第6話 はじめまして

——重力を、時限を超えて、別の世界へ行ったとしても、おかしなことではない。

 私は今、あのひとの言葉を、ぼんやりと思い出していた。

 目の前にいる等身大のセレナは、興奮にその目を見開かせていた。けれど、すぐに正気を取り戻したような顔をして、倒れている私に近づいてくる。

 え、近づいてくる? あのセレナが?

 え? え? ちょっと待って。

 私は手をついて上半身だけ起き上がった。

 そんな私の顔を、彼女が覗きこむ。


「……怪我は、ない?」


 たっぷり間を持って放たれた声は、鼓膜を震わせたことなんてないくせに、やはり懐かしかった。美しい音だった。

 緊張しているのか、彼女の顔は強張っている。

 それは多分、私も一緒だ。


「……平気」


 私の言葉に、セレナはほっと肩を緩めた。それからぎこちなく目を合わせて、ゆっくりと口を開く。私も。


「「はじめまして」」


 私たちは同じ言葉を同時に吐いた。

 見事に重なりシンクロした音は、夜の町によく響いた。

 セレナは数瞬固まったのち、まるで電気を流したように、火花の綻ぶ笑顔を見せた。


「サヨ! サヨよ! 貴女に会えた! 夢でなく、本当に!」


 セレナは私を抱き寄せて叫んだ。

 びっくりする。現実の貴女は、こんなに明るくて大胆な女性なんだ。

 鼻孔をくすぐる匂いにときめきながら、私はまだ現実に追いつけないでいた。はやる鼓動を振り切って、私は口を開く。


「ねえ、なんで、だって貴女は、私の夢の中のひとなのに」

「あら。あたしにとっての貴女も、夢の中の女の子だわ」

「もしかして私は夢を見ているの?」

「もしくはあたしが夢を見ているのかも」


 私たちは同時に相手の頬を抓ってみた。


「痛い?」

「痛くない。貴女は?」

「痛くないよ。だってセレナの手、震えてて力籠ってないんだもん」

「サヨこそ、赤ちゃんみたいに頼りないけど、それで抓ったつもりなの?」


 私たちの声は跳ねあがるように震えていた。お互いに、頬はみるみるうちに吊り上がり、耐えきれずに呼吸が漏れてしまう。

 もうどうでもよくなった。

 言葉による説明はいらない。

 目の前に彼女がいる。それだけでいい。

 私たちは二人とも全てを悟っている。これまでずっと遠いところで、ずっと同じものを見てきたのだから。

 セレナは私の頬をそっと撫でる。そして、親指を目尻に寄せて、まだ乾いていなかった涙をくいっと拭った。その行為に、自分がいまどういう状態なのかを思い出してしまった。

 光だけがぼやけた視界。瞳の湿気は振り払えないみたいだ。私の目にはまだ鮮明な輝きが見えない。きっと心も暗いまま。思い出せば思い出すほど、心は沈んでいく。

 そんな私を、心配そうにセレナが見つめる。


「……痛い?」


 頬じゃない。そういうすぐに見えるところじゃなくて、服を無理矢理に剥かなければ見えないようなところのことを、セレナは言っている。

 そこを痛める私を、誰もがおかしいと言った。もしくは、痛めないことを当たり前として私と接した。その心の差異に、私は何度も何度も口を閉ざさざるを得なかった。

 セレナが切なそうに、堪えるように、自分自身の胸を押さえた。

 同じ感情を分かち合う私たちには、同じ感情が宿るのだ。お互いの心がありのままに届く。

 私の肌寒い感情を彼女にまで背負わせているのかと思うと、それだけでまた沈んでしまいそうになった。いけない。負のリピートだ。遠くのほうからまた甲高い鳴き声が聞こえるのも、きっと幻聴じゃない。


「ずっと見てたから、あたしには、あたしだけにはわかるわ。サヨ」


 誰もわかってくれない。幸せは強制される。励ましてくれるけど慰めてはくれない。

 そんななかで、誰よりも私の胸に強く響いたのは、セレナの言葉だった。


「貴女は、悲しいことを悲しいと思えないことが、こんなにも悲しいのね」


 決壊したものがもう一度こぼれる。

 みっともない嗚咽が、ふたりぼっちの夜に溶ける。

 癇癪を起した赤ん坊のように泣く私を、セレナは優しく抱きしめてくれた。本物の同情が流れこみ、分かち合う切なさが流れこみ、そして、大きな愛しさが流れこむ。

 大丈夫よ。あたしが守るわ。なんの心配もいらないわよ。すぐに行くから。あたしが来たから。あたしはここにいるから。

 私が一方的に感じているだけの、温かな思いのはずだったけれど、それは夢の隔たりを超えて、じかに押し寄せる。

 心臓ハートに蔓延るものは、もう悲しみではなかった。

 私自身が、熱く迸るように浮かび上げられる。

 これが何物なのか、私は知っている。何度も何度も間接的に味わってきた。そして、この世界の誰もが永久であるように望んでいるもの。

 私の喉が叫ぶ痛みがほどけたそのとき、新たな嗚咽があたりを囲んでいた。

 いくつも重なる狂気的な泣き声が、私とセレナに迫りくる。その一番手前にいる、長い鼻と大きな耳を持つピンクの怪物が、今にも襲いかかってきそうに体を震わせている。

 ついさっきまで沈みきりだった心が呼び寄せた悪魔。桃色の制度。不幸の象徴。

 セレナは目を見開いていた。

 私は転がっていたハルバードを持って立ちあがる。それを見て、セレナも銃を構えなおすけれど、見慣れないそれらに気を焦らせているのは間違いなかった。

 夥しいまでの軍勢に、感じる恐怖も一入だ。

 しゃなりしゃなりと歩み寄り、不気味な顔で近づいてくる敵。


Pink-elephantまぼろし……?」


 セレナ呟きのあと、すぐにピンキーは攻撃してきた。

 私は間一髪でそれを避け、トンと跳んでピンキーの肩に着地。ハルバードを振りあげたのち、首を刎ねるように刃をかざした。


「そんなかわいいものじゃないよ」


 飛沫を上げるように消えていくピンキーから降り立つ。

 視線の先にはまだまだ鮮やかな影が見えている。

 私はセレナのほうへと振り向いて告げる。


「幸福な世界にようこそ」


 ピンキーが大声をあげて襲ってくる。

 たちまち険しい顔になったセレナは、ピンキーの目玉を確実に狙い撃ち、私のサポートをしてくれた。視界を奪われてふらふらとするピンキーの懐に潜りこみ、ハルバードを振るう。

 小物のピンキーなら、彼女の持つ銃でも殺すことができる。

 私たちは二人きりで次々とピンキーを倒していった。

 少しでも気を抜けば死んでしまう。私が魔法の注射くすりで抑えこみ、忌避していたセレナがずっと感じていたもの。いきなりなくなるわけがない。私の膝はふとしたときに震えた。握る力を緩めれば、ハルバードはすっぽ抜けそう。

 セレナも似たようなものだろう。彼女の世界には存在しない化け物相手に、ここまで冷静に対処できているだけで驚きだ。

 私はハルバードのピックを手前のピンキーに引っかけ、そこを軸に回りこむように回転、奥のピンキーに蹴りを食らわせる。吹っ飛んだピンキーに、セレナの弾丸がとどめとなった。私は、ハルバードを引っかけていたピンキーを、遠心力を用いて地面に叩きつける。

 銃の弾倉を入れ替えている彼女を庇いながら、ピンキーへ攻撃を続ける。彼女が目配せをしたとおりに、私はハルバードを振り上げた。私のハルバードの斧部に飛び乗った彼女を宙にぶん投げ、発砲することで助力を強める。

 ふわりと高く浮いた彼女は、大きなピンキーの肩口に乗りこみ、頭を真横から連続発砲した。ぐらりと倒れるピンキーの奥から飛びこんできたもう一匹を、駆けつけた私が仕留める。彼女は私が動きやすいように身を屈めていてくれた。

 少しでも気を抜けば死んでしまう。

 だというのに、私のなかで高揚感のようなものが芽を出していた。

 隣で銃を撃つセレナを見遣る。彼女がなにをしたいのか、自分がなにをすればいいのかが本能でわかる。わかりすぎて、なんだかおかしい。こんなときなのに笑ってしまいそうだった。

 それはセレナも同じのようで、口角が微妙に吊り上がっている。雪崩れこんでくるものも私とおんなじ。

 私たちは背中を合わせながら敵を見据えた。


「聞いて、サヨ」

「なあに?」

「あたし、こんな気持ちで戦うの初めて」

「みたいだね。なんだか幸せそう」

「貴女ももう本調子?」セレナは弾むように笑った。「愛と正義の戦士、ここに凱旋」

「むしろ戦ってる最中なんだけど」


 跳ねるように地を蹴りあげて、ピンキーを蹴散らしていく。

 たくさんのピンク色の腕を上手く掻い潜り、急所を突いた。

 徐々に数を減らしていったけど、私たちの勢いも底をついてくる。慣れていないセレナの体力はジリ貧状態。おまけに弾の数は限られている。

 私も長時間ハルバードを振るっていたせいで、体力的に厳しくなってきた。誠に遺憾ながら、私もまだまだだ。これはピンチである。

 だけどそんなとき、大きな撃鉄音のあとに、大砲のようななにかが降ってきた。


「うおっ」


 私はそれを避けて距離を置く。

 凄まじい勢いで駆け抜けたそれは、一直線にピンキーの頭を穿ち、破壊した。

 よく見ると、それは人の形をしている。

 隆々としたメイスを担ぎながら立ち上がった彼は、私のほうを振り向く。


「ちょっと。なに勝手に行動してるの」


 眼鏡越しの目を細めて冷ややかに笑うラギ。

 彼は、足元でよろよろとピンキーの手足が動いたのを、見もせずにもう一発食らわす。私から視線を外す気はないらしい。プレッシャーを与えたくて仕方ないような態度だった。

 彼が降って湧いたことにびっくりして、私は一歩後ずさる。

 私のその態度がさらに気に食わなかったようで、ラギは笑みを深くした。笑顔のはずなのに怒られている気がする。実際、怒っているんだろうけど。


「……ごめん?」


 理由を全部話すのが面倒だから、私は謝罪だけを口にした。


「ピンキー討伐は二人一組で行うのが原則。わかってないわけないよね?」

「そうだけど……っていうか、ラギはどこまで聞いてるの?」

「なにが?」

「えっと、このピンキーの出現について」

「ガジから聞いた」


 その一言で、全部知られているのだと気づく。

 恥と罪悪感が胸の内にせめぎあった。


「でも、もう大丈夫なんでしょ?」

「なんでそう思うの?」

「髪の毛がぼさぼさだから」

「……どういうこと?」

「そういう君のほうが強いってこと。かなり暴れてたみたいだね。おつかれさん」


 そう言ったラギに、からかうような口笛が鳴る。セレナだった。

 ラギはセレナを一目見て、「このひと誰」と呟いた。

 面倒なので、説明はしないでおいた。話すと長い話になる。当の彼女もそのことについて口を閉ざしていたし、戦闘に専念していた。

 とりあえず彼女が味方らしいと理解したラギが、追究を止める。

 ふとあたりを見回すと、現役の退桃士ピンカーや教官、訓練生がいることに気づいた。この場に駆けつけたのはラギだけではないようだった。ピンキーに立ち向かっていく彼らの中にはガジの姿もあった。顔を合わせるのはまだ怖いけど、こうして助けに来てくれたことは純粋に嬉しかった。セレナも「まるで王子様ね」と笑っていた。

 連続した発砲音がすると思ったら、バル教官もここに駆けつけてくれていた。ショートソードを小刻みに振るいながら殴りこんでいる。

 その奥からは、鮮やかな身のこなしで、空気を切り裂く音がした。マカ教官だ。果敢に茨鞭を振るい、ピンキーをいなしていく。隙のできたピンキーには電撃を浴びせた。見事な鞭捌きだった。

 けれど、そのとき、鞭の攻撃を逃れたピンキーが、マカ教官の懐に飛びこむ。

 まずい。鞭のリーチでは、懐に飛びこまれると攻撃できない。それに気づいたバル教官が、一歩踏みだした。

 しかし、次の瞬間、マカ教官の茨鞭はすばやく手元へと縮み、形状を変えた。

 驚くべきことに、一瞬で、茨鞭だったものは、棘のある剣へと変貌する。

 まるで騎士のような流麗な動きで、マカ教官はそれを振るう。武器改造による多種多様な攻撃、及び長・中・短の全距離からの攻撃がマカ教官の戦闘スタイル。なるほど。ラギの言っていたことはこういうことか。

 それを見たバル教官も笑うように吐息して、他のピンキーへと飛びかかった。足元を狙って射撃し、体勢を崩したところを、後ろからガジがレイピアで攻撃する。

 夥しい数だったはずのピンキーが見るからに減っていく。

 これ以上増えることもない。

 もうすぐかたがつくはずだ。


「うわっ!」

「なんだあいつは!?」


 けれど、楽観していた私の詰めの甘さを、思い知ることになった。

 士官学校アカデミーのある方角から、超大型のピンキーが現れたのだ。

 それは、まるで目玉をいくつもくっつけたかのような模様の翅を持つ、濃いピンク色の蛾の姿をしていた。いままでに見たピンキーの中で一番気持ち悪いと思った。ゆらゆらと翅を羽ばたかせて飛ぶ姿には、ぞっと鳥肌が立つ。飛行速度は見た目よりもなく、おそらく初期段階で出現したものが、時間をかけてこの場に到着したのだろう。優雅とさえ感じるほどの登場だ。


Oopsあらら」セレナは見上げながら言った。「とんでもないものが現れたわね」


 それなりの高度を保って浮遊するせいで、攻撃が届かない。

 けれど、その羽ばたきから降り注ぐ鱗粉は太い針のようで、私たちや近隣の建物を矢のように攻撃していった。

 一見して無害そうに見えるのに、まさか一番厄介なんて。

 現役の退桃士も、このタイプは初めてなのか、頭を抱えているように見えた。


「どうする? ヘリパトを呼ぶか」

「今からだと時間がかかると思うわ」

「でも、攻撃が届かないんじゃどうしようもないぞ」

「人的被害も出かねない」


 確かにこのままだと、あのピンキーが照明光輪イルミナ照明粒子フィルドスタに突撃する可能性も出てくる。そうなると、二次被害が出るのは確実だ。あんな大きな塊が上から降ってきたら、下の建物は簡単に破壊される。運が悪ければ私たちも潰れるだろう。


「ラギ。砲火攻撃は?」

「無理でしょ、構えてるあいだに、こっちがやられるよ!」


 世界を変えるような大きな羽ばたき。

 貫かれればそこで終わりの、鋭い鱗粉の矢が、私たちに降り注ぐ。

 私たちは走って、その攻撃を躱していく。駆ける視界の先にも降り注ぎ、地面に突き刺さるそれらを、私たちは掻い潜るように避けていった。

 一斉に建物の陰に隠れ、ピンキーの動向を伺う。


「まるで大きなリボンが空に浮かんでいるみたいね」


 一緒にブティックの陰に隠れていたセレナが言った。

 私も空を飛ぶピンキーをもう一度見上げる。だめだ。そんな可愛いものにはどうしても見えない。セレナってけっこうメルヘンだな。


「セレナの頭につけるといい。きっと似合うよ」

「サヨもきっと似合うでしょうよ。綺麗なドレスでも着てめかしこんでみればいいわ」

「え、普通にやだよ」


 私が顔を顰めると、セレナはおかしそうに笑った。

 状況が状況なせいか、誰もセレナの存在を疑問に思わないらしい。こうやって普通に居座っていることを気にも留めない。

 私はまだ不思議な感覚だった。当たり前の気がするのに不思議な感覚。いつも瞼を閉じてしか見られなかった彼女が隣にいる。勇気が湧いてくる。


「考えがある」

「乗ったわ」


 私の言葉にセレナは即答した。

 そんな彼女に、私はじろりと目を遣る。


「まだなにも言ってないのに」

「貴女なら間違いないわ。でしょう?」

「まだなにも言ってないのに?」

「どうにかなるって、」セレナは私の胸元と自分自身の胸元を交互に指差した。「ここが教えてくれてるのよ。きっと大丈夫だわ」


 心はずっと雄弁だということか。

 強気な態度で不敵な笑みを浮かべるセレナに、私もまた笑い返す。

 あのピンキーは今もなお移動している。タイミングを逃すと、もうどうにもならない。行くしかない。

 顔を見合わせ、こくんと頷いた私たちは、同時に走り出した。

 背後で、私たちに気づいた誰かの、焦るような声。無鉄砲とでも思われているのかもしれない。実際そう見えるような行動をしているのだからしかたがない。迷いのない足取りで、私たちは向かう。

 目指すのは時計台。

 桃想郷ユートピアで一番高い建物だ。


「なにをするの?」


 セレナは走りながら尋ねた。弾倉を入れ替えようとしているものの、振動でうまくいかないようだった。小さくチッと舌を打っていた。


「三年前の雪辱ってところかな」私は呟くように言う。「セレナは危ないだろうから、そこまで付き合わなくてもいいよ」

「馬鹿言わないで。最後まで付き合うわ。あたし、貴女のすることって大好き」

「はは、嬉しいんだか恥ずかしいんだか」


 かなり走ることにはなったが、無事に時計台に到着できた。

 息は上がっていたし、足も相当疲れている。肉離れでもおこしそうだった。おまけに私たちはこれから最上階まで登ろうというのだ。時計台のてっぺんに着くまでに、どれくらいかかるのだろう。

 考えている余裕はない。あの超大型のピンキーは、そろそろこちらへと向かってくる。

 鍵のかかって開かなかった入口は、セレナが発砲し、錠を壊すことで侵入した。

 中はとんでもなく真っ暗だったものの、胸元から小型の懐中電灯を出したセレナのおかげで、行く先が照らしだされる。

 先を行く私の背を、「ねえ」とセレナの楽しそうな声が撫でる。


「サヨの武器ってどうなってるの?」

「え? いきなりなに?」

「貴女のハルバードに、ずっと興味があったのよね。銃器を内蔵してる武器なんて面白いじゃない。この世界の武器ってどれもハイテクでクレイジーよね。誰が作ってるの?」

「説明すると長いからあとでね」

「つれないわねえ」

「セレナはなんでそんなに楽しそうなの?」

「だって、こんなに真っ暗なのよ。なんだかパジャマパーティーみたいじゃない」

「今の状況わかってる?」気楽で暢気なセレナに私は言った。「貴女にとっては夢の中でも、ここは私の現実なんだけど」


 セレナはまだ夢見心地で受け止めているのかもしれない。

 この世界はセレナのなかではすっと夢だったのだから。

 でも、ピンクの化け物も、それに立ち向かう私たちも、この心も、なにもかもが現実で、本物なのだ。理想の世界でなくても、私はこの世界で生きている。それを軽んじられたくなかった。


「それは違うわよ、サヨ」


 わざとらしく声を野太くして、セレナは懐中電灯を私に向けた。


「セレナ、眩しい」

「よく言われるわ。君の笑顔はまるで太陽のようだって」

「私は羽毛布団のように感じてたけど」

「貴女の考えなんてお見通しよ、Darlingかわいこちゃん」セレナは懐中電灯を自分の顎のところまで持っていった。「なんてったって気持ちは一つだからね。貴女が真剣なのも知っている。あたしは貴女たちを軽んじたりもしていないわ」

「……だったらなんで」

「それは、貴女自身の心に聞いて」


 真下から顔を照らしだされる顔は、どこか得意げだった。顔の半分に影が落ちて、ちょっと不気味な感じになってるのに。

 この状況の間抜けさに、私たちは数秒見つめあった。


「サヨ。貴女はこれからどうしたいの?」

「ピンキーを倒す」

「今じゃないわ」


 なんだと。


「これからも、退桃士ピンクピンカーになろうと思うの?」


 セレナは懐中電灯を下ろした。

 私たちはどちらともなく、再び歩きだした。

 階段を登っていく私の足は止まらなかった。セレナが照らしてくれる目の前を、ただ進んでいく。それだけで悟ってくれた。


「あのね、セレナ。それでもやっぱり、退桃士ピンカーは必要なんだ、桃想郷ユートピアでは。ここはピンキーに統御されている。幸せに見えるけどその実とても不自由。少なくとも私は、友達の死を嘆くこともできない世界なんて嫌だ」


 階段の続きはもうない。どうやらてっぺんに到着したらしい。鐘撞き場へのドアに鍵はかかっていなかった。


「でも、世界の摂理を変えることはできない。平和のために、不幸をかなぐり捨てて力で抑えつけられるのは退桃士ピンカーだけ。だけど、悲しみを受け入れるだけの時間を与えてあげられるのも、退桃士ピンカーだけなんじゃないかな。だったら私は、やっぱり最高にかっこいい職業だと思うよ。愛と正義の戦士。今度こそ、本当に」


 私はドアを開ける。

 時計台の中よりも淡い暗闇が広がっていた。

 とてつもなく小さく、けれど愛おしく感じられる町並みが見える。

 だんだんとこちらへ近づいてくる、甲高い鳴き声を上げるピンキーも。

 私の隣に並んだセレナが美しく笑う。そして、「ほらね」と私に告げる。


「今日は素敵な夜よ。貴女と二人、心の内を話す、パーティーみたいな夜。あたし、この瞬間のこと、絶対に忘れないと思う。夢になんてしてやらない。あたしと貴女の現実よ。そうでしょ?」


 どこまでも清々しい笑みを浮かべる彼女に、あたしも根負けして笑みを浮かべる。

 私だって、こんなにも胸の高鳴った今日のことを、絶対に忘れないだろう。

 私たちは再びピンキーに向き直る。


「サヨ。作戦は?」

「ピンキーが近づいてきたところを攻撃する」

「一発で倒せるかしら」

「無理だと思う。だから、ピンキーの背中に飛び乗る。背面から死ぬまで連続攻撃」

「ああ、なるほど……でもピンキーって死ねば自然消滅するのよね? その上に乗っていたあたしたちってどうなるの?」

「落ちる」


 セレナは喉を鳴らすように失笑、肩を竦めた。


「やっぱりやめとく? 私だけで行こうか?」

「行くわ。なんとかなるでしょう。それにやっぱり最高に楽しそう」

「私、セレナのことだんだんわかってきた気がする」


 セレナの目つきが鋭くなる。見据えているのは、私の背後。

 私は振り返る。やはりそこには目標のピンキーがいた。

 私はハルバードの穂先を背面に向けて、一歩構えを取る。気を練るようにタイミングを伺った。

 巨大な蛾を模したピンキーはゆらゆらと空を舞い、扇ぐ翅がそよ風を生む。針の鱗粉は撒き散らしたままだ。でも、それが私たちに降り注ぐことはない。絶好のポジショニング。

 私は地を蹴ると同時に引き金を引き、反動を利用して大きく跳躍する。

 狙いどおりにピンキーの太った胴体に着地。気持ち悪くて触るのは躊躇われたが、振り落されないようにしがみつかなければならなかった。

 ふと、セレナのほうを見る。彼女も翅を踏み伝って、なんとかこちら側に渡ろうとしていた。不揃いな鱗粉が邪魔で苦労していたが、ようやっと渡りきる。

 私たちは互いに武器をピンキーの胴体に向けた。

 セレナは膝をついたまま、銃でピンキーを撃つ。

 私は踏んばって立ち上がり、ハルバードで何度も切った。

 だが、相当に丈夫な体をしているようで、どれだけ傷つけても死ななかった。斬撃では無駄だと踏んだ私は、ハルバードの穂先で胴体を刺す。穂先が胴に埋まった状態のままで、何度も何度も、穂先の銃の引き金を引く。

 直接内臓を銃撃しているのだ。流石に効果はあった。打つたびにビクンと体は揺れ、反動に伴い、体も降下していく。甲高い鳴き声がどんどん小刻みになっていった。与えたダメージにより、飛行も不安定になっていく。


「サヨ!」


 セレナの声が背後から聞こえた。

 振り返って見遣ると、彼女は胴体と翅の継ぎ目の部分を指差した。

 セレナの意思を汲みとった私は、ハルバードをピンキーの胴体から引っこ抜く。気味の悪い液体がドクドクと漏れ、甲高い鳴き声が一際大きく上がった。


「ご乗車のお客様はシートベルトを着用のうえ、しっかりと機体に掴まっていてください」

「そんなのどこにあるのよ」

「ジョークだって」


 私は数回ハルバードを振り回したあと、ピンキーの胴体から翅を全て切断した。

 そこから一気に急降下する。翅を失った化け物の躰は、地上へと真っ逆さま。空気抵抗を受けてぐらつく胴体に、私たちはなんとかしがみついていた。切断した翅がひらひら舞うのを追い越して、私たちもろとも落ちていく。

 吹き上げられる髪のせいで、視界が悪い。あたりを見る余裕ももちろんなかった。永遠に落下し続けるのではないかと疑ったころ、存外呆気なく終わりが迎えにきた。

 私たちを乗せたピンキーの胴体は、激しく地面に叩きつけられ、一度弾むように潰れてから、花びらのように散開する。

 物理法則に則り、衝撃を受け取った私たちは、そのまま地べたに倒れこむ。

 その手足や首元の隙間から、散り散りになったピンク色が舞い上がり、夜の町に消えていった。

 全身の毛穴という毛穴から汗が噴きだしてきた。体の芯は生温かいのに寒い。それより全身が痛い。身体を通るそれなりの太さの棒が、中で砕けてしまったかのような感覚だった。

 この痛みを、私は昔、味わったことがある。ものすごく痛くて気を失ってしまいそうだ。指一本も動かせない。痛みと痺れのあいだの感覚を我慢するように、地面に必死に体を押さえつける。

 仰向けになっている視界に見えるのは時計台。そして、横目には、同じく倒れている酷い顔色のセレナ。


「……死んでない?」


 しゃべるのもやっとだったが、息を切らせながら私はセレナに尋ねた。


「死んでたまるものか、ってのよ、生きてるわ……」

「死にかけって感じだけど」

「ちょうどよかったわ。これで強制安全装置リターン・ジ・アースが作動したはずよ」セレナは透けていく手を私に振る。「また夢で逢いましょう」


 私はその言葉に寂しさを覚えた。目の前の彼女がいなくなる心細さ。安心が消えていくような感覚だった。

 そんな私を見て、感じて、セレナは苦笑した。


「パーティーは終わりよ。次に会うときは、お互い、いい夢を見ましょう」

「でも、起きたら、」涙声だった。「目が覚めたら、貴女がいない世界で、私は戦わなくちゃいけない。貴女も同じ」

「がんばりましょう。愛と正義の戦士なんでしょ?」

「そうだけど……」


 さっきは強気に返してしまったけど、私なんかに大それたことができるのだろうか。誰かを救うことができるのだろうか。また私自身が悲しみに呑まれてしまわないだろうか。この世界はこんなにも不幸のままなのに。


「——サヨ!」


 そのとき、私に駆け寄ってくる声が聞こえた。

 まさか誰かが追いかけてきているとはゆめにも思わなかったので、私は少し驚いた。誰だろう。仰向けになったまま視線だけそちらへと遣ろうとして、けれど、すぐにセレナへと戻した。

 どんどん空気に溶けて消えゆくセレナの表情は、微睡むように柔らかかった。


「You are in the pink」


 幸せ者ね——セレナはそう言って、彼女の世界へと帰っていった。

 気づくと、倒れこむ私だけが残されている。

 そして、満身創痍の激痛に意識を失った私は、そこからどうなったのかは覚えていない。ただ、超大型のピンキーを討伐し、平和を取り戻したのち、退桃士ピンカーに保護された私は、そのまま連れ帰られたそうだ。

 気がつくと、私は病院に担ぎこまれていて、見えたのは時計台でも、照明粒子フィルドスタでも照明光輪イルミナでもなんでもなく、真っ白な天井だった。

 時計台からピンキーに飛び乗り、そのまま落下した私は、予想どおり全身骨折という重傷を負い、ここに搬送されたらしい。結局、三年前の雪辱は果たせなかったということだ。

 病院で爪先すら動かせずにいる私を見舞いに、たくさんのひとたちが来てくれた。

 特にガジとマカ教官はメロンを持ってきてくれた。なんていいひとたち。パートナーであるラギなんて、手ぶらで来たというのに。この二人の爪の垢を煎じて心臓ハートに打ってやりたいくらいだ。

 バル教官は、私がペンを持てるようにまで回復してからの登場となった。粗品のフルーツや花束代わりに、たくさんの書類を持って、だ。


「出現要因になるまで自身の心臓ハートを放置した監督不行き届き、許可の下りないうちで行った単身のピンキー討伐行動、勝手に鐘を鳴らして鐘撞きをびっくりさせた罰……」

「エトセトラエトセトラ」

「あのう……なんですかこれ」

「見てのとおり、お前の失態による反省文だな。原稿用紙四枚以上で提出。締め切りは退院するまで。それと、こっちは、今回のピンキー出現における報告書。空欄は全て埋めておけよ」

「空欄しかないんですけど」

「だから言っただろう。全て埋めておけ」


 なんだと。

 今回の一件で後ろ指を指されるようなことはなかったが、当然褒められるようなことでもない。むしろ、立場としては微妙の妙で、教官教員現役退桃士ピンクピンカーは私の処分に相当頭を抱えたらしい。自分の尻は自分で拭ったとはいえ、出現要因はこの私なのだ。そして、退桃士ピンカー見習いでもある。

 厳重注意で事なきを得たが、後処理後始末に尽力する入院生活は過酷を極め、入院中に何本か回復したはずの骨をやってしまった。

 健気に毎日訪れるラギには馬鹿にされ、大いに笑われた。来る日も来る日も笑いに来る彼に、私は本気の喧嘩を吹っかけてみた。


「そんなに私が好きなの?」


 以来、ラギは来なくなった。相当怒ってたからもう二度と来ないだろう。

 他の訓練生たちも、最低一回は病院に来てくれた。みんな、私を労ったり悪態をついたり、あとは「よくやった」と小突いたりしてきた。どうあっても私は小突かれるらしい。解せない。

 その子たちが言うには、私が助かったのは奇跡、もっと言うなら、後遺症なしに完治できることすら奇跡らしい。三年前にもその奇跡を為したことのある私は、相当な奇跡の子だ。奇跡の子。かっこいい。

 私の怪我は完治に四か月を要するらしく、これでも短期間で済むほうのようだ。看護婦さんには「本当に人間?」なんて怪しまれたくらいで、私は改めて自分のタフさを思い知った。

 寝たきりのためにリハビリも要し、訓練生として完全復帰するのは、まだまだ先になりそうだ。

 だが、周りに後れを取るわけにはいかない。ラギが来ていたうちはノートを持ってこさせ、ラギが来なくなってからは、教員に頼みこんで板書を持ってきてもらうようにした。

 戦闘面はどう足掻いても鈍ってしまうので、動かせるようになった箇所から筋トレを行った。医者にはコテンパンに叱られた。医者は強い。


「キハのウォーハンマーだが、処分ということでいいか?」


 ある日、バル教官が訪れて、私にそう言った。

 もらった花束で花冠を作っていた私は目をぱちくりとさせる。

 どうやら洗浄作業やらなんやらで先延ばしにしていた案件を、片づけるタイミングがやってきたらしい。持ち主のいなくなったウォーハンマーは、倉庫のスペースを奪うだけで、もうなんの役にも立たないのだという。


「お前が望むなら、お前がその武器を引き継ぐのもありだと思ったんだ。ハルバードとは形状も似ているし、銃内蔵構造という点でも使い勝手がいいだろう。もちろん使いこなすのには時間がかかるだろうが、二刀流というのも粋だ」

「そういうのはマカ教官の流派でしょう。私は貴方の弟子ですよ?」

「まあ、そうだろうな。というわけで、俺は処分を提案している。一応、元パートナーの意見も聞きにきた次第だ。どうする?」

「もらいます」


 私の言葉にバル教官は驚いたような顔をした。そして、数秒後に顔を顰める。


「お前が使うということか?」

「違う。それでお墓を建てます」

? なんだそれは」


 私は苦笑して、花冠を作るのに視線を戻した。

 お墓は、セレナの世界にあった文化だった。死んだ人間を埋葬して、そのひとを弔ったり、そのひとに会いに行ったりするためのもの——だと思う。見ていただけだからよくわからない。

 セレナは部下が死んだときにそれを作っていた。名を刻んだ石碑のようなものに、小さな花束や死んだ部下が使っていた武器なんかを置いたりしていた。もしかしたら、死んだひとを思い出すための装置なのかも。

 私たちの世界に墓はない。悲しみを引きずらないために、そんなものは残さない。

 哀悼は驚くほど一瞬だ。口遊むのはいい思い出だけ。わざわざそんな悲劇を形にしなくてもいいだろうということだ。

 でも、私は思い出したい。彼女を懐かしむのは決して悪いことではないし、忘れたほうが悲しいことだってあるのだから。

 キハの死体は残らなかった。洗浄班にすっかり処分され、着ていた制服ですら焼き払われた。残ったのは武器であるウォーハンマーだけ。なら、そのウォーハンマーこそが彼女の墓だ。


「上手く作れてるでしょう?」私は花冠をバル教官に見せた。「こんなの被れたら、あの子もきっと喜びますよ」


 わけがわからないとでも言いたげな顔をするバル教官。小さく顎を撫でながら、私の作った花冠を見て「それはボールか?」と呟いた。そうか、へたくそか、そうか。

 あの夜から、私の心臓が淀むことはなくなった。

 たまに痛みを思い出して濁ってしまうことはあっても、もう絶望することはない。眠ることすらもう怖くない。一人きりのベッドも病室も、なにもかも。

 報告書を書きながら鼻唄さえ歌ってしまえるほどだ。そのうち熱が入って、パーカッションまで加えたのだが、なかなか私には音楽センスがあると思う。いいぞ、いつもの調子が戻ってきた。私はこうでなくちゃ。


「よし」


 私は最後の文字を綴ったあと、書き終えた報告書を眺め見る。

 ピンキー出現数は七十九体。被害はありません。






 撃鉄音がこだまする。もう慣れたとはいえ、金属が一気にひしゃげるような音は、鼓膜どころか頭脳を貫く。煩わしくないわけがない。

 特にこの訓練場は屋内だ。当然、ある程度壁のある空間ならば音は反響する。とんでもない音の波だった。

 残り一匹となった仕掛けのピンキーを、私は見据える。

 なんてことのない相手だ。ここは訓練場であり、相手にする標的は、あくまで無機物。簡易な仕掛けで動く、ピンクの布に巻かれた綿や木材。脳みそどころか本能もない相手なんて、少しも怖くない。

 私は強く踏みこんで、目の前の獲物の股の下に滑りこむ。そのまま足を斬りつけて横転させ、その体に飛び乗り、頭を胴体から切り離した。

 終了のブザーが鳴る。

 それと同時に、訓練場の観覧個室から人影が現れた。彼は憎たらしそうに拍手をしながら近づいてくる。ラギだった。


「お見事。すっかり大丈夫そうだね」


 彼は微笑みながらそう言った。

 私は訓練場の隅のほうに置いておいたタオルを取りに行く。額から湧きでた汗を拭き取りながら、ラギを見た。


「あんまり嬉しくなさそうだね」

「まっさかあ! 僕のパートナーがこんなにも強いなんて、誇らしいことじゃないか」

「わかった。さっきの一撃がすごすぎて、私に腹立ってるんだ」


 ラギは「違うけど」と言いながら、私にスポーツドリンクを渡してくれた。

 彼との仲も、出会ったころと比べれば、ずいぶんとよくなった気がする。ラギの癖も読めるようになってきた。悪態、皮肉は二回まで。粘り強く待った三回目には、やっと本音が聞ける。


「君、病み上がりでしょ? なんで体力落ちてないわけ? むしろ強くなってるし」

「だって病室でずっとトレーニングしてたし」

「にしてもだよ。リハビリだってすぐ終わらせちゃうし。気持ち悪い」

「君のパートナーがこんなにも強いなんて誇らしいことなんじゃないの?」

「通り越してむかつくよ」

「大丈夫。ラギももっと強くなってるって」


 スポーツドリンクを没収された。まだ一口も飲んでなかったのに。

 私とラギはそれ以降無言で訓練場を出た。

 一昨日、やっと病院を退院できた私は、すっかり埃っぽくなった部屋の掃除、教官への挨拶回りを終わらせると、すぐさま訓練を開始した。もう何ヶ月もろくに体を動かせていなかったのだ。なにを置いても打ちこみたかった。

 だが、思ったよりも体は鈍っておらず、今日に至っては絶好調、あのラギに強くなってると言わしめたほどだ。やはり私はすごかった。

 体の調子も元に戻ったし、今日からは実戦訓練にも参加できるだろう。楽しみだ。

 私が素振りをしようとしたとき、ラギは口を開いた。


「にしても酷いんじゃない? 君」

「え、なにが?」

「退院したら、パートナーの僕に報告するのが普通だよね? 今朝、バル教官から聞いたばっかりなんだけど」

「あ、ごめん」


 まだ腹を立てていると思って気を遣っていただけなのだが、私は謝罪だけを口にした。


「私がいないあいだ苦労したんじゃない?」

「は? なんで君がいないだけで僕が苦労するの?」

「え、訓練とか大変だったでしょ」にこにことした顔で言ってきたラギに返す。「基本的には二人一組なのに。迷惑かけちゃったよね、ごめんね」


 ラギは面倒くさそうな、微妙そうな顔をした。こういう言いかたに弱いということはちゃんと押さえている。


「……別に平気」ラギは淡泊に呟いた。「君がいないあいだ、ガジが組んでくれたから」

「ガジが?」

「そうだよ。まあ、彼にもパートナーがいるから僕を優先、とまではいかなかったけど、手が空いてるときは君の代わりをやってくれた」

「……ほう」


 つまり、ガジは普通の訓練生の二倍の訓練をしていたということになる。

 一方の私は、数ヶ月ものあいだ病院で怠惰な生活を送っていた。

 そのぶんの後れを取り戻すためには、どれほどの時間を割けばいいのだろう。この差は壮絶だ。またガジに負けてしまう。

 私が歩きながら顔を顰めていると、ガジ本人が階段の踊り場から現れた。


「やあ、ラギ。それにサヨ! 退院したんだってね。おめでとう」


 紳士的に微笑んで、ガジは私たちに挨拶をしてきた。おまけに「もう体調は大丈夫なの?」と心配してくれる。本当にいいやつだな。

 私がそれに「うん」と返すと、ガジの背後から、マカ教官とバル教官が見える。私が軽く会釈をすると、気づいたラギとガジも頭を下げた。


「あら、サヨじゃない。久しぶりね。もう今日から復帰?」

「はい。十全です」

「ならよかったわ。病室で腕立て伏せして腕をまた折ったって聞いたときは、永遠に戻らないんじゃないかって思ったんだから」

「私もあんなに簡単に折れるとは思わなかったです」


 そう返すと、マカ教官とガジは声を上げて笑った。

 バル教官のため息とラギの「馬鹿でしょ」と呟く声が重なる。


「ってことは、このあとのパトロールにも参加できるってことね?」

「はい。そうです」


 私は強く頷いた。

 少し緊張している。なんせ久々のパトロールだ。私のとってはこれで三度目。あの出現要因の女の子を死なせてしまったとき以来。

 心臓ハートがほんの少し焦り気味に鼓動している。だけど、緊張だけじゃない。興奮も、たぶんある。


「ちなみに、サヨとラギの引率は俺だ。頼むぞ」

「もちろんです」

「はーい」


 私はまた素振りを開始した。真面目に「シュッシュッ」とハルバードを振っていると、ラギは「またそれ?」と嫌そうな顔をした。


「じゃ、パトロールの時間まで三十分もないし、早いけどもう行きましょうか。そろそろヘリも着くころよ。サヨは準備万端みたいだけど、ガジとラギは部屋まで武器を取りに行きなさい。ガジ、あんたはパートナーもね」

「はい」

「あ、ちょっと待ってください」私は半分だけ手を上げて言った。「私その前に行くところがあるので。ラギ、武器取ったら先に行ってて」


 そう言うとラギは首を傾げた。


「もしかして、行くの?」

「うん。すぐ戻るから」

「そんなこまめに行くものなの? もうなにがしたいのかわかんないんだけど」


 ラギと言い合う私に、ガジが「って?」と尋ねた。


「ほら、昨日、敷地内の原っぱに、ウォーハンマーがぶっ刺さった小さな山みたいなのができたでしょ? あれ」


 だが、答えたのはラギだった。私のいないあいだにガジと仲良くなったのかもしれない。ガジもガジで「ああ、あれ」と普通に返している。なんとなく悔しかった。


「あれって結局なんなの? 花の塊が置いてあったけど」

「塊じゃないよ。花冠だよ」

「どうでもいいがサヨ、あのまま野晒しにしていると雨風で劣化するぞ」

「ああ、なるほど……屋根でも作ってあげようかな」

「どういう置物? 不気味すぎるんだけど」

「ていうか、あのウォーハンマーってあの子のよね? ……サヨ、大丈夫なの?」


 あの日あの現場にいて、あのときの私を見ていたマカ教官は、不審そうに私を見つめた。

 だから、私は笑ってやった。

 思いっきり笑ってやった。

 ぽかんとする四人はなにも言わずに突っ立ったままだ。

 じゃあね、と私は手を振った。後ろから、ちょっと、と追いかけるような声が聞こえるけど、ついてくる気配はない。私は歩みを速める。

 気がつくと、いつのまにか走り出していた。今日はいい天気だ。照明光輪イルミナが明るく輝いている。走ると気持ちがいい。このまま走っていこう。

 この幸せな世界の地を、私は思いっきり蹴った。

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