第5話 ゼロ

 士官学校アカデミー周辺にピンキーが出没した。

 ちょうど私が医務室から出た朝のことだった。

 医務長からの帰宅許可が出たので、隣のテーブルに畳まれて積まれていた制服に腕を通していた。すると、もうちょっと耳に優しい音量でもいいのではないかというレベルの警報が鳴り響いたのだ。

 その警報に重なるように叫ばれる「ピンキー出現」という声に、医務長も私も目を鋭くさせた。結局、教官や訓練生が出張ることでピンキー討伐に成功したのだが、出現要因もわからぬままとなってしまった。

 こんなケースは初めてで、教官たちもみんな混乱していた。


「なんてったって、出現要因の救護もなしに、だからね。討伐開始から数は増えることなく、ものの二十分で片づいたみたいだし。しかもあの日から、頻繁にそういうことが起きてる。現れてはすぐに片づいての連続。一体なんだったんだろう。出現要因をつきとめることもできてないし。士官学校アカデミー近隣なんて驚きだけど……それよりサヨ、君、食い意地はりすぎじゃない? いつか喉詰まらせるよ」

「まがもごぶぶぶぶ」

「ほーら。だから言ったのに」


 ラギは笑ってフォークを動かすだけで、私を助けるようなことはしてくれなかった。

 私はゴリラのように胸元をドラミングしながら水を飲む。ドラミングの力強さに口角から水が漏れてしまい、顎を伝って服の中に入った。気持ち悪い。おかげで食べ物も胃に流れこんだけど。ようやっと呼吸しやすくなった喉を撫でながら、もう一度食器を取る。


「午後からはまた訓練だからね。力を蓄えておかないと」

「病みあがりのくせにいいの? テンパって足引っ張られても困るんだけど」

「大丈夫」私はラギのからかいを相手にせず言った。「多分だけど、私、なにかしてるときのほうが調子いいみたい」


 ラギはよくわからないような顔をして「ふぅん」と言った。

 今日の午後の訓練では、マカ教官をはじめとする大勢の現役退桃士ピンクピンカーが監督を行い、指導してくれるのだ。滅多にない貴重な経験になる。やはり第一線で活躍しているひとの声が聞けるのは願ってもないことだ。

 昼食を終えたあと、私たちは一度部屋に戻る。まだ時間があるので、準備を整えようと思ったのだ。ハルバードの斧部を研ぎ、魔法の注射くすりを打つ。ちょうどいい時間になったころに部屋を出た。落ち合ったラギと一緒に訓練場を目指す。

 最初はどうなることかと思っていたが、ラギとのペアも慣れてきたように思う。

 ラギは捻くれているし、いい性格もしているけど、性根が腐っているわけじゃない。扱いを理解すればコミュニケーションも取れるし、互いを尊重することも、まれにだができる。

 こうして隣を歩くことにも違和感はなくなった。パートナーの顔を見るために見上げなければならないのは、やっぱり変な気分にはなるけど。


「シュッシュッ」

「ずっと思ってたけどそれなんなの」

「シュッシュッ。素振り。シュッシュッ」

「恥ずかしいからやめて」


 私はその台詞を聞いて、ハルバードを落としてしまった。

 二人で上ってきた階段からその下の踊り場まで、鈍く高く音を立てて下っていく。


「あーあ。ご愁傷様」


 ラギはからかうような憎たらしい笑みを浮かべて私に言った。

 私は少し泥ついた足取りでそれを拾いに行った。拾ったあと、階段を見上げる。するすると視線を上げていくと、私を見下ろしているラギと目が合った。

 なにか言いたげな目。

 ラギの唇は躊躇いがちで、その白い歯を見せるまでに時間がかかった。


「……君さぁ」

「うん」

「本当に大丈夫なの?」

「うん」

「……ならいいけど。ほら。早く行くよ」


 私が階段への一歩を踏み出そうとした、まさにそのときだった——いつかの朝のようなけたたましい警報音が鳴り響いたのだ。

 その場にいた誰もが体を跳ねさせる。あちこちを見回して、ざわざわと騒ぎ始めた。


「嘘でしょ、また近辺でピンキーが出没したの?」


 そう。この警報は緊急事態発生音。

 また近隣でピンキーが出没したのだ。

 士官学校アカデミー内は慌ただしくなる。パニックに陥っていないのは、最近頻発していることにあるだろう。警報に紛れての情報を待ち、私たちは耳を澄ませる。


『出没地点、野外訓練場。数は三!』

「は? 敷地内?」


 初めてのことにラギの顔が歪んだ。

 これまで士官学校アカデミー周辺で出没したことはあっても、その敷地内に出没したことはなかった。訓練用のピンキーを模した獲物と間違えたのでは——と訝しむ声も聞こえたが、そんな安易な憶測はすぐに掻き消されるだろう。


「ラギ、行こう」私は階段の中腹で立ったままのラギに言った。「どうせ訓練どころじゃないんだから、先に行ってピンキーを仕留めよう」

「まだ出動命令はかかってないけど」

「すぐにかかるよ」


 私の考えは間違いではなかった。まるでタイミングを見計らったかのように、近くにいる教官と実戦訓練済みの訓練生への対処命令がかかった。

 それを聞いたラギはうんざりしたように虚空を流し目で眇め、階段を下りてきた。

 私たちは野外訓練場へと走り出していく。

 野外訓練場に辿りついたときには、もう何人かの教官と訓練生が討伐にあたっていた。ピンキーの数は八。放送で聞いたときよりも増えている。


「サヨにラギ! あんたたちも来たのね!」


 茨鞭を振るっていたマカ教官が、私たちに近づいてきた。ラギは意外にもぺこりと会釈をする。私がそれにぎょっとしているあいだに「出現要因は?」と尋ねた。


「今回も不明よ」マカ教官は首を振った。「数が少なすぎてどこへ向かっているかもわからないわ。ずっとそうよ。きっとこれ以上過度な増殖もないだろうし……本当にどうなってんのかしら」

「近隣住民の避難は?」

「完了してる」

「そのなかに出現要因がいる可能性は?」

「……ないわ。ピンキーの足並みを見るに、最悪、この士官学校アカデミー内にいる、という可能性もある」


 その場にいる訓練生の顔が歪んだ。

 それを見て、マカ教官は「でも、いまはくよくよしてる場合じゃないわよ」と喝を入れる。

 そうだ。ピンキーを倒さなければ。

 すぐにラギと援護に向かい、私たちも武器を振るった。

 大きく跳躍してハルバードを振り下ろす。ピンキーは大きく体を震わせ、しなるバネのように伸びて私の体を跳ね返した。吹っ飛んだ距離感を利用してハルバードの穂先から狙撃する。弱ったところを狙ったラギが、メイスでとどめを刺した。

 私は木にハルバードを突きたて、幹に垂直に着地する。あたりを見回して空いているピンキーを探した。

 やや小物のピンキーが三匹、しゃなりしゃなりと近づいてきているのが見える。

 私は地面に降り立って、その三匹へと駆けだした。


「え、ちょ」


 置いてけぼりを食らって、呆気にとられているラギ。

 そんな彼をよそに、私は、ハルバードのピックを一番手前のピンキーに突きたてた。そのまま発砲させながら振り回すことで、二匹のピンキーに体当たりさせる。

 勢い余ってピックから離れたピンキーを足場に、トンと跳躍。ハルバードを振り下ろし、一匹のピンキーを真っ二つに裂いた。

 そこへ、私を両挟みにするように襲いかかってくるピンキー。

 その片方を、ハルバードの柄を腹に食いこませることで静止させる。脳のない玩具のようにじたばたと手足を動かすピンキーを尻目に、私はもう片方のピンキーを狙撃したのち、ハルバードを大きく振りかぶり、首を刎ねる。残ったもう一匹は、振り向きざま、穂先で勢いよく貫いた。

 ピンキーの死体が蒸発するように消えていく。それを眺めたのち、あたりを見回す。全員が討伐を完了しているようだった。ピンキー出現数はおよそ十体。これ以上出てくる気配もない。


「もう大丈夫か……」


 変な匂いのするその煙を突っ切って、私はラギのところへと戻った。

 すると、ラギが「ちょっと」と私の髪の毛を引っ張った。


「えう」

「なに勝手に行動してるの」

「あ、ごめん」


 忘れてた、なんて言ったら怒られそうだから、私は謝罪だけを口にした。


「ピンキー討伐は二人一組で行うのが原則。わかってないわけないよね?」

「うん。ちょっとぼんやりしてたのかも」

「ぼんやり? むしろ無我夢中って感じだったけど。心配してたのが馬鹿みたいだよ。さっき自分で言ってたとおり、もう大丈夫みたいだね」


 私たちは教官の指示に従い、校舎へと戻っていく。

 このぶんだと午後の授業は丸潰れだろう。ピンキーが暴れたことによる弊害——野外の樹木倒壊の後始末、混乱の処理など、やらなければならないことは色々ある。近隣住民への報告も欠かせない。これから士官学校アカデミー全教官を集めて緊急会議を開くはずだ。

 私は歩きながらラギの制服の裾を引っぱった。


「ねえ、ラギ。これから闘技場に行こう?」

「もしかして、対人訓練でもするつもり? 冗談でしょ」

「だって、暇だし」

「は? 休んどけばいいだろ」本当に嫌そうな顔をラギはした。「また体調崩しても知らないから」

「運んでくれるくせに」


 思いっきり足を踏まれた。それも、歩くために地を蹴ろうとしていた足のほう。地面に縫いつけられてしまったせいでバランスを崩し、私は転倒しかける。なんとか持ち直して、トトンと足踏むようにステップした。


「元からそうだけど、ここのところ変だよ、君。どうしたの」


 ラギはぶっきらぼうに私に言った。

 変、と言われて、私の顔は思わず濁る。


「そうかな」

「そうだよ」

「私にとっては、ラギのほうが……」

「僕のほうがなに?」


 続けようとして、でも、言えずに押し黙ってしまう。ラギが訝しげな顔をしているのに、自信満々に口を開くことができなかった。不安になったのだ。いままで口にしなかったことを言って、真っ向から否定されるかもって。

 回り道をするように、私は別の言葉を吐いた。


「なにかに集中してるときだけ嫌なことを忘れられる、ってことない?」

「なに? いきなり。まあ、その感情はわからなくはないけど。でも、やっぱりないかな。そもそも嫌なことなんてそうそう起きないし。そんなのすぐに忘れられるよ」

「でもね、すぐに忘れられないし、忘れていいものじゃないの」

「は? そんなのある?」ラギは首を傾げた。「さっさと忘れて幸せになるべきだ」

「どうして?」

「どうしてって……君は嫌なことをずっと覚えてたいの? マゾヒストの気でもある?」

「違うけど」


 違うけど。嫌なことは嫌だし、そんな不幸なことにはなりたくないけど。


「忘れたほうが悲しいこともあるでしょう?」

「ないよ」


 ラギはきっぱりと言った。

 彼にわかってもらえないなら、これ以上話すことはきっとない。


「やっぱり君、休んだら? ちょっと疲れてるみたいだし。君も、なに? 一応は女の子なんだから、体には気をつけなきゃだめでしょ」


 眼鏡を指で正すと、ラギは颯爽と帰っていった。

 私とラギの部屋は別々だから、自然、向かう場所も別方向となる。遠ざかっていくラギの背中を見送って、私も部屋に戻るために別の道へと進んでいく。

 部屋に戻って靴を脱いだ。窓から漏れる光のおかげで、電気をつけなくても良さそうだ。私は鏡の前で自分の心臓ハートを確認したあと魔法の注射くすりを打った。武器を床に置きっぱなしにして、ふと二段ベッドのほうを見る。

 私の足はゆっくりとそちらへ向かい、なんとなく下の段のベッドへと潜りこんだ。

 少し埃の積もったように思うシーツを撫でて、私は瞼を閉じた。

 閉じてしまった。






 ぼんやりとしていて意識が定まらない。眠りが浅すぎるのか深すぎるのか、いままでの夢とは違い視界は明瞭でない。まるで水の中だ。ゆらゆらとぼやぼやと漂いながら、彼女の声だけがはっきりと耳に響く。


「ああ、だめよ! 絶対にだめ!」


 またセレナの夢だ。

 だけど、いままでになく焦っている彼女。

 麗しい金髪をぐしゃぐしゃと掻き乱している。噛み締めた痕のある唇は痛そうで、いつも涼しげな眼差しは汗ばんでいた。なにをそんなに焦っているのだろう。


「このままじゃだめよ、絶対にね……あたし行くわ!」

「だめだセレナ、危険すぎる」


 彼の声が聞こえた。セレナが愛してやまないあのひとだ。

 でも、そのひとの制止の声も振り払うセレナの意志は固い。揺るぎない。きっとてこでも動かない。彼はどうにかして止めようとしているけど、私にはわかるのだ。彼女はどう足掻いたって行ってしまうだろう。


「試験では上手くいったじゃない。マウスは見事消えていったわ」

「ああそうだね、そして帰ってこなかった」彼の顔は真っ青だった。「セレナ、あまりにも危険すぎるよ。それに……あまりにも……馬鹿げてる!」


 彼の言葉にセレナは傷ついた。彼にだけはそんなことを言われたくなかった。私も裏切られたような気分になる。貴方が私のなにをわかるの。


「貴方があたしたちのなにを知っているの」セレナもそう言った。「貴方は自分の才能を信じていればいいのよ。あたしは、あたしを信じるだけだわ」


 彼はつらそうに顔を歪ませた。いますぐにも泣きだしそうで、抱きしめてあげたいくらいの愛おしさを感じる。沸き起こるのは懺悔。セレナが彼に抱く愛情の一種。

 だけど、セレナの心はたった一つの感情により縛られている。私たちを結ぶ強いコネクトから、その感情が、言葉が、私の胸に流れこんでくる。

 大丈夫よ。あたしが守るわ。なんの心配もいらないわよ。すぐに行くから。

 一方的に感じ取っているだけなのに、私はその言葉にひどくほっとしてしまった。嬉しい。セレナが大丈夫と言ってくれている。セレナが守ると言ってくれている。なんの心配もいらない。すぐに来てくれる。それは、一体、どこに。


「サヨを助けたいの。お願い、あたしに行かせて」


 また、私の名前を呼んだ。

 力を貸してと言って、私に支えられていると言って、そして私を助けたいと言う。

 私を助けたいなんて、おかしなことを。だって私は、退桃士ピンクピンカー見習い、士官学校アカデミー訓練生。愛と正義の戦士。私が誰かを助けるならまだしもだ。私はなににも脅かされてはいないし、なににも襲われてはいない。助けられる意味がわからない。そんなものはどこにもない。

 私にそんな感情を向けないでほしい。

 どうせ夢の中だけなんだから。


「……あの試験で得た結果から、強制安全装置リターン・ジ・アースを開発した。移動させた対象の生命信号が極端に弱まったとき、自動的にこちら側へと戻す装置だ。まだ試験もしてない。うまくいくかどうかわからない」

「うまくいくわ。そして行くのよ」セレナは強く言い放った。「助けてあげられるのはあたしだけなのよ」


 あやふやな意識から掴んだ一つのシーン。わずかな光も徐々に薄れて暗がりは深くなっていく。そうして、視界は完全にシャットダウンされた。もうなにも見えないし感じない。胸の奥に雪崩れこんでくる感情もない。冷えていくように浮かびあがり——私は目を覚ます。

 瞼を開けると真っ暗だった。きっと照明光輪イルミナのブレーカーを落としたのだろう。もう夜だ。窓の外を見ると小さな照明粒子フィルドスタが煌めいていた。

 ごそりと上体を起きあがらせる。

 随分と眠ってしまっていた。見たくもない夢を見る羽目になった。また、この落差を味わって、肌寒い心を抱えていかなければならないのか。

 いまは何時だろう。まだ食堂は開いているだろうか。いや、食欲はない。それよりも、この肌寒さを拭いたい。

 ベッドを出た私は、置きっぱなしにしていたハルバードを持ち、靴を履いて部屋を出た。廊下の電気まで落ちている。これじゃあ食堂どころじゃない。みんなもうすっかり寝ているころだろう。訓練場の鍵は開いているのか、それだけが少し心配だった。

 寝起きで少しだけふらふらとする体を動かす。暗いせいであたりはよく見えないけど、じきに慣れるだろう。長年生活した土地勘だけで私は歩いていた。障害物はないからわかりやすい。階段に気をつければ目が見えなくても進める。

 ふと、自分以外の足音が聞こえた。

 そんなに遠くはない。すぐ近くだ。誰だろうと身構えていると、対面から見知った、というよりは聞き知った声が自分の名を呼んだ。


「サヨ……? どうしたんだ、こんな夜中に武器なんて持って」

「……ガジか。こんばんは」

「あー、うん、こんばんは」


 まだ目が慣れないせいで私にはガジがよく見えない。

 でも、ガジのほうは私がハルバードを持っているのまで見えるらしい。

 また敗北感。でも、今の私にとってのそれは、己を奮起させるものではなく、暗い底に沈みこませるものに変わる。


「どこに行くつもりなんだ? サヨ」


 声が近くなる。多分だけど、私に歩み寄ったのだと思う。

 私は後ずさるのではなく、横にずれていくことで接近を回避した。


「訓練場」

「こんな時間に? もう開いてないと思うけど」

「だったら鍵を借りに行く。平気」

「眠れないのか?」ガジは続ける。「だったら俺と手合せしない? この前の続きをしよう」


 今日のガジはやけに食いつくなと思ったけど、よく考えてみれば、真夜中に武器を持って訓練に出かけようと言う生徒を見つけたのだ。ガジの反応はもっともだった。

 だけど、出歩いているのは相手も一緒だ。私はガジに問いかける。


「なんでここに?」

「トイレに行こうとしたらさ、うちの部屋のトイレ、なんか壊れててね。別の部屋の友達に借りてたところなんだ」

「へえ」

「まあ、ちょっと待っててよ。俺も武器取ってくるから」

「え、いいよ」私は足早にガジの声の発信源と思われる地点をすり抜ける。「一人で行ってくる。おやすみ」


 だけど、そんな私の腕をガジは掴んだ。

 目が慣れている分、相手のほうが正確な位置を把握できるのだ。


「……こんなこと言いたくないんだけど、大丈夫?」


 言いたくないなら言わなきゃいいのに。

 私は見られているであろう目を逸らす。


「ここのところずっと顔色が悪いし、この前なんてらしくもなく倒れるし、今だって」

「なんでもないよ」掴まれている腕をもう片方の手でゆっくりと剥がす。「ほら、早く寝ないと体に障るでしょう? もう帰りなよ」


 私の言葉にガジは反応した。ように感じた。あと少しで目が慣れそうなのに。


「やっぱりおかしい」ガジは強く言った。「サヨはもっと気遣うのが苦手な子だ」


 なんだと。


「そんなこと、普段なら絶対に言ったりしない」

「急に得意になったのかもしれない。近頃ある種の感動体験をしてしまって、情緒というものを覚えた」

「ちょっと来て」


 来てというわりには乱暴な動作で、ガジは私の手を引っぱって歩いた。なにをするつもりかはわからなかったけど、あまりに力が強いものだから私は上手くそれを拒めない。

 しばらく歩いていくと、窓から照明粒子イルミナの光が漏れる、比較的明るい廊下に出た。

 嫌な予感がして私は抵抗するけど、ガジは勢いよく私を窓に押しつける。

 背に感じる冷たさよりも、この状況のほうが恐ろしくてしかたがない。


「ねえ、ちょっと、なにを」


 ガジは無理矢理私の服を脱がしにかかった。襟のほうをがばっと広げて、中のカッターシャツにも手を伸ばす。

 抵抗しようとしたけど力では敵わなくて、結局、ガジは私の胸元を肌蹴させた。

 庇うものがなにもなくなったおかげで胸元がひやりとする。でも、そのあとにすぐ、それ以外の寒さが私に舞いこんできた。普段なら優しい彼の目が、私の胸に愕然と注がれるのがわかる。見られたくなかったのに。


「……サヨ……なんでっ」


 窓から漏れる光でやっと見れたガジの顔は、切なさに満ちていた。

 私は思わず俯いて、自分の心臓ハートが目に飛びこんできた。

——その色は、ひどく淀んでいた。

 健康的な幸福の赤なんて程多い。憂鬱なほどに淀んで、そのなかには深い悲しみも混じっている。夜のような危険な色をするそれに、ガジはゆるゆると首を振った。


「いつから」

「ちょっと前から」

「だって、こんな……魔法の注射は?」

「打ってるよ」


 言われなくてもちゃんと打った。たくさん打った。

 だけど、それでもこの胸の寒さはなおらないのだ。

 私の心は相変わらずささくれたままで、薄暗いところに沈んでいる。ちょうどこの心臓の色と同じだ。そんなところに私はいる。訓練のときはそれを忘れていられるから、心も少しは軽くなるけど、それも長続きはしなくて、結局はこのざまだ。


「じゃあ、最近士官学校アカデミー周辺に出没しているピンキーも」


 ガジならその結論に簡単に行き着くだろうと思っていた。

 思っていたから知られたくなかった。

 顔を見るのが怖くて、俯いたまま、私は肌蹴っぱなしだった服を押さえて整えた。


「……大丈夫だよ。サヨ」


 そう囁くように告げるガジの声は優しかった。

 私はおそるおそる顔を上げる。


「今すぐ魔法の注射くすりを打とう。今度は心臓に。そしたら、君の抱える嫌なことなんて、全部すっきり忘れられるよ」


 私はその言葉に肩を震わせた。優しく微笑みかけてくれるガジを見上げながら身じろいだ。そんな私にも、彼は相変わらず微笑んでくれた。それが私は怖かった。


「つらいことがあったんだよね。だから、君はそんなにも心を濁らせてしまったんだ」


 私は唇を噛みしめる。

 私は、この言葉の先を知っている。


「〝つらかっただろうね、でも、もう大丈夫〟」


 ガジは私の頭をおぞましいほど優しく撫でた。

 それは、夜の暗闇の恐ろしさなど容易く凌駕する、最悪の言葉だった。


「〝悲しいことは乗り越えて、忘れて、君も幸せになるんだ〟」


 ガジは、優しくて甘い言葉で、私の悲しみを受け止めたふりをした。マニュアルに沿った、儀礼的で心ない対応。これまで自分だって言い放ってきたはずの、骨身に染みた言葉のはずなのに、それはまるで毒のようで、私はたったそれだけで傷ついた。


「い、いやだ、やめて」


 私はガジを拒んで、その懐から飛びだした。

 踏鞴たたらを踏むようにして、彼から距離を取る。

 彼は動揺する私を見据えていた。悲しそうな顔で。まるで傷つけたのが私であるかのように。間違っているのは私であるかのように。


「……サヨ、やっぱりおかしいよ。君は異常だ」


 ガジは私を責めた。ありえないと、私の状態を疑うように首を振る。


「なんで」

「なんでって、そんなこともわからなくなっちゃったのか? 正気じゃない。どう考えても」


 ぶわりと冷気が広がるように、私の心は黒く染まった。


「正気じゃない?」私の声は震えていた。「つらいことがあっても悲しくないことは、正気なことなの?」


 そのとき、激烈な破壊音と共に建物が振動した。

 一瞬、ぐらりとバランスを崩して、私たちの体はよろめく。

 まるで爆弾でも落とされたかのような衝撃だった。

 数秒後、壊れかけの警報音が鳴り響く。


「な、なんだ」


 ガジは窓の外を見遣る。あちこちをきょろきょろと眺め、ある一点に止まったときに体を強張らせた。

 私もそちらに視線を遣り、すぐに目についた。ここからそう離れていないところで甲高く笑う、ピンク色の化け物の姿。


「ピンキー!」


 ガジの掠れるような叫び声が警報音に呑まれる。

 振動に目を覚ました何人かが眠たげに部屋から出てきた。半混乱状態で、「さっきのはなに?」「まさかまたピンキーが?」という囁き声に満ちていく。やがて、彼らは窓の外にある化け物のシルエットを見つけ、目を見開く。


「っ下がれ!」


 ピンキーの薙いだ腕が、何枚かの窓ガラスを一気に叩き壊し、悲鳴が上がった。

 逃げ惑って濁流ができる。そんな騒ぎを聞きつけて、武器を持った教員たちが「すぐに避難を!」と指示を出す。


「……っ! サヨ、早く、」


 そう、ガジは私のことを呼んでいたようだけれど。

 そこにはもう私はいなくて。

 私もそれを聞くことはなかった。






 夜の町はとても静かだ。平和な香りに包まれている。

 駆け抜ける私は息を切らせながら、高く高く聳える時計台を見上げた。

 遠い。間に合わない。

 私は銃を発砲して、その反動で建物へと上る。その場から穂先の銃で時計台を狙撃。狙いどおりに弾が当たったようで、数秒後、時計台の鐘が鳴った。

 真夜中に鳴り響く、身を強張らせる鐘の音。町中の家の電灯が一気に点いて、あちこちが慌ただしくなる。気づいた鐘突きが避難勧告のアナウンスをかけるのも時間の問題だろう。じきに全員が地下シェルターに逃げこむはずだ。

 これで、誰も巻きこまれなくて、巻きこまなくて済む。

 私は後にした士官学校アカデミーを振り返り、そして、また走りだした。

 なんせいきなりの襲撃だ。きっと就寝中だったみんなは迎撃なんてできない。戦闘になる前に呆気なく襲われてしまうだろう。

 そんなこと、させない。出現要因である私がよそへ行けば、ピンキーも私につられて動くはず。壊れるのは私だけでいい。

 私は腐っても、おかしくても、正気じゃなくても、出現要因でも、幸せの国の住人。こんな世界で生きる人間の一人。

 それがこんなにも自分を苛んでいる。


「っはあ、はあ、う……はあ、はあっ」


 やはり人間の足では完全に引き離すことはできない。こんなにも走ってきたはずなのに、少し離れたほどの背後で聞こえる、癇癪を起した赤ん坊のような甲高い鳴き声。まるで遊んでと言っているみたいに、私を追いかけてきている。

 びっくりするほど純朴に自分の体が震えた。肌寒いのは夜風のせいだけじゃない。ピンクの化け物が、自分目がけて追いかけてきているなんて、毛が生え変わるんじゃないかというほどの鳥肌が立った。これまで何度も対峙してきたはずなのに。

 恐ろしくて、だけど、それ以上に心が寒い。痛みも伴っている。重くて重くて、はち切れてしまいそうだ。こんなの生まれて初めてだった。

 魔法の注射くすりなんて、もうなんの意味もない。私にかけられた魔法は無惨に剥がれていく。当たり前のように麻痺させてきた負の感情が、長年の鎖を取り払って、祝杯を挙げるように暴れだす。厭味ったらしく正直に、発露は止まらない。どんどん広がっていって、私の顔の筋肉までをも侵し、勝手に造形を作り変えるのだ。

 私は今、どんな凄惨な顔をしているんだろう。


「はあっ、は、ふ、ううっ、はあ、ああっ」


 乱れる息と、漏れる声と、私のものでない気配——しゃなりしゃなり、可憐な足音が忍び寄る。

 振り向いてハルバードを構えると、愛おしそうに私を眺めるピンキーたちがいた。一斉に飛びかかってくる化け物を射撃し、撃ち漏れたやつらの顔面に、斧部を強く突きたてる。

 一体全部で何匹いるのだろう。本当に際限がない。倒しても倒してもピンキーは湧いて、しゃなりしゃなりと私に歩み寄った。

 また現れたピンキーの一匹が、勢いよくこちらに向かってくる。咄嗟に対処できず、ピンキーの顔が私の視界を埋め尽くすほどにまで近づいた。

 気持ち悪い。

 私は何度もハルバードを振りかざして、おぞましい体を穿つ。その死体からスライム状のものが私の顔にかかり、蒸発していった。

 気持ち悪い。怖い。嫌だ。

 踏んばる膝が笑っていた。手には汗まで握っていてべたべたした。


「は、あっ、はっ……はっ……はっ……」


 押し殺してきたものは甚大だ。

 悲しみも、恐怖も、とてもじゃないけど手綱を握れない。

 あんまりだ。酷い。痛くて、寒い。全てに絶望する。

 なんて重さだろう。こんな途方途轍もないものを抱えて生きていたのか、この世界で嘆いた出現要因の人々や、違う世界に住むセレナたちは。

 私にセレナを馬鹿にする資格なんてなかった。馬鹿にしてはいけなかった。こんなものを抱えながら必死に戦ってきた彼女を。知らなかったのだ。彼女がどれだけ勇敢で、偉大で、私がどれだけ傲慢で、無情だったか。

 ごめんなさい。

 それと同時に、羨ましい。

 あっちの世界ではこんな感情を抱えようと責められたりしない。大好きなひとに泣きやむまで抱きしめられて、泣き疲れればなんの怯えもなく眠りにつけるのだ。

 避けきれなかったピンキーの攻撃が、私の左腕を掠めた。

 制服の袖が裂かれて、腕が露出する。注射の打ちすぎにより変色し、青紫の斑点まみれになったおぞましい腕。こんな状態で生きてきたなんて。きれいな自分の腕を最後に見たのは一体いつのことだったか、もう思い出せない。

 夢の中のセレナの腕は、傷ついていたけど美しかった。いろんなものを背負っていたけれど、勇ましくて自由だった。

 私たちはこれほどまでに怯えているのに。

 負の感情に呑まれてしまうのを、薬漬けになってまで恐れているのに。


「はっ……は…………」


 本当に、私たちとは大違いだ。

 悲しみをものともしない。なんて素晴らしい理想の世界ユートピアだろう。

 当たり前だったものを異常だと思うようになって、よりいっそう恐ろしく思う。この世界の幸福は、まるで制度だ。幸せを謳わない者はピンキーにより駆逐される。この世界では悲劇を許してくれない。大切なものを引き裂いてでも忘れないと、幸福だと胸を張らないと、生きることすら許してくれない。ひとたび感動以外の涙を流せば殺されてしまう。

 許されない涙が、ぼろりと頬を流れていった。


「キハ……」


 ずっと一緒にいたのに、大切な友達だったのに、私は貴女のために涙一つ流さなかった。流してはいけなかった。それをすることは許されないのだ。この世界ではいつだって幸福が強制される。嘆くことや悲しむことは重罪だ。だって、ピンキーが来てしまうから。不幸なんてあってはいけない。貴女の死を、不幸だなんて思ってはいけない。

 だけど、いつしか誰かが不幸の象徴と言ったものは、今まさに、私の目の前にいる。この世界の正しさを全うできなかったから。だから死ねと世界に言われている。

 非国民は一人ぼっちだ。誰もわかってくれない。異常扱いが関の山。救出なんてのは名前だけ。励ましてくれるけど、慰めてはくれない。

 誰かが今の私を見ても、しょうがないなあと乱暴に服を肌蹴させて、鋭利な針を私の心臓に突き刺すのだ。元気出して、なんて、同情すらしていない言葉を優しく浴びせながら。

 思えばずっとそうだった。

 おかしな液体の入った注射を刺してまで、幸せを保とうとする。保てなかった者がピンキーに、そして人々に、ひいては世界により殺される。

 少し前までは私にとっても当たり前だった。それが愛であり正義だった。

 なにが愛だ。なにが正義だ。

 あのとき、目の前で嘆いている少女に対して、私はなんて酷いことを言ってのけたんだろう。

 私があの子にかけるべき言葉は、あんな言葉じゃなかった。


「っ!」


 迫りくるピンキーから逃れるため、オーニングテントをジャンプ台に、私は高く跳躍した。ハルバードをピンキーの頭部に突きたてるも、致命傷にはならない。暴れるピンキーの上で、なんとか持ちこたえている私を、他のピンキーの腕が狙い来る。

 私はハルバードを引っこ抜き、そちらへと向き直ったけれど、数が多すぎた。

 襲いかかった腕の勢いに押されて、吹っ飛ばされる。地面に叩きつけられた体が痛い。器官が圧迫されたからか呼吸がしにくい。苦しい。つらい。なんでこんなこと。

 どんどん弱気になっていく私の心におびき寄せられるように、ピンキーの数も増える。しゃなりしゃなりと近づいてくる足音。涙で滲んだ視界がさらに歪んでいく。倒れこんだまま見上げる夜は絶望的で、最低な気分だった。


 なんて言ってあげればよかったのかな。

 あの子は、あんなに泣いていたのに。

 私のしたことと言えば、弱っている人間にとどめを刺したことくらいで。

 最低だ。

 きっとあの子は——抱きしめてほしかったはずだ。

 今の私のように。可哀想に、つらいことがあったんだね、って。無理矢理に引き上げるのではなく、寄り添ってほしかった。自分の悲しみを軽んじてほしくなかった。今ならわかってあげられるのに。なのに、私はもう。


 立ち上がれない私のもとへ、ピンキーが近づいてくるのが聞こえる。ハルバードを握る力も逃げる力もなくて、あとは殺されるだけ。食われるか踏みつぶされるか、どんな殺しかたをされるんだろう。考えるだけで胸は震え、涙は止まらなかった。

 だめだった。こんなところまで来てしまったけど、これ以上はない。幸福彩度カラーゲージの明度はゼロ。もう終わりだ。

 出現要因である私が死んで、そして、ハッピーエンド。

 愛と正義の戦死。

 私にはお誂えだろう。


「いやだ……いやだよ、誰か、誰か……」


 私は譫言を漏らすように口を開いた。だけど、それを、きゃあきゃあと聞こえる甲高い鳴き声がかき消していく。

 私は本当に言葉を吐いているのかな。もう自分の声さえ聞こえない。

 ピンクの化け物たちの伸ばす影が、私を覆い尽くした。

 もうすぐ私は血肉の花となって、淀んだ心臓はひしゃげるのだ。

 こんな、こんな悲惨なときになって、私はあの夢を、走馬灯のように思い出していた。


「セレナ…………私を、助けて」



——そのとき光が見えた。



 青白い、稲妻のような光だ。どこからともなく強い風が吹く。空気が振動しているかのように揺れていた。

 私は顎を持ち上げて、自分の真後ろを眺める。

 真っ逆さまになった世界には、眩しい亀裂が走っていた。

 その亀裂の奥には人影。明順応の鈍い目は全貌を捉えない。ただ、その人影がなにかを持っていることだけはわかった。黒く太いノズルを亀裂から突きだして、一気に苛烈させる——機関銃の銃口だった。

 刹那、不埒な連続射撃が鼓膜を揺さぶる。

 空薬莢はカラカラと撒き散らされ、射撃されたピンキーは悲鳴を上げながら倒れこんでいく。

 ほぼ一掃し終えたとき、ちょうど弾が切れた。がち、と砲火には程遠い音が鳴ったと思ったら、その機関銃は地面に放り投げられる。使い捨て用だったのかもしれない。その様をとくと見ながら、私はもう一度その光の亀裂を見上げる。

 その亀裂から姿を見せた女性に、目を見開く。

 これも夢なのだろうか。すっかり滲んでしまって、けれどこれ以上なくはっきりしている目を見開き、私はそんなことを思った。

 長い金髪が光を受けて煌めいている。涼しげな目は、勇ましく吊り上げられていた。右手には銃。タイトスカートから伸びる長い足が、この世界の地を踏みしめるのが異様だった。


「——セレナ?」


 私の呟きに、セレナは長い睫毛を震えさせる。



 なんの心配もいらない。

 すぐに来てくれた。

 私のもとに。

 私を助けるために。

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