入院
「伊織さん!気が付きましたか?」
そんな声で目が覚めた伊織の視界には知らない天井が広がっていた。
「ここは?」
「病院ですよ。昨日の夜にコンビニの前で倒れていたんです!」
首を少し横に向けると、バインダーを脇に抱えた看護師が状況を説明してくれた。
伊織はいつも通りの買い出しの為にコンビニへ向かっていたのだが、コンビニを前にして倒れてしまったそうだ。
伊織自身もコンビニが見えてきた辺りで記憶が途絶えているので看護師が言っている内容と合致する。
「これから先生を呼んできますので待っていてください。もし何かあればナースコールをお願いしますね」
「お願いします」
そう返すと看護師は笑顔で礼をして病室を後にした。
緊張していた体の力を抜いてベットに体を預ける。普段とは全く違う環境なので普通ならそれに驚いて安心や落ち着くことなんてできないのだが、なぜか伊織は体が軽くなったような感覚を覚えたのだった。
◇
「病室はこのままになりますので」
看護師が呼んだ医者はそう言って病室を後にした。
診察の結果、栄養不足と睡眠不足と診断された。
(過労って言われなくてよかったな、もしそう言われたら...おじさんに迷惑が掛かっちゃうし)
経過観察のためにもう一晩入院することになった伊織は、再び病室のベットに体を預けながらそう思った。
久しぶりの静かな一人だけの空間。それを楽しむように伊織は意識を深く沈みこませた。
◇
ややあって、伊織は病室の扉を叩く音で目を覚ました。
「どうぞ」
何も拒む理由なんてないので伊織はそのまま来訪者を部屋に招き入れる。
「一週間ぶりですね、伊織さん」
「なんであなたがここに...」
病室に入って来たのは看護師や医者でもなくサクラだった。
「実はこの病院は知人がやっているのでそこの繋がりで」
「そうだったんですね」
こんなイレギュラーな場所で会うなんて思ってもいなかった伊織は話題に困って言葉を詰まらせる。
「こんな時に聞くのもアレだと思うんですけど、移籍の件。検討していただけましたか?」
至極真面目な視線が伊織を貫く。伊織はそれに耐えられなかったのか視線を横にずらしてしまう。
「まだ...答えは出てないんです」
「もしかしてですけど、あなたの叔父様に迷惑が掛かるとお考えになっているのではありませんか?」
まさに彼女の言う通りだった。
「まだ...残している仕事があるので」
一瞬サクラの瞼が大きく開く。
見えてしまったのだ。伊織に潜む暗い影にある重い鎖が、雁字搦めに彼を巻き付けているのを。
だからこそ彼女は強引に行かないと彼の鎖は取れないと確信した。
「この際だからはっきり言いましょう。声を一つでも上げれば労基が飛んでくるような環境ですよ!どうしてそこまで固執してしまうんですか!?」
距離を詰めて言ってみるが、伊織は言葉を詰まらせて黙ってしまう。
「あまり強引な言い方はしたくなかったのですが、しょうがないですね...」
サクラは一拍置いてまるで漫画のようなセリフを口にした。
「何がお望みですか?あなたが望むものは可能な限り用意しましょう」
あまりにも大胆。そして大雑把に言われた伊織は当然とまだ戸惑いの表情を浮かべる。
「どうして...そこまでしてくれるんですか?」
中学生の頃に両親を同時に亡くし、遠縁の親戚をたらい回しにされた末にたどり着いたのが今の環境だ。
世間や大人がどれだけ冷たくて怖い生き物か、小さなその身をもって体感した伊織は、次の場所へ進む恐怖を誰よりも知っている。
どうしても「そこに自分の居場所があるのだろうか」と考えてしまい、曲がりなりにも歪な形であっても居場所がある今に浸っていた方が良いのではないかと思ってしまうのだ。
「...貴方の居場所になりたいんです」
一回息を置いてサクラは告白した。
その光が歪んで見えるほどに潤んだ瞳は伊織を揺らすには十分だった。
「...僕、検査入院をする必要があるらしいので、もう一晩ここにいるんです」
まるで自分に説明をするように伊織は言った。
「この病院を出るときまでには答えを出します。だから、もう少しだけ時間をください」
伊織は今自分にできる最大の礼でサクラに返した。
「前も言いましたけど、これは伊織さんの人生を決める選択です。伊織さんが納得できる答えを聞かせてください。本当なら「いくらでも待ちます」と言った方が良いのでしょうけど、あいにく私はそこまで待てないので...貴方が決めた明日にちゃんと答えをもらいますからね!」
これまでの重い空気を払拭するかのようにサクラはいつも通りの笑顔でそう言った。
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