9
玄関のチャイムが鳴っている。
はっと顔を上げると、体中が強張っていた。食べたままの汚れた皿が目に入り、どうやらテーブルに突っ伏して眠っていたようだった。ぼんやりとした頭で手を伸ばし、皿の間にあった携帯の画面を見て、七緒は眉を顰めた。
二十三時、…五十分?
こんな時間に?
チャイムは一度鳴ったきりだが、ドアの外に人の気配を感じる。
この気配は…
七緒は立ち上がってふらふらと廊下を歩き、玄関を開けた。
「…はい」
「寝てた?」
開けるなりそう言われて、七緒は一瞬何と答えようかと迷った。
だが、結局はありのままを言った。
「まあちょっと…、なに、篤弘」
部屋の明かりを受けて眩しそうに立っているのは篤弘だった。制服のままなのは塾の帰りだからか、明日は土曜日だし、休日前はこれくらい遅くなることもあると以前聞いた気がする。
「今帰りか?」
「ああ、休み前だしな」
「そっか、で、どうしたんだ?」
篤弘はそこで何かを言いかけてやめた。それにしても、いくら休み前だからといって、家とは真逆の方向にある自分のアパートを訪ねてくる理由にはならない。しかももうこんな時間だ。訪ねてくるには少し遅すぎる時間。
あ、と七緒は思い立った。
「もしかして連絡くれてた? おれバイトから帰ってすぐ寝ちゃってたから…」
気づかなくて、と言うよりも早く、篤弘がぐいとドアを掴み大きく開いた。掴んでいたノブが手から剥がされて、七緒は前のめりになって一歩前に踏み出した。
「ひとり?」
「はあ?」
何のことか分からず聞き返すと、篤弘は一瞬で苛立った空気を纏った。
「は、じゃねえよ。ひとりかって聞いてんの」
「なんでそんな」
「聞いてんのはオレだろ」
「──」
息を呑むと篤弘は小さく舌打ちをした。
「答えろよ」
「だから、──」
篤弘は困惑する七緒を押し退けると、玄関の中に入り込み乱暴に靴を脱ぎ捨てた。止める間もなく大股に廊下を進みリビングに入っていく。
「ちょ、っ、篤弘……っ」
何度かここに来たことがあるとはいえ、あまりにも勝手が過ぎる言動に七緒は慌てた。
「あのなあ、いい加減にしろよ」
どこかおかしい。
けれど篤弘の体は何にも変化はない。いつもべったりと貼りついている揺らめきも、もやもやとした陽炎のようなものさえ一遍も視えなかった。
こんなに苛立っているのに。
「篤弘、なあ、…誰もいないだろ?」
大体誰がいると思っているのか。
(──)
ふと、脳裏をよぎる。篤弘の考えているそれが誰なのか思い当たってしまい、七緒の胸がぎゅっと痛んだ。
それはない。
大体梶浦は、多分まだ帰っていない気がする。
なぜそうだと分かるのか。上手く説明は出来ないけれど、ただ気配がしないからだと七緒には分かるのだ。
「…ほんとに誰もいねえな」
「当たり前だろ」
ちらちらと目の前を何度もあの場面が過って、七緒は篤弘の背中に答えながらきつく目を閉じた。
おれどうしたんだ?
ゆっくりと篤弘が振り返った。
「なあ、オレ今日泊まっていいか?」
「…は? 何言ってんの」
「な、いいじゃん。明日は休みだし。七緒は予定ないだろ」
戸惑っていると篤弘は畳みかけるように七緒に迫ってきた。
篤弘も、他の誰も、この部屋に泊めたことはない。泊めることが嫌なわけではないけれど、何となく七緒はそういうことを避けてきたのだった。大人数と生活を共にしていたのだから誰かと一緒にいることには慣れているはずなのに、時々篤弘が冗談交じりに泊まっていこうかな、と言い出すたび、落ち着かない気持ちになった。
そういうときは学校やバイトを言い訳にして適当に誤魔化していたのだが…
でも今回はきちんと断る理由がある。
「ごめん、明日は施設に行くことになってて…」
帰る途中園長から連絡が入り、施設の子の誕生会に招かれたのだ。
『急で悪いね。もし良かったら来てやってくれないかな、七緒に会いたいのを我慢していたらしくて…、中々言い出せなかったみたいでね』
もちろん行くと返事をした。バイトは夕方からのシフトだから、朝出てそれに間に合うように帰ってくればいい。
「それ何時?」
「いや、昼前に着くように出るから」
「ならそのとき一緒に出れば良くね?」
「…──」
それはそうだが。
でも出来れば今日はひとりでいたい気分だ。
この気持ちを篤弘にどう説明したものかと黙り込むと、また一歩篤弘が七緒に近づいてきた。
「だろ?」
思わず半歩後退ると左の二の腕を掴まれた。
「そうなんだけどさ、…悪い、今日は」
「…ダメなわけ?」
「明日用事あるって思うとゆっくり出来ないからさ、また今度来いよ」
「今度? じゃあ来週ならいいわけか?」
「来週って──」
「今度ならいいんだろ? 来週丁度連休だしいいよな?」
いい、と頷かなければこの場を引きそうにない。
とりあえず了承だけして後で断ればいいだろうか。
一度泊まれば、篤弘は気が済むだろうか。
「な? いいんだろ?」
篤弘から、今までに感じたことのないような圧迫感を感じ、七緒は息苦しくなった。なぜだろう。篤弘は何も纏ってはいないのに、どうしてこんなに一緒の空間にいることが辛いと感じるのか。
「あのさあ、黙ってちゃ分かんねえんだけど!?」
篤弘に詰め寄られ、七緒は壁際に追い込まれた。背中に壁が当たると、すかさず篤弘が壁に手をついて七緒を囲い込んだ。
「…っ、篤弘っ」
いい加減にしろと顔を上げ睨みつけるが、篤弘は少しも怯むことなく、その顔を近づけてきた。
なあ、と低い声で言う。
「嫌なのかよ」
「そうじゃないって…!」
篤弘はわずかに息を呑むと、言葉を続けた。
「この壁の向こうにあいつがいるから?」
「何言って…」
「だから嫌なのかよ」
「──」
ひやりと腹の底が冷えていく。
なんだこれは。
おかしい。
どうしてこんなことになっているんだ。
どうしてこんな──篤弘は。
篤弘はどうして。
いつもよりずっとその体は普通だ。
何も纏っていないのに。
「あつ…」
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴って、はっと篤弘が顔を上げた。
「誰だよこんな時間に」
チャイムは篤弘のときと同じように一度きりだった。
時間を考慮してのことなのか、気配はドアの向こうに静かにとどまっている。
誰がいるのか七緒には分かった。
「ごめん」
気を取られている篤弘の腕を押しのけて、七緒は玄関まで足早に歩いた。もういい加減遅い時間だ。どこからか苦情が出てもおかしくはない。
「──は、い…っ」
ドアはほんの少しだけ開いていた。それを勢いよく七緒は外に押し開ける。
冷たく澄んだ空気が辺りを満たした。
「悪い、こんな遅くに」
梶浦が声を落としてそう言った。
「これ、…どうした?」
「なん、でもないよ。今、友達来てて」
七緒の顔を見るなり眉を顰めた梶浦に、七緒は慌てて首を振った。それを見ていた梶浦の視線がふっと廊下の奥にずれる。それを追って七緒が振り返ると、廊下の中程に篤弘が立っていた。
ぎく、と体が強張る。
そうだこのふたりは昨日──
「こんばんは、先輩」
梶浦の言葉に、篤弘は顔を歪ませた。
「なんだよおまえ、こんな時間に」
「先輩こそ」
「オレは──」
篤弘はそこで言葉を切った。梶浦を睨みつけ、十秒ほどたっぷりと間を置くと、視線を外し玄関の方にゆっくりと歩いてきた。
「帰るわ」
「え…」
「来週は約束だからな、七緒」
「篤弘…っ」
靴を履き、玄関を塞ぐようにして立っている梶浦を乱暴に押しのけて、篤弘は玄関を出て行った。慌てて追いかけようと七緒も外に出たが、篤弘はもう階段を下り切っていた。上から見下ろすと敷地を走って出て行く後ろ姿が、溶けるように夜の闇に紛れて見えなくなった。
「……」
なんだったんだ。
はあ、と七緒は大きなため息をついて玄関先に座り込んだ。深く息を吸い込んで吐き出すことを繰り返す。あの息が詰まるような閉塞感は跡形もなく消え去っていた。まるで篤弘が全部持って行ったみたいに。
「大丈夫か?」
「…うん」
すぐ目の前に梶浦がいた。いつの間に閉めたのか、玄関は閉ざされていた。
「これを返しに来たら、声が聞こえたから」
彼が持っていた紙袋から、今朝渡した弁当箱が出て来た。手渡されたそれを何気なく開いてみると、ぴかぴかに磨かれていた。
「洗ったんだ…?」
「なんで、当たり前だろ」
困ったように梶浦が微笑んだ。
それを見て、ほっと体が緩んでいく。ふわりと暖かくなり、自分がどれだけ緊張していたのか、ようやく七緒は気がついた。
「…ありがと」
言ったそばから寂しさが込み上げてきた。
帰りの道で見かけた光景がまた目の前に現れる。
「お礼に、明日どこか行かないか?」
「…え?」
驚いて七緒は顔を上げた。
「おれと?」
「他に誰がいる?」
可笑しそうに目を細めた梶浦に、七緒は目を瞬いた。
あの人と一緒にいないんだろうか。
あの女の人と。
休日なのに。
「休みなのにいいのか?」
「休みだから言ってるんだけど」
「…そうだけど」
そうだけど。
いいんだろうか。
おれと一緒にいて。
「あ、…でも」
七緒は思い出した。明日は施設の誕生会なのだ。
「おれ、明日、施設の誕生会に呼ばれてて」
「施設?」
うん、と七緒はごく自然に頷いた。
「おれ親が早くに死んじゃって、施設で育ったから」
「そう」
残念だ。
誕生会には行きたい。でも、梶浦とも一緒にいたいと思った。もっともっとたくさん、彼と話をしたい。
もっと一緒にいたいのに。
どうしようもない気持ちで胸がいっぱいになったとき、梶浦が言った。
「それ、俺も行っていいかな」
「え…?」
「誕生日会」
梶浦が、施設に?
梶浦と一緒に?
「なんで…?」
「七緒が育ったところを見てみたい」
「ただの施設だけど」
「見てみたいよ」
「……」
園長はいつも、誰かを連れて来てもいいよと子供たちに言うけれど、誰も友達を呼んだことはなかった。
おれもそうだ。
誰かに来てもらいたいなんて思ったことはなかった。
園のみんながいればよかったから。
なのに。
「うん、じゃあ…明日」
パーティーは人が多いほどいい。
一緒に行こう、と梶浦に言うと、彼は微笑んだ。
「ああ」
「詞乃って変だよな…」
明日の半分を梶浦と過ごす。
そう思っただけで七緒の胸は知らず高鳴っていた。
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