 だが、男性の質問により、束の間の幸せにあっけなく終止符が打たれた。


「ご職業は何ですか?」

「スーパーの店員です」

「正規雇用ですか?」

「パートです、週二の……」

「週二! すみません、今ご提示した物件はどれも難しそうです。先に伺うべきでした。それでしたらこちらの――」

「あの、また今度にします……」


 急に引け目を感じ、平謝りしながら店を飛び出した。足を引きずりながら急いで店から離れる。恥ずかしさで顔が上気した。


 週二のパート主婦の社会的信用は低い。パート生活に慣れ、お金にも困っていないから自覚がすっぽり抜け落ちていた。

 私に限らず、たとえどんなに家事を丁寧にこなそうが、子育てに力を入れようが、その努力は社会からは当たり前と認定され、一律で低くみられてしまう。それがパート主婦。


 現実を突き付けられて挫けそうになる。いくら実家が裕福だろうが、離婚したら様々な障害が待ち受けている。今までの生活が淳樹ありきでまわっていたことを実感し、離婚へのハードルがさらに高くなってしまった。


 どうせ妊活が上手くいかないなら、ブラック企業でもなんでも働いたまま正社員の地位を守っておけばよかった。


「自業自得、か……」


 今や口癖のようになってしまった言葉。あの日淳樹に向かって放ったはずの言葉が、何度も自分に返ってくるのはなぜなんだろう。

 

 不倫された側なのに。


「マイカちゃん、今日もかわいいね」


 ふと、喧騒の中からおじさんの濁声が聞こえた。不倫関係の言葉にだけは地獄耳になっている。立ち止まって商店街の人混みを見渡した。


 古いビルとビルの間に人影が見える。髪の少ない中年男性と黒いパーカーの女性。

 恐らくマイカだ。一気に心拍数が上昇する。


「前バライでおねがいします」

「相変わらずそこはきっちりしてるんだね。はい、見つからないように」


 中年男性はマイカに茶封筒を差し出した。彼女はそれを折り曲げてパーカーのポケットにしまった。中年男性がニヤつきながら腕を差し出すと、マイカは自分の腕を巻き付けた。二人は腕を組んだまま商店街を抜けていく。


 売春。夕方のニュースの特集でしか見たことのない、自分には無関係の世界。そう思っていたのに、夫の元不倫相手という歪な接点によってその世界を垣間見てしまった。


 止めなければ。


 咄嗟にそう思った。社会通念に大きく反する行為には強い嫌悪感がある。不倫をされたからこそ、ルールの逸脱は看過できない。


 もしかしたら、淳樹が不倫した相手が売春をするような女であること自体が許せないのかもしれない。


 とにかく、見てしまったからには止める。捻挫した足をかばいながら後を追った。痛みが足を蝕む。それでも追いかけた。


 やがて人気が少なくなり、ラブホテル街についた。マイカとの距離は五十メートル程。彼女たちがホテルに入る前に止めないといけない。とめどない焦燥感に駆られる。


 しかし、心と身体のギャップが大きいほど、人間は失態を犯す。


「あっ」


 足がもつれて転倒し、気づいたときには顔面をアスファルトに打ち付けていた。


 鼻梁に響く衝撃、肌を抉られるような感覚。捻挫など忘れるくらいに痛い。もだえ苦しんでいると、視界に黒い袖が目に入った。


「ツカまって」


 見上げた視線の先、フードからちらりと覗かせた頬には、赤黒いアザがあった。

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