ほろ苦いカクテル

谷地雪@悪役令嬢アンソロ発売中

ほろ苦いカクテル

「結局はさぁ、実体験に勝るものなんてないんだよ。何事も経験経験。おまえらどうせさぁ、安い居酒屋とかでしか飲まないんだろ? 高級ホテルのパーティーとか行ったことある? 高級バーとかさぁ、行かないとわかんないんだよな。そこにいる人たちがどんな会話してるとか、場の空気とか、どんな音楽が流れてるとかさ。知らないからリアリティがないんだよ。金がないとか言い訳だよ、生活費ギリギリまで削ったって、一回体験してこいよ」


 で、男の先輩がそう言った。目上の人の言うことは聞け、先輩のアドバイスには従え、という環境下に長くいた私は、素直に「なるほど一理ある」と受け入れた。

 そして私は、銀座のバーに一人で行ってみよう、と思い立ったのだった。


 何故銀座なのか。わかりやすく、高級で、上品な人たちが集まっていそうだと思ったからだ。

 何故一人なのか。連れとであれば、バーそのものには数回訪れたことがある。高級バーとなれば気軽に誘える価格帯でもないし、今回は人間観察が主な目的だから、一人の方が集中できると考えた。


 それから私は綿密な計画を練った。

 まずは、店選び。一見お断り、な店には入れない。「女性一人」でおすすめされていることが絶対条件だ。あとは店内の見た目。一人で行くのなら、人とのお喋りで間を持たせることはできない。バーテンダーとの会話も憧れではあるが、それは高級バーというよりアットホームな個人経営店の領分だろう。できれば飲んでいる間、目で楽しめる場所が良い。その条件で探して、私は一つの店に決めた。「女性一人」のおすすめ記事に載っていて、店内はアクアリウムになっており、写真がとても綺麗だった。グルメサイトにも載っており、簡単なネット予約を受け付けているということは、一見でも気軽に入れるはず。

 次に、日取り。店の迷惑にならないよう、なるべく客の少なそうな日時を狙った。人間観察という観点で言えば人は多い方がいいのだろうが、一人客というのは単価を下げる。特に慣れていない初心者など、混雑時に構っていられないだろう。

 最後に、振る舞い。バーでの過ごし方、注文の作法、服装などなど。お店のことも、メニューも、できるだけ先に調べておいた。一人で行くのだから、誰も助けてはくれない。高級店なら、きっとマナー違反をしても笑われるようなことはないだろう、と思いながらも、心配性な私はなるべく下調べをしておきたかった。


 そうして、決行当日。私は、手持ちの中でもなるべく高見えする綺麗目なワンピースを着て、パンプスのヒールをかつかつと鳴らしながら、地下への階段を降りた。


「いらっしゃいませ」


 人の良さそうな笑顔の店員が出迎える。私が一人だ、と告げても嫌な顔をせず、席まで案内してくれた。

 まだ客もほとんどいない。ほっとして、美しい店内の内装に見とれながらついて行くと、店員は座りやすいように椅子を引いてくれた。


 ――あ……。


「ありがとうございます」


 礼を告げて、腰掛ける。メニューを渡されて、私はそれに目を通しながら、少しだけ気落ちした。

 案内された席は、バーカウンターの端の端。店内のアクアリウムは思いきり振り返らないと全く目に入らないし、目の前は壁、すぐ横も壁。この位置では、他のお客さんの様子をちらりと窺うことも難しい。

 仕方ない、と私は自分に言い聞かせた。

 景色の良い場所は、コースを予約しているグループが押さえているだろう。入口から見える中央のカウンター席には、見映えするカップルに座らせたいものだ。

 別に、高級バーでなくとも、普通のカフェにもよくあることだ。外から見える窓側の席には、見目のいいカップルを配置する。一人客は奥まった席に通す。店側の戦略なのだから、気にするほどのことじゃない。

 考えようによっては、気を遣ってもらったのだ。女の一人飲みなんて、じろじろ見られたら嫌だろうから、目立たない場所にしてあげよう、と。

 その気遣いこそが、「女の一人飲みは寂しいものだ」と決めつけられているようで、早くも心臓がぎゅっとした。


 せっかく意を決して来たのだから楽しもう、と私は気持ちを切り替えた。

 メニューから、予め目を付けておいたカクテルと料理を注文して、私は息を吐いた。カウンターの後ろに並ぶ酒は飾りで、カクテルは奥で作られて運ばれる。バーテンダーが目の前にいるようなことはない。そのことも少しだけ残念に思いながら、目の前に人がいたら緊張するから逆に良かったかもしれない、と思うことにした。


 ほどなくして、カクテルが運ばれてきた。口をつけると、素直に美味しい、と思った。元々酒は好きな方だ。これで一人バーに慣れたら、行きつけのバーを見つけるのも楽しいかもしれない、などと気楽に考えていた。

 ちびちびと飲み進めていると、隣の席に客が来た。私はそちらにちらりと視線をやって、男女二人組であることを確認した。こういうバーに来る男女はどんな会話をするものか、と少しだけ聞き耳を立てる。褒められた行為ではないが、そのために来たようなところもある。ところが、会話は全く聞こえなかった。カウンターの席は間隔が広く設けられており、隣と言ってもそれなりの距離があった。(もちろん、男女二人の距離は近い。隣の組、という意味だ。)

 個室を取らなくてもあまり会話が聞かれないのは利点だな、と思いながらも、することがない。せめて後方の席だったら、人の様子を少しでも眺められたものだが、誰一人目に入る位置ではない。人間観察はできないし、景色も眺められない。スマホをいじるような雰囲気でもない。私はに、小説を開いた。とりあえず、これで手持無沙汰な感じだけは回避できる。しかし何故だか、内容は全く頭に入ってこなかった。視線をずらせば、暗い店の隅と、目が合った。

 

 暫くすると、料理が運ばれてきた。ここのバーは酒だけでなく料理も売りにしているようだったので、しっかりめの料理を注文した。温かいうちにと、さっそく肉を切り分けて、口に運んだ。柔らかいそれは口の中でほろほろと溶けて、美味しい、と気持ちが緩んだ。値段を思えば、尚更味わうように食べた。


 お腹も満たされ、さてどうしようか、と私は考えた。せっかく来たのだから、もう一杯くらい飲みたい。食後のデザートを頼んでもいいかもしれない。メニューが欲しい、と私は視線を巡らせた。

 バーカウンターには、バーテンダーがいない。私がいるのは、隅の隅。こちらの方まで用事でくる店員は、誰もいない。さてどうしよう、と私は大きめに振り返った。

 後ろの方には、店員が数名いる。視線を合わせようとする。気づかれない。小さく手を上げてみる。気づかれない。

 だろうな、と私は内心息を吐いた。妙な居心地の悪さの理由。店員に気にされている様子を、全くと言っていいほど感じなかった。

 連れとそれなりの店に訪れて、こんな思いをしたことはなかった。店員は常に客に気を配って見えたし、目が合えば微笑んで用事を伺いに来る。少し忙しそうに見えても、他の客から見えないくらいこっそり手を上げれば、会釈をして後から来てくれる。こちらから店員を呼ばないと、探さないと、なんて、経験したことがなかった。連れと、いる時は。

 もちろん、庶民的な価格帯の店では普通にある。連れといたってなかなか店員が捉まらないこともあるし、一人で訪れて奥の席に通されると、立ち上がってわざわざ探しに行かなければならないほどだったりする。

 しかし、銀座のバーでは大声で呼びかけることも、大きく手を振ることも躊躇われる。場の空気を壊さず、店員を呼ぶにはどうしたらいいのか。何度か振り返っては失敗した私は、悩んだ末、とりあえず機会を待つことにした。


 隣の席に酒を提供するために、バーテンダーが近くまで来た。少しだけ距離があるので、「すみません」と私は声をかけた。

 やっと声がかけられたことにほっとしてメニューを受け取り、私は料理を一品と、カクテルを注文した。デザートが欲しい、とメニューを頼んだ私に怪訝そうな顔をしながら、店員は注文を受けた。

 やはりおかしかっただろうか、と私は顔を赤くした。事前にメニューを調べていた段階で、口コミで美味しかった、と言われていたメニューがあった。私はそれをてっきりデザートだと思っていたのだが、実は前菜だったのだ。そのことに、後から気がついた。既に主菜を食べていたので、前菜を頼むのはマナー違反かもしれない、とは思った。しかし、せっかく下調べもしてきたし、食べたいものは食べておこう、と思い切った。この時点で「もうこの店には来ないだろう」と予感していたので、多少恥をかいてもいいという気分だった。だがやはり店員の反応は、少しだけ「やってしまった感」を刺激した。


 注文したカクテルと料理が並び、私はそれらを口にした。料理は、口コミ通り美味しかった。注文して良かった、恥をかいた甲斐はあったじゃないか、と私は自分に言い聞かせた。

 食べ終えて、少しは雰囲気でも楽しもうか、と小説を開いた。しかし、やはり進まない。じりじりとした居心地の悪さが、胸を焼いた。

 諦めて私は会計を頼もうとした。ここで、メニューを頼む時と同じ問題に行き当たる。店員が、捉まらない。さすがに少し辟易した。

 時間はかかったが何とか店員に声をかけ、会計を済ませ、笑顔で「ごちそうさまでした」と告げる。店員もにこやかな笑顔で私を見送った。


 地下から地上へと上がり、銀座の街中に出て、私は少しだけ立ち尽くした。

 惨めだった。恥ずかしかった。やはり女一人で銀座のバーなど、無謀だったのだろうか。

 一人行動は得意な方だった。お一人様、ができないわけじゃない。

 連れとバーに行った時は、バーテンダーが季節のおすすめカクテルの話をしてくれたり。窓から見える景色を楽しんだり。落ち着いたジャズに、耳を澄ませたりして。

 それが、一人でも、できると思った。

 高級店なら尚更、初心者一人でも、優しく受け入れてくれるという幻想を勝手に抱いていた。

 逆だ。高級店だからこそ、エスコートのない女一人など、気にかけるに値しないのだ。

 嫌な顔をしたり、態度に出すような下品な真似はしない。しかし確かに感じた「お前のようなやつが来るところじゃない」という拒絶。

 被害妄想かもしれない。しかし何度振り返っても誰とも目の合わなかったあの空間に、私は存在していないように感じられた。私だけが、切り取られている。

 今まで私が受けた扱いは、「私」を見て客扱いしてくれたのではない。連れの「付属品」だから、私も一緒に客扱いしてもらえたのだ。

 所詮女一人など、私など、こんなものか。

 描いていた憧れがひとつ、砕け散った。

 こんな経験も、何かの糧にはなるだろうか。話のタネにはなるだろう、と私は自嘲気味に笑って、夜の銀座の街を独り歩いた。


 三十代になった私は、一人で居酒屋にも行くし、一人焼肉もするし、カラオケだって映画だって旅行だって一人で行ける。


 それでも。一人でバーにだけは、あの日から一度も行けていない。

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