キエフの亡霊Ⅱ――THE SCORPION GRASS――

古井論理

荒野の亡霊

 仄暗い人工光の中で、僕は目を覚ました。大きな地下施設にいるようだ。

「今は……」

 僕が尋ねようとすると、ひどく口の中が痛んだ。ずっと声を出していなかったかのようだ。僕は咳き込みながら、やって来た医療スタッフに今が何月何日かを尋ねた。

「ああ、今は七月三十日だ。どうだい、生き返った気持ちは」

「最悪だ。それで……ここはどこだ?ひどく逼迫してるようだが」

「このところロシアの連中がボコボコにしていったザポリージャにほど近いドニプロだな。辛うじてウクライナの勢力下だが、どうなるかは分からん。それで、君はどこの部隊から来た」

「キエフ防空隊だ」

「そうか。キエフの亡霊とやらの噂もめっきり聞かなくなったが、キエフはまだ守られているようだな。よくやってくれてるよ」

 僕は注意深く尋ねる。

「僕が担ぎ込まれてきたのはいつです?僕は何ヶ月寝ていたのでしょう」

「君が担ぎ込まれてきたのは三月のはじめだった。すでに四ヶ月が経過してるな」

「キエフは……ゼレンスキー大統領は?」

「ああ、健在だ。キエフは一度も落とされず、わが軍は反撃に向けて勢いづいている」

「まさか、キエフは一回落ちただろう」

「そんなことはない。ブチャの虐殺やその他ひどいことはたくさんあったが、今のところまだキエフは落ちてないよ。君はどこか変だ。長い間夢を見ていたんじゃないのか?」

 どうも様子がおかしい。僕が戦う前、キエフは一度陥落したはずだ。そのあと大規模な侵攻を食い止めて、戦闘機と戦って……そして、僕は勝った。それで、キエフの西側に向かって飛ぶ間に機体がついに火を噴いた。それで僕は不時着した。そこで記憶は途切れている。アレが嘘だったとでもいうのか?そんなにリアルな夢があっていいものか。

「……そんな。僕のMiGは?」

「ああ、おそらく修理が終わって他のパイロットの機体になっているだろう。それで、戦争が始まる前は何をしていたんだ?」

「家族と一緒にキエフにいたよ。僕の「ナザレンコ・トカーチ」という名前を軍のデータベースで照合してもらってもいい、多分整合性がとれる」

「……それがだな」

「どうしたんだ」

「ナザレンコ・トカーチという人物は存在するにはする。君の階級章と一致し、番号も一致する登録データは存在する。でも、その男と君とは三月一日に撃墜されたMiG-29に乗っていたという経歴と識別票、そして戦争前の経歴の三点以外の……つまり戦争が始まってから三月一日までの何もかもが違う。君が撃墜されるまでの記憶は、現実に起こっていることとは少なからず乖離している。別世界から来たと言ってもいいくらいには」

 僕は言葉を失った。今もロシア軍とウクライナ軍が戦争を続けているという事実、そして僕が戦った記憶が事実ではなくなってしまったという事件が、僕の目の前に重くのしかかった。

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