5
走って行く背中が遠くなっていく。
見えなくなる一瞬、その輪郭が解けた。面影が重なってぼやけていく。混ざり合ったその姿に目を細める。
もっと見ていたい。
そう願った途端、それは戻った。
***
「ん?」
七緒、と呼ばれて顔を上げた途端、ざわめきが押し寄せてきた。
篤弘が目の前にいる。
教室だ。
「え、なに」
「なにって、今度の話だろ」
呆れた顔で篤弘が言った。ああそうだったと七緒は携帯の画面に目を落とす。画面には検索結果が映し出されたままになっていて、バックライトは一段階暗く落ちていた。
「あ、悪い、ええと…?」
指先でさっと触れ、明るくなった画面をじっと見つめた。
何してたんだっけ。
「あーこれ、これとかよさそうじゃん?」
そう言って篤弘が指差したのは近くのレジャー施設だった。大型のショッピングモールが併設されたそこは最近出来たばかりで、中には映画館もある。週末、久しぶりに七緒のバイトが休みになり、それを話のついでに篤弘に言ったところどこかに行こうという話になった。受験勉強ばかりで息抜きがしたいとずっと前から篤弘がぼやいていたので七緒もそれを快諾し、どこに行こうかと話している途中だったのだ。
そうだ、そうだった。
「あ」
七緒は誤魔化すように画面に映っていた映画のタイトルを言った。
「映画?」
「面白そうかなって」
「へえ、じゃあこれ観るか」
スクロールして映画の詳細を読みながら七緒は目を瞬いた。友人との会話の合間にどれだけぼんやりしていたのだろう。今までこんなことはなかったのに。記憶がぽっかりと抜け落ちてしまっている。
「大丈夫か? 七緒」
「え?」
「さっきからすげえぼうっとしてるぞ」
眉間に皺を寄せる篤弘に七緒は軽く笑った。
「全然大丈夫だろ、どこも悪くないし」
気分は良いし、体調はいたって普通だ。
具合が悪いところなんてない。
ただ最近ぼんやりすることが増えただけだ。
それもきっと寝不足が原因なのだ。
「大したことないって、大袈裟だよ」
「でもさあ…」
「糖分足りてないんじゃないのー?」
割って入った声に七緒は驚いて振り向いた。いつからそこにいたのか、沢田が七緒の真後ろでににこにこしながら立っていた。椅子の背に手をついてぐっと乗り出してくる。
「七緒は働き過ぎなんだよー、ちゃんと飯食ってきた?」
「食べてるって」
「なんか買って来てやろうか、昼までまだあるじゃん」
「沢田、おまえあっちいけよ」
篤弘が不機嫌な声を投げつけた。
「俺とおまえは同じクラスじゃーん、おまえだけこっち来ていいわけじゃないんだよね」
軽く鼻で笑われ、不貞腐れた顔で篤弘は沢田から視線を逸らした。今は2時限目だが3年の全クラスが自習時間に充てられている。各クラスで大人しく自習していなければならないのだが、監視の教師もいないため生徒たちは怒られない程度に自由気ままにふらふらと教室を移動したりしていた。誰か咎めに来るわけでもない。就職クラスはまあいいとして、進学クラスもそうなのだから呑気なものだ。
「な、購買! 見つかんないように行ってくるけど」
話の続きを始めた沢田に七緒は苦笑しつつ首を振った。
「いやいいって。甘いのなら持ってるし」
ほら、と七緒は鞄から取り出して見せた。
「えなに、チョコじゃん。珍しいー七緒がこんなの持ってるの」
ちょうだい、と手を伸ばしてきた沢田に、七緒はチョコレートの入った小さな箱を差し出した。
「どうしたんだよそれ」
「貰ったんだよ」
篤弘の問いに七緒は答えた。普段こういった菓子類を七緒は持ち歩かないし、あまり食べないことを篤弘はよく知っているのだ。
「貰ったって…」
「あ、美味いこれ」
個包装されたチョコを頬張りながら沢田が言った。
「だろ? おれもこれ好き」
甘さが抑えめで後味が悪くない。甘い物は嫌いではないが甘ったるいのが苦手な七緒の口に合う。
「誰から貰ったって?」
「梶浦くん」
沢田が首を傾げる。
「誰カジウラくんって」
「アパートの隣に引っ越してきた2年生」
七緒はチョコをひとつ取って篤弘に差し出した。
「篤弘も食べ…」
「要らねえよ」
七緒の声を篤弘が遮った。ぷい、と横を向く仕草に七緒は内心でため息を吐いた。
また機嫌が悪いな。ころころと変わる篤弘の表情。
まるで子供のようだ。
「なあんだよ美味いのに。おまえこそ糖分足りてねえんじゃねえの」
「は?」
揶揄う沢田を篤弘は睨みつけた。
「ほら」
沢田は七緒の手からチョコを摘み、篤弘の口に近づけようとした。
「要らねえっつってんだろ!」
パン、と沢田の手を篤弘が叩き落とした。
思いのほか大きく響いた音に教室中が静まり返った。沢田の手にあったチョコレートは隣の机にぶつかって床に落ちた。
「戻るわ」
乱暴に椅子を押しのけて篤弘は立ち上がると、そのまま静まり返る教室の中を横切って扉から出て行った。自分の教室の方に曲がって行く篤弘の背をその場にいた全員が視線で追いかけていた。
「なーんだよあいつ」
呆れきった沢田のひと言で、教室の張り詰めた空気がふっと解れた。ざわめきが段々と戻り、また皆自分たちの会話に戻っていく。
沢田が肩をすくめた。
「あんなに怒ることなくね? なあ」
「え…、あ、…うん」
そうだな、と七緒は呟いた。
「最近イラついてんなあいつ」
篤弘──どうしたんだ。
背中にべったりと貼りついていた陽炎。
尋常じゃない。
「あー、ごめん七緒」
追いかけようと腰を浮かせた七緒はその声で我に返った。
床に落ちたチョコを沢田が拾う。それは弾き飛ばされたときに包装が外れ、剥き出しになっていた。
「七緒の分なくなっちゃったな」
机の上の箱はもう空っぽで、篤弘に差し出したそれが最後のひとつだったのだ。
落ちたチョコには埃が付き、もう食べられそうになかった。
「いいよ」
気にするなと沢田に笑いかける。
数日前に梶浦に貰ったチョコレート。美味しかったから大事に食べていたけれど、ついに終わってしまった。
「ごめんな」
「いいって瑛司、また買うし」
このひどく寂しい気持ちはなんなんだろう?
「じゃあ、失礼します」
職員室の扉を閉めて、七緒は深く息を吐いた。
進路指導の教師は苦手な部類の人だ。自分の考えをごりごりに押し付けてくる。
何度進学する気はないと言ってもいつもまだ大丈夫だとと言ってきかない。
自分の考えが一番正しいと思っているんだろうな。
「だから無理だって…」
担任が助け舟を出してくれなかったらまだ話は続いていた。担任はそれほど気の利く方ではないが、生徒の考えを尊重してくれる人だ。
はあ、と深く息を吐き、窓の外に目を向けた。まだ昼休み、中庭にはたくさんの生徒が出ている。
おれもちょっと外の空気吸おうかな。
二階のここからは廊下の先にある階段を下りればすぐだ。昼休みが始まってすぐ呼び出しを受けたとき、終わったら食堂に来いと篤弘に言われたから弁当は持っているし、このまま外で食べてもいい。
篤弘には長引いたとでも言えばいいだろうか。
でも。
七緒は自分の手を見た。
まだ痺れている。
あのあと、昼食の誘いに来た篤弘の体は水の靄を纏っていた。
肩を覆い尽くすそれに七緒は青くなった。
『なな、行くぞ』
ああ、だめだ。
だめだ、それにのまれてしまったら──
『篤弘、ちょっと後ろ向いてみて』
『あ?』
剣呑に眉を顰めた篤弘が七緒の手首を無造作に掴んだ。
バチ、とその瞬間視界が白く弾けた。
『っ──』
息が。
息が出来ない。
『おーい、奥井いるか?』
教室に飛び込んできたその声に、ぱ、と篤弘の手が離れた。
『──は、はいっ…』
『悪いがちょっと職員室来い、平先生が話があるそうだから』
どうにか返事をすると担任はさっさと行ってしまった。
『なんだよ、昼飯ぐらい食わせろっての…』
小さく舌打ちをする篤弘を七緒は振り返った。
『ちょっと行ってくるわ』
『七緒』
振り返ったその体から、水の靄はほんの少し薄れているように見えた。さっき触れた瞬間に弾けてしまったのか、七緒はびりびりと痺れる指先をぎゅっと握り込んだ。
『何』
『食堂にいるから、終わったら来いよ』
弁当の入った七緒の鞄を篤弘が差し出した。
『どうせすぐ終わるだろ』
七緒は頷いてそれを受け取った。篤弘の体に触れないように、出来るだけ慎重に。
中庭に向かいながら、七緒は自分の手のひらをじっと見つめた。
開いたり閉じたりしていると、さっきよりは少しマシになった。
あれはこれまでで一番きつかった。
「なんで…」
どうしてこんな力があるんだろう。
冷たい風を感じて七緒は顔を上げた。
開いた窓から入ってくる外の空気が気持ちいい。秋の匂い。枯れ落ちた葉の蒸したような土の匂い。
「あ」
視線の先に梶浦がいた。
梶浦もこちらに気がついた。
無表情だった顔が柔らかく笑む。
梶浦は中庭を過り、廊下の先にある出入り口から中に入って来た。そしてそのままこちらに歩いてくる。
「何してるの先輩、こんなところで」
ゆっくりと近づいてくる。
その姿に見惚れていた七緒は、慌てて言った。
「あっ、いや、昼飯、外で食べようかと、…思って」
「今から?」
はは、と七緒は乾いた声で笑った。
「先生に呼び出し受けてたら遅くなってさ」
「…食堂に、友達がいたけど」
「ああ、うん」
篤弘のことだろう。
何度かふたりでいるときに梶浦と鉢合わせている。
「ここから行くと時間勿体ないからさ、もういいかなあって」
落ち着かない。
こちらをじっと見てくる梶浦の視線になんだか落ち着かない。
気持ちが──胸がざわざわする。
「じゃ…」
梶浦の手が、すっと七緒に伸びてきた。
目の下に触れる。
「──」
「顔色悪いよ」
その感触に心臓が跳ねた。
七緒は息を詰めた。
「先輩?」
体中が熱い。
上手く息が出来ない。
「なん、でも…」
どうしてしまったのだろう。
深く息を吸おうとした七緒の視界がくらりと回った。
(あ)
視野が狭まり、体が傾いでいく。
立っていたいのにどうにも出来ない。
まずい。
「おい、ちょっ──」
梶浦の焦ったような声が聞こえた。
駄目だ。
足下にぽっかりと開いた暗闇に──落ちる。
世界が暗くなる。
「──七緒!」
その腕に強く抱き止められた瞬間、七緒は意識を失っていた。
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