6
花の匂いがする。
柔らかな香り。
懐かしい──懐かしい記憶。
知らない。
知らないはずなのに、知っている。
どうして…
おれはそれを知っているんだろう。
夢の余韻が身体を包み込んでいる。
目を開けると、梶浦がじっと七緒を見下ろしていた。
「……ごめん」
「何が」
「運んでくれた」
「それはそうだろ」
真っ白な天井から下がる淡い水色の間仕切りのカーテン。ここは保健室だ。
あの場所からここまで、梶浦は七緒を抱えて来てくれたのだろう。この学校は保健室が奥まった場所にあるのできっと大変だったはずだ。
「ありがとう」
あ、と七緒は声を上げた。
「授業は?」
「担任には伝えてもらってる」
「いや、あの、梶浦くんのほうだけど」
一瞬目を丸くした梶浦は、すぐに苦笑した。
「人の心配してる場合か?」
だってそれはおれのせいだから。
そう言おうとした七緒より先に梶浦が言った。
「こっちのほうが大事だろ」
「──」
返す言葉をとっさに見つけられずにいると、梶浦は笑った。
「貧血と疲れらしいけど、心当たりは?」
「あ──」
「ありそうだな」
梶浦は立ち上がると、間仕切りを開けてベッドを離れていった。七緒はゆっくりと固いマットレスから身を起こした。その動きで首元からするりと、解けたネクタイが白い布団の上に落ちた。
ああ、と七緒は気づいた。
今どきにしては珍しく、制服のネクタイは自分で締めるタイプのものだ。そうそう勝手に外れたりはしない。
緩めてくれていたのか。シャツに手をやれば、ボタンもいくつか外されている。梶浦か、あるいは保健の先生が…
なんとなく七緒はそれが梶浦である気がした。
「平気?」
戻ってきた梶浦がカーテンを腕で避けながら言った。
「うん」
頷いてもくらくらしない。
梶浦は七緒の様子を窺うようにしながら、仕切りを大きく開けた。窓側が開かれると、白いブラインド越しに柔らかな日差しが入ってきた。
「…先生は?」
部屋の中に自分たち以外の気配がないことに七緒は尋ねた。
「職員室に戻ってる」
「そうなんだ?」
「そう言ったけど?」
なぜ、と目で問われて七緒は首を振った。
保健医は五十代の女の先だ。快活で大柄で大らかな性格で生徒に慕われているが、あまり保健室にいないことで有名だった。いつも保健室は空っぽだ。必要なときにいないからと探してみれば、大抵校庭の花壇を手入れしている。職員室の戻るというのは七緒の担任に言伝るためだけにちょっと寄るといったニュアンスなのだろう。
来たばかりの梶浦には分からないことだ。
「起きたら食事させろって言ってたけど、食える?」
「あ──、うん」
そう言えば昼を食べてなかったのだ。沢田にはああ言ったが、実のところ今朝も少し寝坊してパンをほんの少し齧っただけだった。
いつもの時間に出たくて、──それで…
「先輩の、これ」
布団の上に、梶浦が七緒の鞄を置いた。太腿に軽い重さが乗る。弁当の重さだ。
「何か飲むだろ」
梶浦は部屋の入口の横にある冷蔵庫を開け中からペットボトルのお茶とスポーツドリンクを取り出した。
「どっち飲む?」
「あ、…そっち?」
そのときになってひどく喉が渇いていることに気づいた七緒はスポーツドリンクを指差した。梶浦はキャップを開け七緒に手渡すと、どこから引っ張り出したのか病院にあるようなトレイを持って来て、七緒の足の上にそれを据えた。
「はい」
そう言って梶浦はお茶のペットボトルを煽りながら椅子に座った。
これはつまり。
「ええ、と…、ここ?」
「どうせ誰もいない」
しれっと言った梶浦を七緒は上目に見た。
「怒られねえかな…」
「いないから仕方ない」
「でもさあ」
「起きたら食べさせろって言ったんだから間違ってない」
「そ……」
まあ、そうだけどさ。
「分かった」
これ以上何を言っても引かなそうだと、七緒は軽くため息をついて鞄を開けた。中の弁当を取り出してトレイの上で蓋を開ける。
「いただきまーす」
昨日スーパーからバイト上がりに貰った惣菜を温め直して詰め込んだだけの弁当だ。自分で作り置いていた卵焼きを箸で掴み、ひと口食べて、ふと──七緒は顔を上げた。
「授業戻らなくていいのか…?」
梶浦は目が覚めたときと同じように、ベッドの傍に置かれた椅子に座って七緒を見ている。
「今更?」
「…今何時?」
ちらりと腕時計に目を走らせた。
「十四時二十八分」
「えっうそ!」
もうすぐ五限が終わり、六時限目になる。
倒れたのは昼休みの終わり頃だったから…
「おまえ午後全部サボりになるじゃん!」
慌て出した七緒に梶浦は肩を竦めてみせた。
「だから今更なんだよ」
ペットボトルのお茶をひと口飲んで、梶浦は顎で七緒を促した。
「食べれば? 先輩」
「……」
動く気配はまるでない。自分が食べ終わるまで梶浦は離れないような気がして、七緒は弁当を食べることにした。
「転校してきたばっかで目つけられても知らねえからな」
「教師に?」
「え、他になにがあんの?」
梶浦がふっと黙り込む。見れば、彼の視線は七緒の弁当に注がれていた。
「…食う?」
足に肘をつけ頬杖をついている梶浦は、傾げた顔を七緒に向けてくすっと笑った。
「要らねえけど。先輩料理上手いな」
「いや、こないだ笑ってたじゃん」
「あれは変なもの入ってたからだろ」
何日か前に渡したオムライスのセットに激辛の調味料を入れたことが梶浦にはよほど可笑しかったようだ。
「たまに先輩の部屋からいい匂いするしな」
「そりゃ──」
自炊してるからだ。
あのさ、と七緒は箸を置いた。
「その、先輩っての、やめない?」
じっとこちらを見る梶浦に七緒は言った。
「名前でいいよ、苗字でも。先輩って呼ばれるのなんか、むずむずするし」
部活に入ったことのない七緒にとって下級生から慕われるという経験は殆どなかった。最初は少し新鮮だったけれど、この頃はそれがひどくくすぐったく感じる。
「奥井さん?」
「いや、なんか違う…」
「じゃあ、七緒さん? くん?」
「それもなあ…」
何か違う。
そうじゃなくて。
そうじゃない。
もっと、近く──
「何て呼んで欲しいの」
「……七緒」
くんもさんもいらない。呼び捨てで、と付け加えると、梶浦は七緒の目を覗き込むようにした。
「七緒」
う、と七緒は息を詰めた。
何か──なんだろう。
なんだろうこれ。
名前を呼ばれているだけなのに。
「これでいい?」
「い──、いいっ」
「変なの」
くすくすと可笑しそうに梶浦が笑う。その笑い声にまた奇妙なほどに懐かしさを覚えて、七緒はどきりとした。
チャイムが鳴り始める。五限が終わったのだ。
「そういえば、梶浦くんて、名前何だっけ」
初めて会ったとき、梶浦は苗字しか名乗らなかった。
名前を聞いただろうか? いや、ないはずだ。
「
「し…」
しの?
梶浦詞乃。
「変な名前って思った?」
意地悪く目を細めて笑う梶浦に七緒は慌てて首を振った。
「そういう顔してたよ」
「ちが、いやおれもどっちかっていうと女っぽい名前だからさ…っ」
「へえ?」
フォローになっているんだかなっていないんだか分からないような言い訳に自分で慌てふためいていると、梶浦が言った。
「じゃあ俺のことも名前で呼んでもらおうかな」
「え…」
「俺が呼び捨てなのにそっちが苗字君付けはおかしいよな?」
「う、まあ…」
そうだけど。
それに、と梶浦は続けた。
「あの──」
そこまで言ったとき、保健室のドアが激しい音を立てて開いた。
「七緒!」
大声とともに篤弘が飛び込んできた。
「篤弘」
「おまえ、なんで──」
七緒を見つけた篤弘がまっすぐこちらに向かって来ようとして、ぴたりとその足を止めた。
「なに、おまえ?」
じっとりと梶浦を睨み据えるその態度に、ぞく、と七緒の背筋が震えた。
先ほどまでの穏やかな空気がひやりと冷めていく。篤弘の剣幕に押し潰されたように。
「二年だっけ、何してんだ」
篤弘、と七緒は言った。
「詞乃はおれを運んで介抱してくれたんだよ」
「は?…しの? 誰?」
「俺の名前です」
梶浦が立ち上がった。
「おまえに聞いてないよ」
「篤弘、授業は」
「んなもんどうでもいいって」
ぞんざいに吐き捨て、梶浦を無視して大股でベッドに近づいて来る篤弘に七緒は息を呑んだ。
なんてことだ。
まるで大きな海月に飲み込まれたかのように、その上半身がゆらゆらと水に浸っていた。
その大きさは先程よりも肥大していた。あのとき、あの瞬間には、確かに少しは消えたはずなのに。
「おまえさあ具合悪いって何で言わなかったんだよ」
「いや、自覚なくて──」
篤弘は小さく舌打ちをした。
「ったく、で? もういいんだろ? いいなら戻るぞ、ほら──」
篤弘が七緒に手を伸ばしてきた。
触れられる。
まずい。
でも逃げられない。
またあの痛みが来る。
覚悟を決めて七緒は身体に力を入れた。
「先輩」
指先が触れる、そう思ったとき、梶浦が篤弘の腕を掴んだ。
「貧血なので動かさない方がいいですよ」
篤弘が梶浦を振り返る。
それはまるでスローモーションのように七緒の目に映った。
その瞬間、篤弘の体を覆っていた巨大な水の塊が音もなく弾け、光の中に溶けていった。
(あ──)
消えた。消えてしまった。
あんなに大きかったのに。
(嘘…!)
虹色の雨が七緒の上に降り注ぐ。
でもそれはただのイメージだ。
本当は何もない、ほんの一瞬の出来事だ。
七緒にしか視えていない景色。
篤弘が目を瞬き、それから梶浦を睨みつけた。
「飯を食って様子を見てから俺が送って行きますので」
「おまえがかよ、なん──」
「帰るところは同じなので」
「それはっ」
「もう授業始まりますよ」
梶浦が声を遮るように言った。
反論しようと口を開いた篤弘にチャイムの音が重なる。
梶浦はゆっくりと篤弘の手を離した。
「進学クラスはサボりは減点でしたね」
「…っ」
確かにそうだ。
就職クラスに比べ進学クラスはそういったことに厳しい。授業に出なければその分減点対象になると七緒は聞いている。
鳴り響くチャイムの中で、篤弘は唇を噛み締めていた。
それからゆっくりと七緒に顔を向けた。
「今日はさすがにバイト行かねえだろ?」
「ああ、まあ…」
言われてはじめて七緒はバイトだったことを思い出した。確かに今日は休んだ方がいいかもしれない。
今から連絡を入れれば大丈夫だろう。
嫌味の一つぐらいは言われるかもしれないが、それは我慢できることだ。
頷いた七緒を篤弘は見つめた。
何か言いかけてやめ、それから低く呟いた。
「…分かった。またあとでな」
一歩後退り、くるりと向きを変え部屋を出て行った。
その姿が見えなくなったとたん、部屋中に張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
深く、七緒は息を吐いた。
あれはなんだったんだろう。
詞乃が…?
…まさか。
梶浦がまたさっきと同じように椅子に腰を下ろした。
「なんかごめんな」
謝った七緒に梶浦は微笑んだ。
かすかな──たったそれだけで、冷めきっていた部屋が暖かさを取り戻したような気がした。
暖かい。
「篤弘はちょっと、最近苛ついてるから…」
ふと見れば箸を握ったままだった。知らず強く握りしめていたのか、その手は真っ白になっていた。篤弘に掴まれたときの痺れもまだわずかに残る右腕。確かめるようにゆっくりと手を開き、指先で箸を弄っていると、すっと横から取り上げられた。
え?
気がつけば目の前に梶浦の顔があった。目を覗き込むようにした梶浦は仕方がないというように苦笑していた。
「箸で遊ぶなよ」
「え、あ?」
「もう食べないのか?」
幼い子に言うような台詞に七緒は真っ赤になった。
「え、っ、え? 食べるって…っ」
「じゃあ食べて」
梶浦が箸を七緒の手に戻した。握らせようとする梶浦の指先が七緒の手に触れる。
あ。
体温が流れ込んでくる。
温かく優しい。
梶浦の温もり。
懐かしい。
懐かしい。
「…子供じゃねえってば」
笑いながら冗談交じりに言った。その声が震えそうになる。
込み上げてくるものを必死で七緒は押さえつけた。
なにこれ。
何なんだよこれ…
気を抜いたら涙が溢れそうな気がして、どうしたらいいか分からなくなっていた。
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