8


 物心ついてすぐに夢を見るようになった。

 知らない景色、知らない音、知らない声。

 見たこともない世界で笑っている懐かしい人。

 懐かしい?

 どうしてその人を懐かしいと思うのか分からない。でも、ただひたすらに会いたいと思った。

 会いたくて、もう一度…

 やがて歳を重ねるにつれ、梶浦は思い出したのだ。

 どうして自分が夢を見続けるのか。何度も同じ夢を、繰り返して。

 記憶の断片を掻き集めるように。

『……そうか』

 生まれる前に出会っていた。

 今、ここにいるよりもずっと前、親も祖父母もその前の人たちも皆みんな──生まれるより前に。

 そして自分はずっと探している。

 ずっと、今だけじゃない。

 もうずっと長い間。気の遠くなるような長い間。

 その人だけを探して生き、死んでいくことを繰り返していたのだと。



 目が覚めると部屋の中は明るかった。部屋の中がほの白い光に満ちている。

 朝だ。

 瞬きを繰り返して七緒は起き上がった。

 昨日の気怠さはもうすっかり消えてしまっている。テーブルの上にあった携帯に手を伸ばして時間を確認するとまだ六時前だった。

「し…」

 思わず部屋の中に声を掛けてから、気配がないことに気づく。

 それはそうだ。

 昨日はこの部屋で早目の夕飯をふたりで食べ、梶浦は自分の部屋に帰って行った。七緒は梶浦を見送った後に眠ったので彼がここにいるわけはないのだ。玄関の鍵はかけているのだし。

 梶浦の部屋の方の壁をなんとなく見てしまい、七緒は慌てて顔を元に戻した。

 なにやってんだろ、おれ。

 この向こうにいるとか──

「変だろさすがに…」

 このあいだからどこか自分はおかしい。

 知り合ったばかりの年下の隣人に妙な具合に翻弄されている。

 その行動のひとつひとつに目が向いてしまうのは、どうしてなんだろう。

 昨夜、初めてふたりで食事をした。梶浦はそれほど話をするほうではないけれど、とても楽しかった。

 彼の傍は居心地がいい。

 すごく…

 ピ、と携帯の目覚ましが鳴り出して、はっと七緒は我に返った。

 六時だ。

 ベッドから下りて顔を洗いに行く。キッチンの前を通りかかったとき、ふと思いついて冷蔵庫を開けた。

 よし、いけそう。

 小さく頷いてかすかに笑みを浮かべると、顔を洗いに立ち上がった。

 急げば間に合うだろう。

 


 教室の七緒の席には篤弘が座っていた。

「おはよう」

「具合は?」

 挨拶を返しもせずに篤弘は憮然とした表情で七緒を見上げている。

「もう全然いいよ。悪かったな、昨日は」

「…別に」

 ぼそっと呟くと篤弘は席を立った。七緒は鞄を下ろし、席に座る。椅子は篤弘の体温が移り温かかった。一体いつからここにいて自分を待っていたのか、訊こうと思ってやめた。

 思えばこんなことはいつものことなのだ。

「なあ、今日はバイト行くのか?」

「行くよ? 店長から嫌味言われるし」

 バイト代が減るのも嫌だし、と続けると篤弘は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「あんなバイト辞めちまえよ」

 七緒は苦笑して顔を上げた。

「そういうわけにはいかないの。こないだひとり辞めたばかりだし、おれは生活費稼がなきゃならないんだから、そんな簡単に辞められないだろ」

「うちに来いよ」

「はあ?」

 突拍子もない言葉に七緒は思わず声を上げた。

「うちの親の会社、バイト募集してるって聞いたしさ、そのまま就職も出来るかもしれねえじゃん」

「何言ってんの…」

 篤弘の親は中規模の会社を経営していると聞いたことがある。業種は七緒が聞いてもよく分からないものだったが、業界ではそこそこ名が通っているそうだ。関連施設で人を多く雇っているとは話の端々から知っているのでバイトの募集はありそうな話だったが、そんなに話が上手くいくわけはない。

 それに。

「おれやだよ、友達の親の会社で働くのとか」

「なんでだよ」

「だって…」

 篤弘にそんな気持ちはないのは分かっているのだが、七緒は釈然としないのだ。

 だって、まるでコネを使っているようではないか。

 施されているようで、憐れまれているようで、落ち着かない。

 でもそんなことを篤弘には言えない。

「だってさあ、そんなことしたら篤弘に優しくしなきゃなんないじゃん」

「はあ?! なんっだよそれえ!」

「そうだよなー、雇い主の子供には逆らえなくなっちゃうよなー」

 近くで聞いていたのか、クラスメイトのひとりが茶化して笑った。

「な、そうだよなやっぱ」

「奥井やめとけよ、バイト辞めらんなくなって一生森塚にこき使われるぞ!」

「離れらんねえじゃん」

「しねえよそんなことっ」

 ムキになって食ってかかる篤弘に七緒は声を上げて笑った。周りのクラスメイト達にあっという間に囲まれて、篤弘はそちらの会話に夢中になっていく。

「奥井くんおはよお、もういいのー?」

 茉菜がわいわいと騒ぐ連中を横目に見ながら七緒に言った。

「うん、もう全然いいよ」

「良かったね」

 ちらりと篤弘を見て、茉菜は小声になった。

「ねえ、ほんとにゆっくり休めた…?」

「寝まくったよ、ありがと」

 携帯を切っておけと言った茉菜の意図が分かり、七緒は苦笑しながら答えた。


***


 昼はいつものように食堂に行った。生徒たちで混雑する中、弁当の入った鞄を持ち席を探していると、近くのテーブルにいた沢田が手招きをして七緒を呼んだ。

「なな、こっち! こっち空いてる」

 頷いて近づくと、沢田と向かい合う席がふたつ空いていた。七緒は椅子を引いてそのひとつに座った。

「瑛司ありがと、タイミングよかったな」

 あれ、と瑛司は周りを見回した。

「篤弘は?」

「あ、委員会。先行っといてくれって」

「ああ委員会ね。あの面倒なやつ」

「瑛司が押し付けたんだろ」

「だってさあ…」

 いつものように篤弘は教室まで七緒を呼びに来たのだが、食堂に向かう途中で所属している卒業式の実行委員会のメンバーに掴まりそちらに行ってしまった。別れ際にすぐに終わると言っていたので、もうそろそろやってくるだろう。

「何で自分たちの卒業式をプロデュースする委員会とかあんのかねえ、わけわかんないわ」

「そりゃ代々受け継がれてるからだろ」

「今年でやめにしてやろうぜえ」

 ずるずるとラーメンを啜る沢田に笑いながら七緒は弁当の包みを開けた。

 あっ、と沢田が大声を上げた。

「七緒! なにそれめちゃくちゃ美味そうじゃん!」

 沢田の声に周りの人の目がこちらを向く。そんなことはおかまいなしに弁当の中にくぎ付けになっている沢田に七緒は苦笑した。

「今日早く目が覚めたからさ」

「肉じゃが入ってる、これ作ったの? すごくない?」

「ああ、いや、これは…」

 七緒は曖昧に笑って言い淀んだ。

 この肉じゃがは昨夜の夕飯だ。

 梶浦が作ってくれた。

 鍋いっぱいのそれをふたりで半分ほど食べて、今朝残りを弁当にしようと思いついた。

(あ)

「ええ、これちょっと食べていい?」

 いいよ、と返事をしながら、七緒の視線は瑛司の斜め後ろに向いた。入り口から入ってすぐのテーブルに梶浦が座っている。クラスメイトと一緒の彼は、弁当を食べていた。

 あれは今朝、七緒が自分の分と一緒に作った弁当だ。

 梶浦のために、昨夜のお礼がしたいと思ったから。


『おはよう』

 ドアを開けた瞬間、梶浦はそこにいた七緒に驚いた顔をした。いつもは梶浦が七緒を待っているのだ。

 だが今日は七緒が先にいたかったのだ。

 間に合ってよかった。

 七緒はほっと安堵した。

『…お早う、調子は?』

『いいよ、元気になった』

『そう』

 よかったと柔らかく綻ぶ表情に七緒も知らず笑顔になった。梶浦はわずかに目を細めると七緒と並んで歩きはじめた。

 ここ最近はずっと、こんなふうに登校するのが常になっている。

『昨日はありがとう、あの、いろいろ…』

『それはもう昨日聞いた』

『いやそうなんだけど』

 いいじゃん、と横を見ると梶浦の横顔は可笑しそうに笑っていた。口元から吐く息は白く、今朝は一段と冷え込んでいる。澄んだ空気の中に冬の匂いがする。

『えー、と…、それであのさ』

 鞄を開けながら七緒はもごもごと言い、まだ少し温かい包みを取り出した。

『これ、良かったら食って』

『え?』

 驚く梶浦に、七緒は手の中の弁当箱を押し付けた。

『き、昨日のあまりで作ったから、ほぼおまえの味だけどっ』

『……なに?』

『弁当! 卵焼きだけは作ったから!…』

 ほらっ、ともう一度押し付けると梶浦はようやく受け取った。

 なんでこんなに緊張するのか自分でもよく分からない。

『あ、もうこんな時間じゃん、行こ』

 目的がようやく果たせてほっと息を吐いていると、梶浦がぼそっと何かを呟いた。

『え?』

 何か言っただろうか?

 振り向くと、顔を上げた梶浦と目が合った。

『ありがとう』

『──』

 その声音に一瞬声を失った七緒だったが、すぐに気を取り直し、だからあまり物だって、と言い返した。



 自分でも本当に、なぜあれほど緊張したか分からない。

 ただの弁当だ。

 これまでにも施設の下の子供たちに作ってあげたことは何回もある。

 なのに…

 何となく目が離せなくてじっと見ていると、弁当の中に視線を落としていた梶浦が、卵焼きを摘まんで口に入れた。

 よかった。

 食べてくれてる。

 ほっと胸を撫で下ろしたとき、顔を上げた梶浦と目が合った。

 ぎょっとしていると、梶浦は目元を緩めて七緒に笑いかけた。

「えっうまっ、七緒上手すぎない?!」

「あ、えと…」

 沢田に気を取られ一瞬目を離すと、梶浦の視線はもうこちらを見ていなかった。

 あ…

 ちくりと胸が痛む。

「おー篤弘じゃん」

 やっと来た、と言う沢田の声に我に返ると、篤弘が別の入り口からこちらに来るのが見えた。七緒たちに気づいて軽く手を上げ、注文するために入り口の方に向かった。やがて梶浦のテーブルの横を通り過ぎ、篤弘はテーブルにやって来た。

「遅かったな篤弘」

「おまえが言うな」

 揶揄う沢田に面白くなさそうに篤弘は言い返した。

 篤弘の不機嫌さには七緒同様慣れている沢田は、気にすることなく篤弘に話しかけた。

「なあ、ちょっとこれ見て、すげえ美味いの」

「あ?」

「七緒の弁当」

 沢田は得意げに、七緒が食べている弁当箱を指差した。

「この肉じゃがめちゃめちゃうまい」

「おまえ、また七緒のを取ったのかよ」

「違うってー」

 七緒がくれたの、と言う沢田にため息を吐き、篤弘は七緒の弁当を見やった。

 ふと、篤弘が眉を顰める。

 なんだろう。

 七緒は篤弘の顔を覗き込んだ。

「どうした?」

 何か変なものでも付いてるだろうか?

「いや、…」

 篤弘はちらりと七緒を見て、カウンターで買って来たパンに手を伸ばした。袋を破き、中身を取り出そうとして手を止め、七緒を向いた。

「その卵焼き食いてえ」

「え?」

 あー、と沢田が笑った。

「篤弘人のこと言えねえじゃん」

「うるせえな」

 篤弘の背には揺らめきは見えない。

 まだ。

「いいよ、ほら」

 弁当箱を差し出すと、篤弘は指で摘まんで卵焼きを食べた。

「ななーずるいー俺もー」

「瑛司はさっき食っただろ」

 沢田に苦笑していて七緒は気づかなかったが、篤弘の目はずっと七緒を見つめていた。

 その奥にほんのかすかな揺らめきを湛えて。



「お疲れさまでしたー」

 バイトが終わり、七緒は店の裏口からパートの人たちに混じって店を出た。敷地の出口で別れ、バス停へと向かう。パートの女性たちは家庭を持っている人が大半で、遅い時間の帰りは、皆車か自転車だ。バス停へ向かうのはいつも七緒ひとりだった。

 暗い脇道から大通りまで出ると辺りは一気に明るくなる。駅から駅を繋ぐ路線なので二十二時になった今でも多くの車が行き交っている。歩いている人も多いのだ。

「まだ時間あるな…」

 上がる時間はいつもと同じなのだが、店長が今日は不在だったため、余計な小言を聞かずに済んだ。いつもこうならいいのにとパートの女性たちが笑い合っていたのも納得できる。

 他人の負の感情などいらない。

 出来ることなら七緒も視たくはない。

 早くこんな力無くなってしまえばいいのに。

 目の前にバス停が見えてきた。

 バスが来るまではまだ時間がある。七緒は携帯を取り出して時間を潰すことにした。

 画面を操作しながら何気なく顔を上げた。

「──」

 その瞬間、ぎく、と身体が強張った。

 道路を挟んだ対岸。

 明るい照明の店先の前にある人影。

 男と──女。

 男は梶浦だった。

 女が寄り添うようにして傍に立っている。

 一目で親密な関係なのだと分かる。

「…っ」

 逆光で少し見えない表情が見たくて七緒はガードレールから身を乗り出した。

 通り過ぎるライトにぱっと照らされた彼らは、笑い合っているように見えた。

「──」

 梶浦が?

 …梶浦が?

「そっか、彼女…」

 彼に、いたとしてもおかしくない。

 そうだ。

 そうだよな。

 そう──

 納得しようと息を吐くと、胸が引き絞られるように痛んだ。

 この痛みはなんだ?

 なぜこんなにも寂しいのだろう。

 どうして。

 どうして置いて行かれた気がするのだろう。

 そう思ったとき七緒の目の前にバスが止まった。


 

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