第5話 婚姻誓約書を手に入れよう1
カナガン伯爵は、ケニアが公爵と出て行ってから、魂が抜け落ちてしまったように、ソファに呆然と腰掛けたままだった。
「デルタ様・・・・大丈夫ですか?」
執事のギタは、主人であるカナガン伯爵の顔を覗き込んだ。人が視界に入ってきたことで、漸く気を取り戻した伯爵は、
「しまったぁー!あの軽薄な公子の嫁に出してしまったぁー。」
と顔を両手で覆いながら、立ち上がり叫んだ。
「今更でございますよ。旦那様。」
侍女長のマイナが溜息交じりに反論した。
伯爵は侍女長に顔を向けて
「じゃぁ!ケニアを止めてくれたら良かったじゃないか!」
と八つ当たりを始めた。
「旦那様、侍女ごときが公爵様の意見に反論出来る訳がないじゃないですか。しかも、返事をされたのはお嬢様ですよ。反論したところで、『私の衣食住のお金が減ってその分貯蓄が出来るじゃない。』と仰られて終わりですよ。」
伯爵もそこは理解しているようで、ぐっと押し黙った。ケニアは本当に良く出来た子で自分よりも周りを大切にする。だから領民にも慕われている。
「領民たちがお嬢様の嫁ぎ先を聞いたら暴動が起こりかねませんね。旦那様の味方になってくれるルーベンス様に早馬を出して、領民に知られた時の対応をお願いしたらいかがでしょうか?」
ルーベンスは、母親似の青銀の髪にワインレッドの瞳を持つ背が高く、農作業で鍛えた細マッチョの好青年を絵にかいたような人で、領地のアフィトでは誰からも慕われている自慢の甥である。領地を見回りに行けば、若い女の子が群がる位には人気がある。ゆくゆくは、ケニアと結婚をさせて、自分と弟夫婦と同じように、弟の補佐を夫婦でやって貰うつもりでいた程に、信頼もしている。ただ・・・・・問題は、婚約の打診をルーベンスにはしていた事だった。しかもルーベンスはケニアに恋愛感情を持っている。
「約束が違うって、ルーベンス怒らないかな?」
「では、領民の代表としてルーベンス様に殴られては如何ですか。」
無表情の侍女長から非情な言葉が飛んで来た侍女長マイナは、カナガン伯爵の亡き妻エレンが輿入れして来る時に着いて来たエレンの侍女だった。
「マイナちゃん冷たいよね。」
「亡き奥様の代わりですから。私以外に誰が旦那様を諫められますか?」
伯爵は、項垂れて、言葉を発しなかった。その間にギタは封筒と便箋と封蝋の準備を終えて、伯爵の前に並べた。
「ルーベンス様は旦那様を殴ったりはしませんよ。」
ギタは優しい言葉をかけるが、ケニアに恋愛感情を持っていて、ケニアと結婚を夢見ていたルーベンスが黙っているわけはない。カナガン伯爵はペンを走らせて、現状を箇条書きにした。伯爵自身も動揺をしていて、詳細に書くと、何を書いているのか解らなくなってしまい、書き直した結果箇条書きという抜けが多い手紙となってしまった。領地まで早馬で一日。きっとルーベンスが受け取るころには婚約してしまっている可能性が高い。
(ごめんね。ルーベンス)
と心の中で謝罪をして手紙をギタに渡した。
☆☆☆
マティスとアンゲルは、その時には王宮に居た。国王に面会を申し入れて、宰相を脅してまで時間を捥ぎ取り、謁見の間に漕ぎつけた。
「誰と誰が結婚するって?」
このやり取りは早三回目となった。どうも宰相も国王もマティスの言葉が理解出来ないらしい。
「此処まで来ると、最早嫌がらせでしかありませんね。」
国王だと言うのに、マティスは睨みつける。
「いや、マティス。誰が聞いても可笑しいからね。デビュタント前の十二歳の少女と十九歳の男との結婚だよ。婚約じゃないんだよ。可笑しいだろう君もそう思うよね、ガスト。」
振られた宰相は、言葉にはしないが、コクコクと頷く。
「ランドルフが結婚できなくて、公爵家が没落しても良いのですか?」
「ランドルフが結婚出来ないなんて事はないだろう。あんなに浮名を流しておいて。ねぇガスト。」
また宰相は、コクコクと頷く。
「我が家の嫁はだれでも良い訳ではありません!大体息子がこうなったのは、デビュタントの会場にあんな女を招待したことから始まっているのですから、王室にも責任の一端はあるのですよ!」
「マティス、それを世間では言いがかりっていうのだよ。そうなったのは、ランドルフ自身の問題だろう。もし誰かに責任があるのなら、それはそんな風に育てた親だと思うのだけど。ねぇ、ガスト。」
これには宰相は頷かなかった。マティスが怖いから。
宰相が頷いてくれると思っていた陛下は、宰相が頷かないことで勢いが失速する。
「サインを下さい。」
紙を陛下に突き付けた。流石にそこまでされてしまうと、マティスに弱みを握られている立場ではノーが言えなくなる。
「サイン・・・・・しませんか?・・・そうですか。仕方が在りませんね。アンゲル。」
とまで言うと半分腰を上げて、マティスに手を向けて制する。
「待って!待って!書くから!書かないなんて言ってないから。」
宰相がマティスから紙を受け取り、陛下の前にペンと一緒に差し出す。
「相手は・・・・ケニア・カナガン・・・?え?え?あの子?いや、困るよ。家の次男に狙っていた・・・。」
「はぁ?何ですって?」
眉間に皺を寄せてきつく陛下を睨め付ける。その様は殆ど下町のギャングと何ら変わりがない様相だった。
「嘘です。うん・・・お似合いだよね。お金をパラパラと湯水のように使う人と、お金を一生懸命に働いて貯める人。今王国で一番の高納税者は間違いなく公爵家だよね。・・・・・そうだよね。取られたくないもんなぁ。」
溜息を吐きながらゆっくりとサインをする。マティスの顔は見なかった。急かされそうで怖いから。
「これで良いかい。」
陛下から宰相が受け取り、マティスに渡した。サインを何度も確認をして、
「ありがとうございます。では五日以内には、結婚証明書を提出させて頂きます。もし、仮に他のものがランドルフとの結婚証明書を提出しても受理は絶対にされないようにお願い致しますよ。」
マティスは最後の最後まで睨め付けることは辞めなかった。扉に手を掛けると、そうそう。と言葉を紡いだ。
「今回のお礼に陛下には、我が領地で採れたレモンで作ったレモンソルベを持参していたことをすっかりと忘れておりました。アンゲル。」
呼ばれたアンゲルは、箱から更なる箱を取り出して宰相に渡した。受け取った宰相は表情を明るくした陛下に差し出すが、中身を見た陛下の表情は苦虫を潰したような表情に変わる
「溶けているじゃないか。」
「それは私のせいではなくて、ゆっくりとなさった陛下のせいですよ。では。」
閉めた扉の向こうから、二人の男が
「やっぱり公爵領で作られたレモンのソルベは最高だな。」
と喜ぶ声が聞こえた。甘いものが大好きな陛下と宰相の趣味は、マティス以外まだ誰も知らない秘密である
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