第11話 クジラのいないクジラの絵

「施設長、塚本一郎つかもといちろうです。ええ、お久しぶりです。

お話したい事があるのですが、お時間頂ける日はありますか?

え?今夜で良いんですか?有難うございます。うかがいます。」


信じられないことに、調べてみると、ジョーに限らず、

この現代日本にもジョーのような人たちが、

少なからず存在していることが解った。


僕はあらゆる福祉団体に通じている、僕のいた施設の施設長を訪ね、

国籍や戸籍のない人達をサポートしてくれる団体を紹介してもらい、

小学1年から中学3年までの教科書を借りてきた。


「国籍や戸籍を取得するのには色々な条件と手続きがあるんだ。

お父さんが解らない場合はお母さんの側から調べて、

キミがあそこで生まれた証拠なんかを集めなきゃいけなくて、

手続きも認証も難しくて、時間がかかるんだ。

僕がキミと福祉団体や法務省の間に入るから、

キミは義務教育までを頑張りなよ。」


どっさり積まれた教科書の山に、


「俺死んだ。マジ死んだ。墓はよろしく!」


~と、

僕のベッドに倒れ込んで死んだふりをするジョーは、

また僕の部屋に戻って来ていた。


「僕に家庭教師されるのと、

僕が知ってるボランティアの先生に勉強見てもらうのと、

どっちがいい?」


「その知ってる先生って美人?」


「残念!リタイアした60代~70代の男性教師たちです!」


僕はふざけて蹴りを入れながら、ジョーを起こした。


「冗談だってぇ!

俺、もうイッチなしじゃ生きていけない体になりましたー!」


そう言って履いていた靴下を脱ぎ、

片方づつ別の方向に投げ飛ばすジョーの世界は、

小3の僕の時のように、

彼のお母さん秘伝の呪文が効き始めていた。


もう母親の入院費を払わなくて良くなったジョーは、

無理していた夜の仕事を辞め、

気に入っていた山田親方の招集があれば働き、

生活の細々したものの費用や食費、自分の携帯代などを稼ぎ、

夜間中学に通うようになっていた。


彼のように特別な事情があれば、

戸籍や国籍がなくても希望すれば小学校を飛んで中学入学が認められ、

夜間中学では小1~中3までの義務教育が受けられる。


仲間がいて、心開けば、例えそれが偽善や義務からであろうと、

手を差し伸べてくれる人たちがどこかにいる。


手が差し伸べられたなら、それはもう偽善や義務ではなく、優しい世界だ。


僕は、僕がずっと勉強し続けてきたことや、

施設で育ったことの知識と人脈をフルに使って、

この幽霊を幽霊じゃなくしようとしていた。


ジョーの将来を良くするには、まずはそこからなのだ。


僕は、僕らの全ての苦しみや悲しみ、出来事が、、

多分今のこの地点に僕らを通じさせるために起きたのだとさえ思う時がある。


リコたん♪:ジョーさん、いい意味でキモいよね。


リコとその友たちは、

ジョーが僕の部屋に定住するようになってからすぐ、

鍋パを口実にしたジョー偵察に来た。


仕事中の彼とは全く違う、

恥ずかしげもないパンイチの出迎えと、脱ぎ散らかし、

勝手に鍋の好きなものだけ全部食い、

勝手にみんなのバッグやポーチを開けて散らかすさまを実際に見て、

かなりゲンナリしていたが、

何してもかっこいいので受け入れることにしたらしい。


僕が色々な団体員や大学の使えそうな教授たちに会い、

ジョーを紹介する中、

彼は彼の生い立ちや行動から、何らかの精神的問題があると見る人もいたが、

僕はむしろそんな彼といるのが楽しくて、心地良かった。


「彼のような人は、他の人よりもIQが高いか、

優れた点を必ず持っています。

全てを詰め込ませるのではなく、それを伸ばすのも道ですよ。」


彼を紹介した人の中に、そう言った人がいた。


確かに、彼が好きなものに集中する時の集中力には驚く事があり、

彼には意外な才能も眠っていた。


ある日、

僕が自分の勉強に集中していて、

ジョーに小学4年生の算数ドリルをやらせていた時、

数字にめっぽう弱い彼はドリルをやらず、

別のノートに見事な砂浜の絵を描いていた。


「ジョー!キミ凄いよ!何見て描いたの?」


怒る気よりも先に、

ジョーの絵が写真のようにリアルであまりに素晴らしすぎて、

僕は驚かずにはいられなかった。


多分”スーパーリアル”ってやつだ。


「前に山田の親方の家で飲み会あった時、

TV観てて見た、どっかの海だよ。

後でアレが出てくるんだ!気に入った?」


ジョーは僕のクジラのぬいぐるみを指差した。


クジラのいないクジラの絵。


クジラは見えなくてもそこにいて、海の底の奥深くで僕らの心のように対話する。


僕たちが世界の崩壊を共有した日から、

僕らははもう強がって自分の中の幽霊を隠さなくていいし、

何でも補い合って、共有できる。


多分ジョーはクジラ好きの僕を喜ばせたくてその絵を描いただけだろう。


こういう常人離れした対象物の描き方は、

人によっては彼の中に問題のある事を示している証拠と言うのかも知れないが、

僕にはそれこそが僕たちの象徴しょうちょうのように思えた。


「気に入ったよ。ありがとう。

でもせめて中学3年になるまでは、真面目に勉強してくれる?」


僕は微笑み、ジョーはつまらなそうな顔をしてドリルに戻った。


僕は数学が得意だけれど、絵は苦手だ。


本当は、

これから先の人生で、

僕が全ての計算をキミの分までするから、

キミにはキミの世界の絵を自由に描いてほしいと僕は思っていた。


明日、僕はこの絵が入る額縁がくぶちと、

水彩色鉛筆セットとスケッチブックを買いに行くだろう。

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