10


 かたん、ことん、と電車が揺れる。

 施設は、最寄駅から数えて八つ先の町にあった。そんなに遠く離れているわけではないが、バスで行くには大回りの路線しかなく乗り換えが面倒なので電車で行く方がいい。

 翌日朝早く起きて溜まっていた一週間分の家事をこなし、梶浦を呼びに行ったのは十時前。チャイムを鳴らすと梶浦はもう出掛ける準備が出来ているように見えた。

『おはよう』

 思えば制服ではなく私服の梶浦を見たのは、彼がここに来たとき以来だった。

 どきりとしながら七緒はおはようと返した。

『もうそろそろ出るけど』

『ああ、いつでもいいよ』

『じゃあ行こうか』

 梶浦は頷いて部屋を出て鍵を掛けた。そうしていつものように並んで歩く。違うのは学校に続く道ではなく、駅へと続く道を歩いているということだけだ。

 ことん、と電車が揺れる。

 土曜日の午前中だが、電車は比較的混んでいて、七緒と梶浦は出入り口近くに立っていた。つり革を持つ手から、何の気なしに辿って横を向けば、見慣れない恰好をした梶浦がいる。

 濃紺のコートにブルーグレーのニット、黒いボトム。どれもよく見るデザインの何でもないものなのに、梶浦が着ているだけで様になっていた。歳に見合わない大人びた服装。一方の七緒と言えばいつも着ている褪せた緑色のモッズコートと黒のスキニー、着古した白の大きなパーカーだった。これではどちらが年上なのか分からない気がする。

 なんかもうちょっと違うのを着ればよかったかな。

 大体休日も平日と何ら変わらず家とバイト先を往復するだけなので、七緒はそれほど服を持っていなかった。誰かと遊びに行くということも殆どない。高校に入ってからは特に、篤弘が受験のために進学塾に通い詰めるようになったため、中学の時ほど七緒を遊びに誘ってくることもなくなっていた。

 篤弘か…

 昨日のことを思い出して気分が沈みそうになるのを、七緒は深く息を吐いて堪えた。朝起きると携帯に篤弘からのメッセージが届いており、それも気持ちを落ち込ませる。

「…どうかした?」

 耳元に落ちてきた声にはっとして七緒は顔を上げた。

 いつのまにかずっと俯いていたようだ。

 自分よりも少し高い位置にある梶浦の顔は、少し心配そうにこちらを見ていた。

「いや、なんでも」

「気分が悪いなら空いてるところに…」

「いいって」

 周りを見回そうとした梶浦に首を振った。

「ほんとに何でもない」

 それよりさ、と七緒は携帯の画面を開いて言った。

「園に行く前にここ寄りたいんだけど」

「なに?」

 梶浦が七緒の手元を覗き込む。

 黒く長めの前髪が七緒の髪に触れた。

 甘い匂い。

「こ──この、ケーキ屋? すいーつって言うの?…」

「ああ、ケーキを買って行くのか?」

「いやケーキは多分みんなが作ってるから、この、雑貨」

 七緒は表示されている店のページの右上にあるメニューバーを指先で押した。カテゴリ―が表れてそこに雑貨の項目が出る。

「ここさ女の子向けの雑貨も置いてるみたいで、これプレゼントによくない?」

 今日誕生日を迎えるのは六歳の女の子だった。三つのときから園にいて、七緒とは三年と少し一緒に暮らした。歳の離れた兄のように七緒を慕って後をついてばかりいて、七緒も彼女を妹のように可愛がった。園を出ると言ったとき大泣きされたことは今でも胸が痛い思いだった。

 画面には飾りのついたヘアゴムとヘアピンが映し出されていた。スーパーのバイトのとき、何かの折に若いパートの主婦がここのはとてもいいと言っていたのを、昨日園長から連絡があった後に思い出したのだ。

「な、これ可愛くない? 似合いそう」

 渡したときの喜ぶ顔を想像しただけで頬が緩む。きっとすごく似合う。

 かわいいだろうなあ。

「売り切れてないといいな」

「うん、それなんだよなあ…」

 家を出るときはまだ開店していない時間だったため、確認することが出来なかった。今は電車の中だし、行ってみなければ分からないのだ。

「きっとあるよ」

 なかったらどうしようと顔に出ていたのか、梶浦が宥めるように言った。

 その顔を見上げ、うん、と七緒は頷いた。



 電車を降り、駅前から少し離れたところにあるその店まで、アプリで道を確認しながら歩いた。最近出来たばかりのその店は、七緒がここで暮らしていたころの生活圏外の馴染みのない道沿いにあった。

「あ、ここだ」

 角を何度か曲がって辿り着いた店は、写真で見るよりもずっと小さく、こじんまりとしていた。今流行りのコンクリート剥き出しの外観に、小さな赤い看板が人の目を惹きつける。ここ一帯は新しい店が多いようで、店は服屋と花屋に挟まれていた。どちらも洒落た外観で、そういったものに頓着のない七緒には縁がない場所だ。

 小さな入り口の前に立つと、隣の花屋の店先からいい匂いがした。

 何かの花の香りだ。

「いらっしゃいませ」

 引き戸を引くと、カラン、と鈴の音が頭の上でした。戸の上に古ぼけた大きな鈴が取り付けられている。なんだろう。

「それ、カウベルです。牛の首に付けるんですよ」

 ぼんやり見上げていると、店のガラスケースの向こうから声がした。三十代ほどの白いコック服を着た男が、にこやかにこちらを見ていた。

「あー、あれ」

「そう、あれです」

 どこかで見たことがあると思った、と七緒が呟くと、男は笑った。

「うちに卸してくれる牛乳屋さんからの貰い物なんですよ。ドアベルにちょうどいいかもって」

「はは、確かに」

「奥で作業してるとお客さんが来たときに気づかなくって」

 その口ぶりからして、この人が店主なのだろうと七緒は思った。きっとひとりで店を切り盛りしているのだろう。

「あの、すみません」

 梶浦を戸口に残して、七緒は男のいるガラスケースに近づいた。磨き上げられたガラスケースの中には食べるのがもったいないほど綺麗なケーキが並んでいる。

「これなんですけど、まだありますか?」

 携帯の画面を男に見せながら訊くと、男はああ、と声を上げた。

「これ先月販売してたやつだ」

「はい。プレゼントにしようと思って買いに来たんですけど」

「ああそうなんですか、いやあ悪いなあ」

 店主は申し訳なさそうに眉を下げて言った。

「すぐ売り切れちゃって。違うのでよければまだいくつか残っているんだけど」

「そうなんですか」

「見てみますか? こっちです」

 声に残念な気持ちが滲み出ていたのだろう、店主は慌てるようにしてレジカウンターから出て来て、七緒を案内してくれた。

「今あるのはもう、これと、これかな」

 焼き菓子が並ぶ棚の横に置かれた古いコーヒーテーブルの上を指し、店主が見せてくれたのは、携帯で見たものとは全く違っていた。

 残っていたのは、小さな石のついたブレスレットと、キーホルダーだった。

「あー…」

 ブレスレットは六歳の子には早すぎる気がした。なにより金額がまるで違っていて、予算をかなりオーバーしてしまう。

 買うとしたらキーホルダーだろうか。

 小さなうさぎの形のキーホルダーは可愛らしく、贈ったらきっと喜ぶだろうなと七緒は思った。

「これじゃ駄目なのか?」

「ああ…、うん」

 傍に来た梶浦が七緒の後ろからテーブルの上を覗き込んだ。

「出来れば身に付けられるものがよくて…こういうのは学校に持って行くと色々あるから」

 学校ではどんなことでも揶揄いの対象になってしまう。持ちものひとつ、仕草ひとつ、言葉のひとつひとつが、あの狭い世界では外の世界とは違う力を持っている。十年以上施設で暮らした七緒はそれを身をもって体験していた。

 あんな気持ちを出来ることならあの子には味わってほしくはないと思う。

「すみません。せっかく来てくださったのに」

 いえ、と七緒は慌てて手を振った。

「ちゃんと確認して来なかったおれが悪いんです。急に誕生会に呼ばれて、ここのこと思い出したから」

「お誕生会ですか。今から」

「はい。知り合いの女の子の、六歳の誕生日なんです」

「ああそれで…」

 店主が再び申し訳なさそうな顔をした。それに七緒は微笑みで返す。うさぎは可愛いけど、やはりやめておこう。手の中のそれを諦めてそっとテーブルの上に戻した。

「七緒」

 梶浦が七緒を呼び、窓の外を指差した。

「あれは?」

「あれって…?」

 目線を追って窓の外を見ると、隣の花屋の花が目に入った。色とりどりの切り花が美しいガラス瓶に入れられて飾られている。晴れた日の光を浴びてきらきらと、それは眩しいほどに綺麗だった。

「花は? 女の子なら喜びそうだけど」

「あ。そっか…」

 全然思いつかなかった。

 目からうろこが落ちたような気分で、七緒は梶浦を振り返った。

「うわ、それいいかも」

「花なら間違いないですね。隣、うちの母親がやってるんですよ」

 ふたりの会話を横で聞いていた店主がそう言った。

「え、そうなんですか」

「ええ、ここで売ってる雑貨も母親の趣味で仕入れたもので。花屋で売るよりこっちの方がいいって言うんで置いてるんです」

「はは、そうなんだ」

 七緒が笑うと店主もほっとした顔をして笑った。窓の外ではやってきた客の相手をしている五十代ほどの女性がにこやかに笑っている。

 優しそうな人だ。

 どこか似ている気がする。

「じゃあ、行ってみます」

 何も買わないことを詫びながら、七緒と梶浦は店を出て隣の花屋に向かった。



 見慣れた園の門をくぐる。もうそれほど来ることはないと思っていたのに、またここに来ていることが七緒は不思議だった。

「ななあぁっ!」

 前庭に足を踏み入れた途端、小さな体がドアを開けて飛び出してきた。

「まり!」

 両手を広げると、まるで小さな弾丸が勢いよく飛び込んできた。持っていた花束ごとその体を抱き締める。

 ピンク色の小さな花びらが舞った。

「誕生日おめでとう、万莉」

「なな! お花いっぱい! ありがとう!」

 万莉は嬉しさのあまりに七緒の腕の中で飛び跳ねた。勢いがよすぎて七緒はよろめいた。あ、と声を上げた瞬間、後ろにいた梶浦にその背中を抱き止められた。

「わ…っ、ごめっ」

「大丈夫か? すごいな」

「はは…」

 ぎゅうっと七緒の胸にしがみついている女の子──万莉が顔を上げた。

「だあれえ、この人」

「おれの友達だよ」

「おともだち!」

 バッ、と万莉は七緒から剥がれると、出て来た建物の中に勢いよく走って行った。

「せんせえ! なながおともだちつれてきたああ!」

 大声で叫ぶとまたこちらに戻ってくる。梶浦をじっと見上げた。

「おともだち、お名前はなんですか」

「梶浦──梶浦詞乃です」

「かじうらしの?」

 万莉は首を傾げた。

「女の子?」

「違うよ」

 ぷ、と七緒は噴き出した。

「男の子だよ。おれと一緒。ほら、おにいちゃんかっこいいだろ?」

「うん、かっこいいね!」

「七緒だ!」

「なな、おかえり!」

「わ、誰かいるっ」

 園の中からよく知った顔がわらわらと出てくる。あっという間に前庭は賑やかになり、七緒と梶浦は子供たちに囲まれてしまった。

「おかえり七緒」

 よく通る声が聞こえて来て、七緒は顔を上げた。エプロンを着けた園長が戸口に立っている。

「先生、ただいま」

 園長は七緒の後ろに立つ梶浦に目を止めて、にっこりと笑った。

「ようこそ、七緒のお友達かな」

「こんにちは」

 梶浦がごく自然に頭を下げた。

 たったそれだけのことなのに、七緒はなぜか胸が詰まった。

 なんだろう、これ。

 ぱんぱん、と手を叩き、騒ぐ子供たちに向かって園長は言った。

「さあみんな、今日はお客様が来ているよ。こういうときはどうするんだっけ?」

「案内するの!」

「遊んであげる、それでねえ…」

「こちらにどうぞ!」

 誰かが訪ねてくるということがあまりないためか、子供たちは梶浦を物珍しそうに見上げ、興奮した顔で我先にと梶浦の気を引こうとした。

「こーらみんな!」

 ふたりの周りをぐるぐる回る子供達を追い立てながら、七緒は梶浦を園の入り口まで案内した。

「ごめんな、うるさくてさ」

「いいよ」

 子供に慣れない人がいきなりこんな大人数に纏わりつかれるのは鬱陶しいだろう。七緒が声を潜めて言うと、梶浦はそっと笑った。

「嫌われなくてよかったよ」

「え?」

「受け入れてもらえないかと思ってた」

「そんなことないだろ」

 子供はその人の本質を直感的に感じ取る生き物だ。梶浦がみんなに敬遠されたりしないことは七緒には分かっていた。

「だっておれと友達だし」

 自分が好きだと思う人を、みんなが嫌がる気がしなかった。

 自分が、好きだと──

「──」

「ありがとう」

 自分の考えに思わず息を詰めると、耳元に梶浦が囁いた。はっと顔を上げると思うよりもずっと近くに梶浦の顔があって──

「しのくん、万莉のお部屋見せてあげるね!」

 ぐい、と万莉が梶浦の手を引っ張った。梶浦はされるがまま、七緒の横を通り過ぎて先に玄関を上がり、奥へと引っ張られていく。

 今…

 今おれ。

「七緒が誰かを連れて来るなんて初めてだね」

 え、と七緒は振り返った。

「あ、う、うん」

「同じ高校の子?」

「そう、一個下…」

 そうか、と園長は梶浦が連れて行かれたほうを見やる。賑やかな声が奥の方からしていた。

「さあ、じゃあ七緒には目いっぱい手伝ってもらおうかな」

「えっ」

「さあ行くよ」

「おれ今日お客じゃねえのっ?」

「何言ってるんだい」

「だって万莉が呼んだって…」

 厨房の方に向かいながら園長は笑った。

「あれはうそ」

「うそお?!」

 人好きのする顔でにこりと笑う。

「子供たちのお守り役で呼んだだけだよ」

「なにそれえ…!」

 笑いながら園長は廊下を歩いて行った。

 七緒は後を歩きながら、そっと、指先で唇に触れた。

 さっき、あれ…

 当たった?

 驚くほど近くにあった顔。

 顔を上げて、触れ合った感触。

 初めてじゃないけど、初めてのときよりもずっと──

 ずっとどきどきしている。

 心臓が張り裂けそうなほど痛い。 

(おれ、顔熱い…)

 触れた頬は熱かった。

(おれ変だ)

 あのまま。

 あのまま梶浦とキスしたかったなんて──なんで思っているんだろう?

 


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