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「──、っ」
は、と自分が息を呑んだ気配に目が覚めた。
何か、見ていた気がする。
見上げている暗い天井がゆらゆらと揺れている。まるで水の底から見ているようだ。
瞬くと、目尻を涙が伝った。髪の生え際を温かく湿らせていく。
おれ、泣いてる?
七緒はゆっくりと深く息をした。
胸の中は悲しみで満ちていた。その理由が分からない。何だったのか、思い出そうと考えているうちに、再び眠りの中へと落ちていった。
七緒、と呼ばれて振り向くと、篤弘が教室の入り口に立っていた。昼休みになったばかりの教室は席を立つ生徒たちのざわめきに満ちていた。
「さっきから呼んでんだけど」
「あーごめん」
鞄から財布を取り出していると、傍に寄ってきた篤弘が不貞腐れた声で言った。
「なに、今日飯買うの」
「うん。朝ちょっと寝坊してさ」
夜中に変な具合に起きてまた寝てしまったのがいけなかったのか、いつもの時間に起きられず、朝ご飯も食べることが出来なかった。
おかげでさっきからお腹が鳴りっぱなしだ。
「金あんの?」
「あるだろ、そりゃ。そのためにバイトしてんのに」
軽く笑って財布を振ってみせる。眉間に皺を寄せた篤弘が何か言いたそうに口を開きかけるが、何も言わない。
「あー奥井くんお弁当じゃないんだー、珍し」
「寝坊したの」
「そういうときあるよねえ」
前の席の女子が自分の弁当を拡げながらこっちを見ている。机の上にはおもちゃのように小さな弁当箱が置かれていた。
「
「いーじゃん、これで充分だもん、ダイエットしてるの!」
マナ──クラスメイトの
「でもさあ…」
「おいって」
会話を続けようとした七緒の肩がぐい、と後ろに引かれた。
「いい加減行くぞ、ほら」
「え、あ、うん」
茉菜がかすかに顔を顰める。その表情に笑いかけて七緒は篤弘を追いかけた。
「ちょっと待てって、篤弘」
呼び掛けても返事をしない篤弘に七緒は内心でため息を落とした。
なんか、機嫌悪いよなあ。
急に不機嫌になるのはいつもの事なのだが、最近特にそれがひどい気がする。
制服の背中がもやもやと歪んでいる。
ああ、拡がる。
拡がっていく──
まずい。
「篤弘っ、なあって…」
伸ばした指先で七緒は篤弘の上着の背を掴んだ。
ビリッと指先が痺れ、息が止まった。
「っ、」
その気配に篤弘が振り向いた。
「七緒?」
「な、ん、っでもない」
ぱっと手を離して首を振った。
「? そうか?」
指先から腕の付け根までが帯電したように細かく震えている。頷きながら、七緒は気づかれないようにぎゅっと手を握り込んだ。
どくどく、と心臓が波打つ。
篤弘の顔からは毒気が抜かれ、刺々しさや苛立ちがなくなっていた。ほっと七緒は安堵した。
「いこ、腹減って死にそう」
「はあ? なんだよおまえ」
立ち止まった篤弘を追い抜いて足早に廊下を行くと、呆れたような声で篤弘が文句を言った。
学食はほとんど生徒で埋まってしまっていた。隅の大人数用のテーブルにどうにか席を見つけて七緒と篤弘は座った。横並びで腰を下ろし、トレイを置く。一番安いメニューはカレーなので七緒はいつもそれにしていた。
「おー奥井、まあたカレーかよー」
前の席に座っていた大柄な生徒が冗談まじりに言った。見れば去年同じクラスだった同級生だ。名前は、なんだったっけ…?
「いいじゃん、カレー好きだし」
「いっちばん安いからだろ」
「そー。おれ金ねえもん」
「貧乏は大変だよなー」
揶揄いを無視して七緒はスプーンを手に取った。この手のことは日常茶飯事で慣れている。言いたいやつには言わせておけばいいし、反論したところで何の得にもならない。
これは施設にいる間に世間から七緒が学んだことだった。
「うるせえな、田淵」
そうだ、田淵だった。
ようやく思い出した。
が、そんなことはどうでもいい。隣から発せられた鋭い声に七緒はびくっとした。
篤弘が田淵を睨みつけている。
「…何か文句あんの?」
飲んでいたプラスチックのカップの底が、がん、とテーブルに叩きつけられた。その衝撃でカップの縁から跳ねた水がテーブルに飛び散った。周りの声が掻き消したようにさっと引いた。
田淵は思ってもみなかっただろう篤弘の剣幕にみるみる青褪めていった。
「いや、俺は、そのっ別に…」
段々と尻すぼみになる声に、篤弘が派手に舌打ちをした。
「なら話しかけてくんなよ。気持ち悪いな、なんなのおまえそんな──」
「おいっ」
七緒が声を上げると、篤弘は視線だけを七緒に向けた。その隙に田淵は立ち上がり、食器の載ったトレイを持って逃げるように行ってしまった。何事かと見守っていた周りの生徒たちが、田淵の背とこちらを遠慮なしに見比べている。
「なんなんだよあれ」
「いいから、あんなふうに言うことないだろ」
「気に食わねえんだよ」
収まらない怒りを吐き出すように篤弘が言った。
「ほら、冷めるし。食べようぜ」
な、と七緒は篤弘を宥めた。
カレーを掬い、口に放り込む。重苦しい空気の中でそれはまるで砂のようにぼそぼそとして味がない。
「……」
無言でそれを繰り返す七緒の横で篤弘の気配がふっと和らいだ。トレイの上のパンの包みを開ける音が聞こえ、視界の端で篤弘が食べ始めるのを七緒は素知らぬ顔で感じ取っていた。
篤弘がぽつりと呟いた。
「…これ美味い」
「ん? どれ」
「これ」
当たり障りのない会話を淡々と続ける。
話をしながら、前はこんなんじゃなかったのにな、と七緒は思う。篤弘はこんなに怒りっぽくなんてなかったし、ちょっとしたことで──それこそさっきのような揶揄いで怒りだしたりはしなかった。
篤弘がこんなふうになってしまったのはいつからだったのか。七緒は思い返しながらふと顔を上げた。
──あ。
視界の向こうに梶浦がいる。
クラスメイトなのか、何人かと一緒のテーブルについている。
目を伏せ気味に談笑する横顔。年下とは思えないほど大人びた仕草。そういえば今朝は寝坊したため、梶浦とは会えなかったんだっけ…
この一週間くらいは毎朝顔を合わせていた。
『おはよう』
『あ…おはよう』
玄関を開けると、なぜかいつも梶浦はそこにいるのだ。
行く場所が一緒なのだから、通学時間を考えればおのずと同じ頃に出るのは当然と言えば当然だけれど…
なんかちょっと、変わってるよな。
自然と一緒に登校するようになったが、そんなに話すほうではないらしく七緒が話しているのを黙って聞いている。ただ笑って…
「…お、七緒!」
はっ、と横を見ると剣呑に目を眇めた篤弘がこちらを見ていた。
「あ、え?」
「さっきから呼んでんだけど」
「っ、悪いごめ──」
「食い終わったんなら行くぞ」
言い終わるより前に篤弘は席を立ち、七緒のトレイを持ち上げた。慌てて七緒も席を立って追いかける。
「自分で持つって…」
「おせーんだよ」
篤弘の手からトレイを取り返し、七緒は返却口に向かった。梶浦のテーブルの側を通る。一瞬目が合って、七緒は微笑み返した。
「……は?」
その姿をじっと篤弘が見ていた。
午後の授業は緊急の教職員会議が入ったためホームルームのみになった。いつもならそのままバイトに向かうが、七緒は足早にアパートに向かっていた。昨日の昼過ぎに養護施設の園長から七緒宛に荷物を送ったと連絡があったのだ。多分もう到着しているだろう。
アパートに着き、ポストを確認すると宅配業者の不在通知が残されていた。マジックで宅配ボックスの番号が記されている。
「よかった」
ほっと七緒は息を吐いた。
ボックスは埋まっていることが多く、タイミングによっては入れてもらえないこともある。今回は空いていて助かった。
再配達では週末しか受け取れない。
ポストの横に設置された宅配ボックス開くと、両手で抱えられるほどの小包が入っていた。取り出して扉を閉める。ちゃんと閉めておかないと一度半開きになっていたところに野良猫が入り込んでちょっとした騒動になったのだ。
「よいしょ」
重さはさほどない。片手で抱えて玄関を開け、中に入る。
リビングの小さなテーブルに置き、開けるのは後でいいかと七緒は制服の上着を脱いだ。中身は大体分かっている。七緒が園に置いてきたものや出た後に届いた郵便物だ。
「うーん…」
まだ時間はある。何をするか、少しお腹が空いているかもしれない。
出掛ける前に食べておくか。
七緒は冷蔵庫を開け、昨日バイト帰りに買った食材を取り出した。
遅めのシフトだからゆっくり出来る。
テーブルの上で携帯が鳴った。
「はい」
誰なのか分かっている。
先生、と呼びかけると電話の向こうで声が笑った。
『やあ、元気かい七緒』
七緒もつられて笑った。
「こないだ会ったばかりでしょ。あ、届いたよ荷物」
『そりゃよかった。中はちゃんと確認した?』
「まだ。ちょっと待って」
携帯を置き箱のガムテープを取った。開いて中を見れば、予想通り引っ越しの際、七緒が施設に置いてきたものばかりだ。
「うわ懐かし…、これ小学生の時のやつだ」
『急に悪かったね、まだ本当はこっちで保管しといてあげたかったんだけど』
「いいよ。だってどっちにしろそのうち引き取るつもりだったし。それよりあれから部屋片付いた?」
『ああ、みんなが手伝ってくれて。なんとか間に合ったよ』
「そっか、よかったね」
今週末、施設には新しい子供がやって来る。その子の部屋を準備するために、七緒が使っていた部屋を急遽空けなければいけなくなったのだ。本来なら誰かが施設を出た後はすぐに部屋を片付けて部屋割りを変えるのだが、七緒の場合元々倉庫だった部屋をひとりで使っていたし、その時点で新たに入ってくる子供もいなかったため、元の倉庫に戻しただけで済んだのだった。荷物をそこに残してきたのは七緒の住むアパートが手狭なため園長がすぐに必要ないものはそのままにしていいと申し出てくれたからで、七緒もそれに甘えていたのだ。
でもそれももう終わり。
先月の土日を利用して七緒は施設に行った。
久しぶりに帰った施設ではみんなが前と変わらず笑顔で七緒を迎えてくれた。
園長が片付ける前に要るものと要らない物を分け整理した。そのときに出た荷物は後日送ってくれると園長が言ってくれた。そうして久しぶりにみんなと食事をし、帰って来たのだ。
段ボールの中の色褪せた写真は施設の壁に貼っていたもの。
陽の当たる廊下、歩けば軋む古い木の床。
「また今度遊びに行っていい?」
『当たり前だろう、ここは七緒の家なんだから』
いつでも待ってるよ、と言われて七緒はきゅっと唇を引いた。寂しさを思い出す。蘇ってくる、賑やかだった施設からひとりきりでアパートに帰って来たあの瞬間。
「そっか、だよね」
今度なんてもうないかもしれない。そう頭の隅で思う自分がいる。
「じゃあね」
また今度、と明るく言って通話を切った。
ため息をついて立ち上がったとき、また携帯が鳴った。
「あ」
玄関を開けるとそこには梶浦がいた。
ちょうど階段を上がってきたところだった。七緒に気がついて顔を上げた。目が合うとふっと梶浦の表情が緩んだ。
「おかえりー」
梶浦は小さく頷いた。
「ただいま…、バイト?」
「ああうん」
そう、と梶浦は言った。七緒の帰りが毎日遅いことに早々に気づいた梶浦は七緒になぜなのかと尋ねてきた。
『あのさ、バイトってもしかして毎日?』
『え?』
確か梶浦の転校初日だったか、バイトをしていると自分から言った覚えがある。
『いや、いつも遅いみたいだから』
『そうだけど…あ、ごめん、おれ音うるさい?』
けして防音が行き届いているとは言えないアパートで、隣り合う部屋の生活音が全く聞こえてこないとは言い難い。実際七緒の部屋の反対側に住む隣人の音はよく聞こえてくるのだ。
『違うよ』
夜帰宅する音が耳障りだっだろうか。慌てた七緒に梶浦は首を振り、ただひと言大変そうだと付け加えただけだった。
「もう? まだ時間早いけど」
梶浦は左腕の時計に目をやった。
「あーうん、友達とバイト前に会うから」
「友達?」
「そう。いつもつるんでるやつ。そいつは予備校に行くんだけど、ちょっと時間空いてるから」
園長からの通話の後、すぐに掛かってきた電話は篤弘からのものだった。ついさっき学校で別れたときには何も言わなかったのに、急に出て来ないかと言われたのだ。
『来いよ。どうせ時間あるんだろ』
特に断る理由もないし、待ち合わせるのはいつもの場所でバイト先から近い。七緒は取り出した食材を冷蔵庫に戻しながらいいよと返事をした。どうせファストフード店に行けば何かしら注文しなければならないのだ。しかし早目に使わなければならないものもあるから、本音を言えば食べて行きたいところだった。
篤弘はいつも急だ。
「あ」
そうだ、と七緒は思いついた。
「梶浦くんさ、自分で飯作るんだっけ?」
詳しくは知らないが梶浦も独り暮らしをしている。家族の事情だとか、そんなふうなことを言っていた。
「簡単なものなら」
梶浦は不思議そうに首を傾げた。
よかった、と七緒は笑った。
「使って欲しいものあるんだけど貰ってくれない? おれ今日は帰り遅いし帰ってから作るのもめんどいから」
早口に言ってから七緒は部屋に引き返した。冷蔵庫からさっき仕舞ったものを取り出して、傍にあった袋に突っ込んで入れ玄関に戻った。
「はいっ、これ」
七緒の顔をちらりと見てから、梶浦は差し出された袋を受け取った。服をを開き、中に入っているものを見て小さく笑う。
「何作ろうとしたんだよ」
「えっ、なんか、混ぜたら美味いかもと思って」
「これ要らないだろ」
梶浦は袋に手を入れて小さな瓶を取り出した。それはついでにと思って入れた香辛料だった。あと少し残っているのになかなか使い切れないから、いっそ混ぜ込めばいいだろうと思ったのだった。
「オムライス辛くしようとするやつ初めて見たよ」
「ええ? そう?」
「そうだよ」
くすくすと梶浦は笑う。そんなにおかしかったかと七緒は頭を掻いて苦笑した。そういえば梶浦が声を出して笑うのを見たのは初めてだ。
「ありがとう、使うよ」
「う…、うん」
なんか、すごく──落ち着く。
胸の中が穏やかだ。
笑顔を向けられて、ふわりと体温が上がる。
「えと、じゃあおれ行くから」
なんだこれ。
自分の気持ちになんだかそわそわして七緒は玄関に鍵を掛けて言った。
「先輩」
「ん?」
振り返った七緒に梶浦は言った。
「やるよ」
「え」
ポケットから取り出した何かを七緒に差し出す。受け取るとそれはチョコレートの小さな箱だった。
梶浦の温もりが移っている。
「チョコじゃん、いいの?」
「俺は食べないから」
クラスメイトに貰ったが甘い物は苦手だと梶浦は付け加えた。
「そうなんだ? ありがと…」
「遅いなら帰り気をつけて」
梶浦の目が七緒を見ている。一見きつい彼の目元は、驚くほどに優しかった。
「うん、あの、行ってきます」
言い表せない気持ちがふっと湧き上がってくる。
心臓の奥の奥。
七緒は慌ててそう言って階段を駆け下りた。
なんだろう、なんだろうこれ。
どうして。
「いってらっしゃい」
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
懐かしいだなんて──懐かしくてたまらない。
彼は誰にも似ていない。
ついこの間、知り合ったばかりなのに。
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