第3話 二人死亡

「貴方たちが死んだら泣くわ」


 私は、貴女は、私たちは、なにかと戦っている。

 戦うために武器を取り、必死になにかを守っている。そのは大衆であったり、自分であったり、時には平穏や愛など形のないものであったりする。

 たとえば、ピンキーは人を襲う。私たちの幸福そのものの世界で、ピンキーだけが悪であり障害だ。敵は私たちの弱さに忍び寄ってくる。自分の身を守るため、平穏を勝ち得るため、ピンキーという敵を倒さなくてはならない。

 けれど、セレナが武器を向ける敵は、いつも、自分たちと同じ人間だった。

 自分たちを脅かす不幸の象徴など存在しないあの世界で、襲われる心配なんてない平和な世界で、彼らが戦っていることが、ひどく不思議だった。

 どうして人間同士で戦っているのだろう。何度も引き金を引いてその命を終わらせ、同じ姿をした屍を踏み越えていくのだろう。

 セレナはその行為を嫌っていたし、怯えてもいた。誰かを殺すことが嫌だった。自分がしたことのために誰かが泣くのは嫌だった。また、自分が傷つくことも恐れていた。殺したぶんがいつか自分に跳ね返って、その身が傷つき息絶えるのは、きっとさほど縁遠くないことを、彼女は痛いほどに知っていた。

 もう嫌だ、怖い、死にたくない——私たちとは違う形をした心臓ハートを震わせる、それらの感情の全てを押し殺して、彼女は戦っている。こんなに寂しいことはなかった。


「貴方たちが死んだら、泣くわ」


 セレナはもう一度呟いた。表情は静まりかえり、赤い唇は引き縛られている。数十人ほどの武装した部下たちの前で、彼女はその言葉に似合わず堂々としていた。

 大きな敷地内の木々の中、建物の裏手にある緑深々とした陰の下。

 そこには、これから死の淵にでも立つかのような人間の顔が、いくつも並んでいる。そして、きっと本当に、彼らはそんな恐ろしいところに立っていて、命を懸けて、これから戦うことになる。


「今回、お父様の先生コンシリエーレが言っていたように、相手はあたしたちに気づいている可能性があるわ。あたしたち以上の人数で、あたしたち以上の武器で、あたしたちを迎え撃ってくるかもしれないってこと。元仲間だからって手加減してくれるような相手じゃないわ。あっちだって家族の命までかかってるんだもの。暗殺だとは言っていたけど、銃撃戦にもなりかねない」


 夢に見るとは言え、セレナの全てを知っているわけではない。この話の内容にも完璧についていけるわけじゃないが、おそらくこれから殺そうとしているのは元々彼女たちの味方だった人間なのだ。セレナの心は冷たかった。


「ディートリッヒ隊長、今日は弱気ですね」

「残念でした。あたしはいつも心を悩ませているわ。自分や、貴方たちの死に」

「こりゃあすみませんでした」

「あの隊長もか弱いレディだったってことだ」

「貴方を下見役にしたっていいのよ、chatterboxおしゃべりくん

「おっとまずい怒らせちまったぞ」


 音を漏らさないようにみんなが笑った。

 セレナも少しだけ表情を崩す。


「なんて嘘よ。貴方たちを、あたしより前に歩かせることはしないわ」


 その言葉に笑い声が止まる。むず痒そうな、嬉しそうな、だけどちょっと不満そうな顔を彼らはした。それは慕っているからこその顔だ。彼女の人望が、彼らをそうさせる。


「そろそろ突入時間だけど。貴方たちに、絶対に守ってほしいことがあるの」

「とっ捕まっても沈黙。裏切るくらいなら舌を噛み切れ。ですか? そんなの掟でも決まってんですから今さら——」

「死んでしまうくらいなら逃げなさい」


 セレナは被せるようにして言った。

 おしゃべりを続けていた人間が口を閉ざす。


「自分を貫く弾に怯えなさい。降りかかる毒ガスに怯みなさい。死にそうになったら迷わず逃げなさい。感情を殺さないで、その気持ちを疑わないで。無理して戦わなくてもいいの。命を投げ出した勇敢な戦士になる必要なんてない。万が一、とっ捕まって裏切ったとしても大丈夫。あたしがいつか必ず貴方たちを迎えにいくわ。ファミリーやあたしのことを負い目になんてしないで。生きることをなによりも優先させなさい。そのことに後ろ指をさされたなら、あの女に強制されて嫌々そうしたんだとでも言えばいい」


 きっと私も、彼らと同じ気持ちで聞いていた。

 セレナは言葉を続ける。


「この全てが終わったときに貴方たちがいないんじゃ、ファミリーが守られたってちっとも幸せじゃないわ」


 これは本心だ。残りの半分の、セレナから雪崩れてくる思いがそれを鮮明に物語っている。いまにも震えてしまいそうな、とてつもなく強い意思。


「……隊長、今から任務なんですからそんなヌルいこと言ってちゃ困りますよ」

「そうですよ。どうせなら、これが終わったらあたしの奢りで飲み明かすわよ、とか言ってほしかったなあ。やる気出るし」

「第一裏切れるわけないじゃないですかー、裏切ったら家族まで巻き添え食らうんですよ」

「それとも一生養ってくれるんで?」

「バッカ、隊長にできるわけないだろ。隊長はに夢中なんだから」

「ああそっか」


 上司に対してと思えない言葉にセレナは「貴方たちねえ」と肩を震わせる。白く固い拳が誰かの顔面に飛びこみかけたときに、賑やかな声が上がる。


「なんのためにずっと隊長の下でがんばってきたと思ってんですか」

「ちょっとは俺たちにもいいところ見せさせてくださいよ」


 今度はセレナがぴたりと静止する番だった。涼しげな目が丸く見開かれる。


「そんで、よくやった、って言ってください。大丈夫です。上手くいきますよ」


 セレナの中で渦を巻いていた不安が消えた。まるで魔法の注射くすりを打たれたよう。雨がやんで、からりと雲が白んだような、呆然とするほどの心地だった。それにつられて彼女の表情も輝いていく。その美しい繭眉と目を吊り上げて、にやりと微笑んだ。


「時間よ。行きましょう」

「了解」


 彼らは展開するように広がって、素早く屋敷の窓に近づいていく。

 何人かが窓からこっそりと中を確認した。ふるふると首を振る。

 数回手を上げると、何人かが鍵の付近の窓硝子に丸い穴を開けた。かけられた鍵を外してから、静かに窓を開く。開けられた数箇所から規則正しく侵入していく。

 彼らは武器を構えていた。セレナも懐から銃を取りだす。

 私も手に汗を握った。セレナの感情と同調して、緊張してしまう。

 いよいよなのだ。このまま上手くいく気は、正直あんまりしない。警戒は緩めないほうがいいはずだ。奇襲をかるのは自分たちでなく相手のほうだと思ったほうが賢明だろう。そのことを呼びかけたくても、私は声を発することはできない。見ていることしかできないのは、なかなかどうして辛かった。

 壁にすり寄りながら歩く。屋敷の中を散開するように、彼らは広がっていった。二手に分かれた塊はさらに二手に分かれ、あらゆる廊下を踏みしめていく。誰かに接触することはなかった。

 おかしいほどに鉢合わせない。セレナの不審は深まっていった。


「待って」


 先頭を進んでいたセレナが腕を上げ、背後に静止を促す。

 彼らは指示どおりに立ち止まった。

 止まった先の廊下には一枚の絵画があった。名も知れぬ画家の小さな一枚。描かれた天使の眼差しにセレナは注目している。目を細めて、なにかを観察するようにじっとしていた。絵画の眼差しの先には、もう一枚の絵画の、美しい笑みを湛えた女性の眼差し。一直線に描かれる眼差しを、彼女は疑っているのだ。

 ポケットから金貨を一枚取り出す。それを宙に放り投げた。

 投げ出された金貨は弧を描き、眼差しの直線に差しかかったあたりで、じゅわりと焦げ溶かされた。地に落ちた金貨には穴が開いている。部下たちは目を見開いた。


「まさかこんな……」

「あのくそったれの政治家さんが考えそうなことよ。にしても、やっぱり気づかれていたわね。トラップは一つだけとは限らない。気を引き締めていくわよ」

「はい!」


 と、そこで爆音がした。

 セレナたちのいる場所よりも遠く離れた地点から。だとしても、すごい震撼と爆音だった。爆ぜた地点は相当な被害が出ていることだろう。部下たちの通信機に声が入る。


『こちらチーム・ツヴァイ。被害多数。チーム・ドライに応援を要請する』

『こちらチーム・ドライ。了解』

「爆発の攻撃か……!」

「隊長」


 背後からする部下の声に、セレナは振り向かず答える。


「任せましょう。進むわよ」


 セレナたちは絵画の眼差しの下に潜りこんで進む。

 どれだけ進んでも人影なんて見当たらなかったが、嫌な予感だけは募っていった。この屋敷全体にそんな雰囲気が滲みこんでいる。なにを仕掛けてくるかわからないような不安とか、不気味さとか、剥きだしの敵意とか。そういう毒素に近いものだ。

 しばらく歩くと、広いホールのような場所に着く。真っ白い柱と透明感のある床が神聖的な場所だった。

 そして、嫌な予感は的中する。


「放射!」


 四方八方からエメラルド色の光がセレナたちへと収束した。凄まじい速さと熱量。その閃光は、私がこれまで見たどんな光よりも眩しい。爆発するような衝撃と眩しさが、あたり一面を覆い尽くす。

 やがて、光は収束する。白い煙が上がるその空間の、誰もいないと思っていたホールの柱のそばから、途端大勢の人影が浮かびあがる。

 なんだこれは。まるで透明人間が現れたかのようなミラクルだ。

 彼らは薄く笑いながら、構えていた大型銃器の銃口を下げる。


「セレナ・ディートリッヒの部隊か」

「やはり来ましたね」

「そうだな。まあ、しかし、いまの砲撃でひとたまりも——」



「総員! 一斉射撃!」



 すると、天に昇る煙の中から、五十拍の発砲音。

 銀の弾丸で反撃を仕掛け、敵を撃ち殺していく。

 苛烈な攻撃を受けたにも関わらず、セレナたちは死んでいなかった。それどころか、手を読んでいて――やはりそうきたか、と確信している。その強い感情に、私は自ずと高ぶった。


「光学迷彩にエレクトロレーザーバズーカ。やっぱり彼の武器を使っていたわね」


 煙の中から金髪を靡かせるセレナ。

 銃を構えたまま、強く続ける。


「だけど、彼がエレクトロレーザーバズーカの反電撃体シールドを作っていたのは誤算だったでしょう?」


 もう彼女たちの言う単語に関してはなにがなんやらだが、この際そんなことはどうでもいい。一気に空気が変わった。自分たちに攻撃を仕掛けてきた彼らは、今や床に這いつくばっている。


「ここからは銃撃戦よ! 気、抜くんじゃないわよ!」


 そこからは、セレナの言うとおり、本当に銃撃戦だった。

 戦況は過酷を極めた。おそらく元の数が圧倒的に不利だったのだろう。爆音や撃鉄音は絶えず、さっきの迎撃も戦場の事始め——一度きりのビギナーズラックにすぎない。反電撃体とやらを装備しているからか、エメラルド色の光の攻撃の餌食なることはなかったが、あっちのほうに分があるのは明白だった。

 それでもセレナは諦めていない。何度も引き金を引いて前に進む。

 どうしてこんなことをしているのか、私にはわからない。だけど、私はいつしかセレナに移入していった。

 がんばれセレナ。セレナ。

 私の思いが通じたのか、彼女を戦闘に猛攻が始まる。機関銃は唸り、徐々にではあるが制圧してくる。

 もう火薬の匂いでいっぱいだ。割れていない窓ガラスはない、傷ついていない壁はない。ところどころに引火して、床には赤が広がっていた。

 大きな部屋に続く長く広い廊下、その穴ぼこだらけの曲がり角の陰に隠れながら、新しく弾をこめていた。顔につけてしまった傷も痛みは感じない。体もまだ動く。まだ戦える。


『こちらチーム・ノイン。三階の制圧に成功』

「こちらチーム・アインス。残りは最上階だけよ。各チーム、至急応援に」

『了解』


 そこで爆撃される。おそらく手榴弾かなにかが投げこまれたのだろう。被害は出なかったが、爆熱風に喉がひりつく。

 セレナは反対側の曲がり角にいる部下を見遣った。随分と数が減ったように感じられる。


「まだ弾は残ってる?」

「ジリ貧です」

「まだやれる?」

「もちろんです」

「流石あたしの部下だわ」セレナは不敵な笑みを浮かべた。「残るは裏切り者ラットの政治家さんとそのボディーガードだけね。鼻息で飛ばしてやりましょう」


 その言葉にみんながみんな声を上げて笑った。セレナも遅れて肩を揺らしながら笑う。そして、一瞬で顔つきを変えた。

 セレナは走りだした。長い廊下を駆け抜ける。途中で何発か発砲されたが、それは掠るか的外れなところに着弾したかのどちらかで、彼女の足を止める理由にはならない。

 彼女は相手に蹴りを食らわしたあと、もう一方のほうへ発砲。そのあいだに彼女の部下が、蹴りを食らった人間の鳩尾にナイフを突きたてる。勢いよく引っこ抜いてから、念のために、落ちた銃を蹴り飛ばした。


「ぐあっ!」


 そんなとき、背後から叫び声が上がる。仲間の一人が撃たれたのだ。

 自分たちが来たほうのから何人かの敵が見える。

 まだ生き残りがいたなんて。

 セレナは唇を噛みしめた。


「隊長、行ってください! ここは俺たちが食い止めます!」


 頷いたセレナは一人駆けだした。もうすぐでこの戦いを終わらせられる。あとは目の前の部屋の人間だけだった。そこに、少しの油断が生まれたのかもしれない。

 部屋を開けた途端、猛烈な一撃が腹に沈む。


「がはっ!」


 セレナは呻き声をあげながら床に倒れこんだ。

 視界がぼやけそうになったところで、彼女の頭に銃口が向けられた。おそらくボディーガードが残っていたのだろう。このままだとやられる。

 起きて、セレナ!

 セレナはがばりと身を起こして、持っていた銃をぶっ放す。相手の心臓をダブルタップで穿った。彼女の頬に薄く血が跳ねる。歯を食いしばりながら立ち上がった。

 そこでセレナに光線がまっすぐに伸びる。エメラルド色の光ではない。オレンジ色をした楕円形の銃弾だ。その銃弾を間一髪で避けた彼女に、その弾は美しく追尾した。まるでどこまでも追ってくる獣のようだった。

 セレナは部屋にあった銅像の背後に隠れたあと、陰からオレンジの光の弾へと発砲。見事にその光を撃ち抜いて、攻撃を殺した。


追跡型炎熱銃トラッキング・ガンまで持ち出されていたなんて」


 セレナは息を整えながら、銃を構える男の足音を聞いた。


「もうここまでだよ。セレナ・ディートリッヒ」


 おそらく最後の標的であろう男に、セレナは嘲笑気味に返す。


「この状況下でよくそんなことが言えたわね。もう終わりなのは貴方のほうでしょう?」

「終わり? まさか。現に君を追いつめているのは私のほうだ」

「もう貴方しかいないわよ」ため息のような笑い声を漏らす。「ジェット機で逃げようと思ってたんでしょう? お生憎様、私の部下がちゃーんとぶっ壊しといてあげたわ」


 またオレンジの光が発砲される。セレナの凭れかかる銅像に当たって、像の一部を壊した。熱を含んだせいで温度が上がる。彼女の心拍数も上がっていた。

 銃の弾数を確認する。残りはたったの一発だった。

 オレンジの光を上手く避けながら、彼を狙うことはできるだろうか。疲弊の具合や状況を見てもかなり厳しいだろう。不安や恐怖が滲むのがわかる。私の胸にも同じだけのものが押し寄せてきた。


「さっきまでの威勢のいい返事はどうした? セレナ・ディートリッヒ」


 男が近づいてくるのがわかる。足音は響き、カラコロと瓦礫の石が蹴られて転がってきた。セレナの手が冷たくなっていく。緊張しているのだ。それと同時に、体は居心地の悪い熱も孕んで、私まで呼吸が忙しくなるような感覚がした。

 胸のあたりで強く手を握って祈るように目を固く瞑る。

 その赤い唇からほろりと言葉が紡がれた。


「——サヨ、力を貸して」


 私の、名前。

 名前を呼んだ。彼女が、セレナが、私を。

 夢の中で一方的にしか知らない、どこだかも知らない架空の場所で戦いながら生きる、この美しい女性が、いま、こんな絶望的な状況下で、一方的に眺めることしかできない私を、まるで希望にでもするみたいに、彼女は呼んだ。

 突然のことに思考が停止する。何故。どうして。わからないことは山ほどあった。考えが追いつかなくてどうにもならない。

 だけど、感情は溢れだす。

 心臓ハートはどんどん暖かくなっていく。打ち震える。高揚した。思えば、悲観になりがちな彼女から、こんな喜びをもらったのははじめてのことだった。だから、私は純粋に祈った。

 大丈夫だよ、セレナ。

 私がついてる。

 セレナはもう一度銃を構える。目を開いた。その双眸は強い。

 銅像から躍り出て、男の眉間を狙うように銃口を向ける。呼吸で震えることはもうなかった。いい構えだ。

 男は三発、セレナに向かってオレンジの光を発砲した。彼女はギリギリまで動かない。十分な距離まで引き寄せる。光はまっすぐに彼女を射殺そうとしていた。

 今だ!

 セレナはすかさずしゃがみこむ。彼女を貫こうとしていた光は頭上を通過し、銅像を激しく破壊する。男は驚愕していた。その隙を狙って、彼女は発砲。

 彼女の撃った弾は、見事に男の眉間を穿った。

 男は地べたに倒れこむ。血を流しながら呼吸を終えていた。セレナは荒くなった息を整えながら、空になった銃を下ろす。やっと終わった。

 だらんとした腕から銃が逃げる。音を立てて床に落ちて、小さくスライドしていった。豊かな金髪をかきあげて、セレナは深く息をつく。


「隊長!」


 背後から大勢の部下の声が聞こえる。そちらも終えたようだ。長い戦いは幕を閉じた。彼女はようやっと平穏を勝ち得たのだ。思わず口角が上がる。


「貴方たち、本当によくやっ――」


 彼女は最後まで言葉を放つことはできなかった。

 振り向いたときに気づいてしまったのだ——仲間が欠けていることに。

 駆け寄ってくる部下たちは傷ついてはいるが顔は朗らかだ。やっと終わった戦いと功績を湛えている。だけど、それは全員ではなかった。無我夢中でここまで来てしまったけど、一体何人が傷つき、何人が血を流したのだろう。上手くいきますよって、言ったくせに。

 彼女は泣いた。

 大粒の涙を流しながら、声を押し殺して泣いた。

 切なさがこみあげる。胸がすうっとして、寒い。同調して、伝わってくる。すべて終えた安堵のなかにあるこの悲愴が。感傷的な彼女の土砂降るような思いが。

 私だけは知っている。

 彼女は自分の仲間が死んでしまって、こんなにも悲しい。






 朝、目覚めたとき、私の胸には彼女の切なさがまだ残っていた。

 照明光輪イルミナの朗らかな光線が、窓から部屋に射しこんで、私の枕元を眩く白けさせる。

 外を見上げると、光に照らされた糸や埃が、優雅なくらげのように浮かんでいた。今日も清々しい空気だ。だけど、水が落ちる音がする。寝転んだ体勢のままで窓の外に目を遣る。照明光輪の光に紛れながら、無数の造雨ドロップが寂しげに滴っていた。


「……今日は水曜日レイニーデイか……」


 農作を豊かにするため、一週間に一度だけ上から水を降らせる日がある。今日はその周期だったのだ。

 造雨ドロップに合わせて空模様もいつもより瑞々しく変化する。暗くなると困るから、照明光輪イルミナのブレーカーを落とすことはないが。

 私はのそりと起きて、ベッドを降りる。

 今日はそれほど寝起きを引きずらないのか、鏡の前の自分でもびっくりするほど、涼しい顔をしていた。顔を洗えば私の目はもっと見開かれ、完全に覚醒している。

 自分の胸に手を当てて、布越しの心臓ハートに触れる。

 襟ぐりを「えいや」と深く下げれば、鏡に心臓ハートが映った。

 赤紫。少し心調を崩している。でも、悪いってほどじゃない。気にしなくてもいい程度。この妙な空寒さが、今日の目覚めの原因だろうか。夢の内容も全て、はっきりと思い出せる。

——サヨ、力を貸して。

 セレナの言葉を思い出し、私の心臓は一気に元の赤へと染まる。

 あれはやっぱり夢じゃなかった。いや、元々夢の中の出来事だから、もちろん夢なんだけど、でも、夢じゃなかった。

 彼女は私の名前を呼んでくれた。

 私は洗面所から出る。いまだベッドで涎を垂らしながら眠りこけている、ひどいお寝坊の布団を、バッと剥ぎ取った。


「キハ。おはよう」

「……おっ、おはようございます」

「起きて。食堂行くよ」

「はあ」


 珍しく機嫌のいい朝を迎える私に、キハは眉を顰めて支度をしていた。長い髪を一本の三つ編みに結わえて、寝癖が元気よく挙手をしていた私の髪も整える。制服に着替えて武器を持ち、私たちは食堂に向かった。


「今日はどうしたんですか? 朝なのに機嫌がいいですよ?」

「いい夢を見た」

「毎日見てくれたらいいんですけどねえ」


 少し早く出たおかげで、席を取るのに悩むことはなかった。まだテーブルは半分も埋まってなくて、メニューも選り取り見取りだった。

 自分のトレーを持って、好きな食事を皿に乗せていく。トレーに乗った皿の中で、デザートのヨーグルトの量が一番多い私に、キハは足りないものを念入りにチェックし、せっせと追加していった。


「そんなに食べられるわけない」

「ヨーグルトを減らせばいいんですよ。主食とデザートが逆になってます」

「だって朝は胃袋が動かないんだよ」

「不健康です! サヨには長生きしてほしいので、ちゃんと食べてください!」


 キハが健気なことを言うので、私は諦めて完食して見せることにした。吐き気ごと飲みこんで空になった皿を見せつけると、キハは「よろしい」と頷いた。


「うぷ。しんどい」

「吐かないでくださいね」

「本当にキハって頑固」

「サヨこそ、頑固が擬人化してハルバード振り回してるようなものじゃないですか」

「それ、どんな化け物ピンキー?」キハが食べ終えるのを待つすがら、私はぽつんと呟いた。「ねえ、キハ。サヨって名前のものってなんかある?」

「えー? サヨしか知りません」

「だよね」


 つまり、セレナは他の誰でもなく、私の名前を呟いたことになる。

 びっくりして有頂天になっていたけど、これは一体どういうことだろう。考え直してもよくわからない。

 第一、セレナは夢の住人のはずだ。どうして私の名前なんか——いや、私の夢の住人だからこそ、私の名前を知っていた可能性はあるけど。どうせ私の頭の中の世界なんだから。私の脳みそは、あんなトンデモな架空世界を作り上げるような、すンばらしい出来をしているのだ。

 自分の妄想に一喜一憂して、ちょっと馬鹿みたいだ。だけど、あのセレナに呼んでもらえたことが、私はとても嬉しかったのだ。


「今日のパトロールも上手くいく気しかしない。何故なら体の調子がいいから」

「そんな不安なこと思い出させないでくださいよ……」

「昼のパトロール?」私は頬杖をついた。「二回目だよ? まだ緊張するの?」


 今日も午後は退桃士ピンカーと一緒にパトロールをする予定だった。

 引率する教官はマカ教官で、場所は前回と同じ中央の首都アモロト。

 前回とほぼ勝手は同じ、むしろ前回のほうが、ピンキーが出現したぶん過酷だった。昼間にピンキーが現れるなんて滅多に起こらない。つまり、昼のパトロールはそれほど緊張のいらない訓練なのだ。

 とはいえ、前回のようなこともあるから、気は抜けないが。


「そうですね……やっ、やっぱり、怖いです。私は、サヨみたいに優秀なわけじゃないですし、もしかしたら怪我をするかもとか、危険な目に遭うかもって考えると、不安になるんです」


 ふうん、と私はジュースを飲み干す。


「毎日が平和で、幸せで、こんな幸せが壊れてしまうことが怖い」


 キハは自分の胸をそっと押さえる。その奥の彼女の心臓ハートは、いま、どんな色に染まっているのだろう。キハの浮かべる表情が、夢の中で見るセレナの表情と重なった。

 私は声をかけようと口を開き、しかし、キハの「でも、」という言葉に遮られる。


「私、今日はがんばります。ちゃんとサヨみたいに動けるようになります」

「……そっか」私は小さく笑う。「きっと大丈夫だよ。この前だって、バル教官も苦戦したピンキーを、キハは見事倒したんだから」

「はい!」


 キハはふんわりと笑った。

 もう食べ終えたようなので、トレイを返して食堂を出る。一度部屋に戻り、念のためにキハは魔法の注射くすりを打っていた。緊張や不安が消えたのか、午前の授業を受けるころには、臆病な顔は消えていた。

 きっと魔法の注射くすりのおかげだけじゃない。前回の功績を思い出したことにより、自信がついているのだろう。ちょっと弾みがちな足音を聞いて、それが伝わってきた。

 その調子で午前の座学を乗り越えて、私たちは巡回用のヘリに乗るために、ヘリポートを目指す。階段を上りながら、精神統一を行っていた。


「シュッシュッ」

「シュッシュッ」


 今回はキハも素振りをしていた。前に私がやったときはあれだけ恥ずかしがっていたのに、成長したものである。やはりキハはできる子だ。


「シュッシュッ」

「シュッ……あ」


 キハの手からウォーハンマーがすっぽ抜ける。そのまま足元に落ちて、上ってきた階段をガラゴロと下っていった。


「落ちたね」

「よくないことが起こりそうです」


 がっくりと項垂れるキハに、「んなアホな」と返した。

 キハはさっきよりもちょっと重たい足取りで、ウォーハンマーを拾いに行った。戻ってきたときには、素振りをするのをやめていた。

 ペントハウスのドアを開けるといつかの日と同じ、けたたましいプロペラの回る音が、あたり一面に沸き起こっていた。

 吹き荒れる風と注ぐ造雨ドロップに、キハは髪を押さえる。二度目なので確認はもうないらしく、生徒は素早く持ち場についていた。私とキハもマカ教官を見つけ出し、彼女の後につく。

 マカ教官はいつもと同じ、ドルマンスリーブにタイトなズボンという、ラフな格好をしていた。腰に巻かれたベルトと金具で、彼女の武器である無数の棘が生えた茨鞭を固定している。相変わらず、戦うにはそぐわない豊かな長髪を野放しにして、香る花飾りで彩っている。


「今日はよろしく。サヨ、キハ」

「こちらこそよろしくお願いします」


 私たちはファンシーな色をしたヘリに乗りこむ。

 乗ってから十数秒後に離陸。ヘリは私たちを乗せて上昇していく。


「今日は湿気で髪が大変よね」


 マカ教官は物憂げにそう呟いた。

 ふわふわとした髪をしているのはいつものことなので気づかなかったが、もしかしたら、今日はいつもよりボリュームがあったのかもしれない。


「ですね。私も髪をくくってごまかしてます」

「なるほど。私なんて髪が多いもんだから、ゴムでまとめようとしても、耐えらんないで切れちゃうのよ。困りものってかんじ」


 なるほど。だから彼女はキハみたいに髪を纏めないのか。だったら切ればいいのに。


「サヨは短いのもあるだろうけど、湿気をものともしないわね」

「それ以前に、サヨ自身がものともしないんですよ。寝起きのヘアスタイルなんて、寝てるあいだに嵐でも来たのかってくらいひどいのに、ほったらかしにしようとするんだから」


 キハはそう言ってくすくすと笑った。女性の教官は親しみやすいのかいつもより流暢にしゃべっている。

 マカ教官もマカ教官で、他の教官がいないためか口調がややフランクだ。


「ガジも湿気に逆らう髪質でね。ムカつくわ。女ナメてんのかって感じ」

「マカ教官はガジと仲がいいですね」

「まあ、一番弟子だからさ」マカ教官は背凭れに寄りかかって、足を組んだ。「新米教官だったときから見てるのよ。仲が悪かったらおかしいでしょ? そういう二人はバル教官と仲がいいわよね」

「私というか、主にサヨですね」

「サヨはバル教官の秘蔵っ子だもんね」


 なんと。私はバル教官のお気に入りなのか。その言いかたは悪くないな。士官学校アカデミーで流行らないかな。むしろ私が積極的に吹聴するのがいいのかもしれない。次代を担う稀代の新星。愛と正義の戦士。バル教官の愛弟子!


「キハも、そして特にサヨも、見ただけでバル教官の教え子なんだなあってわかるわ。銃撃のリコイルを利用した素早い空間移動。機動力の高さがあのひとの特徴だから」

「やっぱり、戦いかたを見ただけで、誰が誰に影響を受けてるかとかわかるんですねえ」

「みんな特徴があるのよ。あのひとの教え子なら目を瞑っててもわかるわ。攻撃目的でないのに異常に発砲する弾数音が多かったら、まず間違いなく、ってところ」


 なるほど。私もキハも、跳躍や高速移動の補強に銃の反動を利用することを、バル教官から学んだ。反動制御のため訓練にほとんどの時間を割いたと言っても過言ではなく、他の生徒が必死に素振りやイメトレをしているあいだ、私たちは壁に激突していた。キハはいまでもたまに激突する。


「昔っから変わんないわ。あのアイディアのおかげで学生時代に評価されて、彼は腕っ節の退桃士ピンカーになったのよ……もうやめちゃったけど」


 ぶっきらぼうに吐いたマカ教官は、窓の外を眺めている。

 私はそこではじめて口を開いた。


「マカ教官はバル教官の学生時代をご存知なんですか?」


 私の問いかけに、マカ教官は視線もくれずに返す。


「まあね。あのひとの後輩だったの。そう長いあいだ一緒だったわけじゃないけどね。私がいざ退桃士ピンカーになったときも、あのひとはすぐにやめてこっちに来たから、実質知り合いってほどの仲じゃないわ」


 意外だった。なにが意外って、バル教官とマカ教官の歳が近いことにだ。そして、バル教官が老け顔だと発覚したことにだ。

 たぶんあの似合わないオールバックがだめなのだ。いっそ下ろしてしまったほうが、フレッシュな雰囲気でいいと思うのに。


「マカ教官とバル教官は、仲が悪いと思ってました」


 私がそう言うとマカ教官はこっちを見た。驚いたように目を見開いている。それから小さく苦笑して、手を振った。


「そう見えるかもね。でも、あのひとは、私になんて目もくれないから」


 笑ってるのにどこか悔しそうだった。

 マヤ教官の言葉の意味も、その表情の理由も、私には測りかねた。

 人間の感情は複雑にできている。不躾に服を脱がせたとき、目の前で笑う女教官の心臓ハートは、どんな色をしているのだろう。

 私には関係のないことだけど、赤でありさえすればいい。

 それが全てだ。


『前方にピンキーらしき影を確認。数は七。繰り返す。前方にピンキーらしき影を確認』


 何気ない空気に、一瞬で緊張の亀裂が走る。

 マカ教官の顔から笑みが消えた。

 キハも表情を強張らせる。


「……確認したわ。ただちに現場に向かう。時計台の鐘撞きには避難勧告のアナウンス、他のヘリにも応援の要請を」

『了解』


 一度そこで操縦士との連絡が途絶えたか、数秒後、もう一度紙を破るような音が鳴り、スピーカーから声が放たれる。


『緊急連絡。北部でもピンキーが出現した模様。他の機体がすでにそちらへ向かっていたため、応援が遅れるとの連絡が』

「はあ? タイミング悪いわね」眉を下げながら怒鳴り気味に言った。「とりあえず、私たちだけで現場に向かうわ。下降をお願いします」

『了解』


 その言葉を聞いて、キハは安堵の息を漏らした。今回はヘリから飛び降りるのではないらしい。ぐでっと溶けたキハをよそに、どういうわけか、マカ教官はヘリのドアを開ける。


「着陸準備。まさかを承知で聞くけど、お嬢さんたち、着地のしかたがわからないなんてことはないわよね?」

「え」キハの声は歪に響いた。「飛び降りるんですか?」

「上空300メートルぐらいまでなら下降できるんだけどねー。なんせ町中だし。それに、パラシュートを使わないほうが、早く現着できるわよ」


 発想がバル教官と同じだ。蒼褪めた顔で「退桃士ピンカーはみんなそうなの……?」とこぼすキハに、私は「そうなんじゃない?」と返す。

 適度な距離まで近づいたあと、マカ教官はふらりと機体から飛び降りた。

 それを見送ってから、私も後に続く。ハルバードの穂先から銃をぶっ放し、反動で失速する。

 ふとあたりを見回したときに、既視感――見覚えがありすぎる。


「ここって、前回と同じ現場……?」


 風を感じながら、私は呟く。

 いかにも平和そうな住宅地。一軒家の立ち並ぶ大きなY字の公道。間違いなくあの場所だ。こう何度も被害を受ける町に、住民の不運を思う。

 先んじたマカ教官は、腰の茨鞭を解きほどき、街灯に巻きつけて振り子のように移動する。鞭の先端には磁石でも仕込んであるのか、体重が乗ってもびくともしない。手元のグリップについたスイッチで磁性をなくして、次の街灯に移る。そのまま、ぐるんと真上まで体を持ち上げて、一回転したあと街灯へと着地した。

 さすが、教官と呼ばれる退桃士ピンカーだ。鮮やかな身のこなしだった。

 私は、街灯の柱にハルバードのピックを引っかけ、くるくると螺旋状に回りながら、地上まで滑り降りていく。

 着地して顔を上げると、そこにはむごい情景が広がっていた。

 言葉を失う私の真上で、マカ教官が愚痴のようにこぼす。


「地獄絵図ね」


 家の屋根を壊し、草花を毟り、赤ん坊のように甘やかな阿鼻叫喚を漏らしている、ぞっとするいでたちのピンクの悪魔が、大きいのも小さいのも数多く、そこらじゅうに蔓延っていた。

 前回とは比べ物にならない。凄まじいスピードで増殖している。活動も活発で、水たまりを無邪気に踏みながら、踊るように町を襲っていた。

 こんな興奮しているようなピンキーを見るのは初めてだった。

 それぞれによってキーノートが違うのか、甲高い鳴き声がいくつも重なって、まるでオーケストラのようなメロディとなって聞こえる。

 気味が悪い。思わず寒気がした。

 そこに、私たちに気づいた何匹かのピンキーが、しゃなりしゃなりと近づいてくる。


「……数が多すぎる」


 これほどまでの数を一度に相手取ったことがない。私は構えながらも、無意識に抜き足で後ずさっていた。気を引き締めて迎え討とうと、ハルバードを握り締めたとき、街灯の上にいたマカ教官が、私の前に着地する。


「サヨ、下がってなさい」


 マカ教官は、一度、茨鞭を振るってから、挑発的な眼差しでピンキーに対峙した。

 その中でも先頭にいた、ウサギの耳を持つロバ顔のピンキーの、その太い首周りに、茨鞭を巻きつける。不気味なまでに鮮やかな目元に、ぐいっと顔を近づけた。


「ご機嫌いかが? ピンクの可愛いケダモノさん」


 ビリバリリッ。

 と、硬い翅を持つ大きな虫が暴れたような音が鳴り、ピンキーから湯気のような煙が上がった。

 数秒後、そのピンキーは硝子のように弾け飛んで、空気中に飛散した。ダイヤモンドダストの中でマカ教官は不敵に笑う。

――あれはただの茨鞭じゃない。

 敵に巻きつき、磁性を利用して捕らえる、紐状のスタンガンだ。

 たちまち駆けだしたマカ教官は、まるで自分の腕のように、その茨鞭を使いこなしていた。大仰に振るい回して、襲い来るピンキーに攻撃を浴びせる。

 その瞬間に鼓膜を劈く、風を切るようなしなる音。皮を裂く棘の蔓。降り注ぐ造雨すら弾くような、鋭い威力だった。その茨鞭の間合いに入ってしまえば、彼女に平伏ひれふすしかない。


「……そりゃあ、その髪も邪魔にはならないよな」


 私は半ば呆然と呟き、マカ教官の雄姿に見惚れていた。

 小型のピンキーには鋭い鞭打ちを浴びせ、大型のピンキーには電気ショックを与える。最低限の動線で鮮やかにいなす、無駄のない鞭捌き。見事だった。現役退桃士ピンカーは伊達じゃない。

 驚愕するほどの軍勢だったピンキーも、彼女の攻撃で徐々に数を減らす。

 

「サヨ! 貴女は出現要因の保護を!」

「了解!」


 私はマカ教官から離れ、出現要因と思われる場所へ近づく。

 出現要因には、思い当たるふしがあった。

 というかまず間違いない。でないと、眼前に見える、一際興奮したピンキーたちがある一軒家に集う様の、説明がつかないというものだ。

 そこは、一回目のパトロールで救出したはずの、小さな女の子の家だった。


「サヨっ!」

「やっと来たの」


 前回と全く同じ方法でキハが降ってくる。ウォーハンマーをぐるんと振るい、勢いを失くしてから着地した。雨と風のせいで三つ編みがぼさぼさになっている。

 目の前にする家を見て、キハは顔を曇らせた。


「ここって……」

「そう。出現要因の家」私は続ける。「前とおんなじ」


 家の外壁をがりがりと齧るピンキーを、私とキハは退治していく。

 よほど魅力的な負の感情がこの家の中にあるようで、ピンキーたちは私たちになんて興味も示さず、いっそ無防備なほどに、この家を襲うことに夢中になっている。

 それを後ろから狙うのはあまりに容易くて、だからこそ、不安にもなった。


「こっ、こ、こんな数のピンキーを集めるほど、心臓が淀んでいるなんて……」


 また一匹と倒したキハが、震えながら言った。


「気を引き締めて行くよ、キハ」

「はい……」


 そのとき、蛇の頭を持つ巨大なピンキーが、頭突きするように家の天井を破壊した。見事に屋根は崩落して、すぐに瓦礫となり家の中に沈んでいく。

 歪んで半開きになったドアの隙間から、カエルの形容をしたピンキーたちが、しゃなりしゃなりと侵入していく。足元をすり抜けるそいつらに、キハは「ひっ」と悲鳴をあげた。私はそれを踏みつぶしながら、家の中に押し入った。

 家の中は、ひどい有様だった。家主の心情を表しているかのように薄暗く、しとしとと造雨ドロップが降り注ぐ。破れた窓硝子からこちらを覗きこんでいたピンキーを、私はハルバードの穂先の銃で射殺した。


「サヨ……っ」


 おどろおどろしい雰囲気に、キハは私の服の裾をギュッと握る。


「とにかく、出現要因を探すよ」


 落ちつかせるように言ったはずなのに、思いのほか私の声も上擦っていた。もしかしたらキハの緊張が私にも伝染ってしまったのかもしれない。だから、こんなに膝が頼りなく、奥歯が小さく音を鳴らすのか。

 瓦礫から太った蜘蛛みたいなピンキーが何匹も忍び寄ってくる。小物だ。こいつらを蹴散らして時間を割くくらいなら、無視したほうがいい。なるべく早くあの女の子を見つけなければ。

 すっかり開放的になってしまった家の中を探し回っていると、目的の少女の姿が見える。

 彼女は、壁面を剥ぎ取られたトイレの個室の中で、膝を抱えるようにして震えていた。内側からかけていた鍵なんて無意味だ。蛭のようにうねりながら泣き喚く、小さなピンキーに、その爪先を齧られて、つらつらと血を流していた。

 私は少女に駆け寄って、ピンキーを手掴みにぶん投げる。キハもしゃがみこみ、少女の顔を覗きこんだ。

 それはそれは、酷い顔だった。

 まだ幼い少女がこんな顔をするなんて。心の中に地獄でも飼っているとしか思えない。血の気のない顔色をしているのは、きっと出血だけが原因じゃない。ぴくりとも上がらない口角だとか、落ちくぼんで窶れたように見える目鼻立ちだとか、すっかり乾いて焦点の合わなくなった目だとか、少女の持つ悲愴の全てが、あまりにも凄まじい。

 私もキハも言葉を失い、しかし、かろうじて正気を取り戻した私は、少女の救護をすべく立ち上がる。魔法の注射くすりを探して、少女に打たなければ。

 襲うべき人間を探しているピンキーたちを潜り抜け、私は魔法の注射くすりを何本か見繕った。私が戻ったときには、キハも気を取り戻していて、少女の肩に優しく手を置いている。


「キハ、早くっ!」

「わかってる」


 私は注射しようとして、少女の服を剥ぎにかかる。

 肌蹴た胸に埋もれる心臓は、今までに見たことのないような色をしていた。

 これは酷い。とてつもなく真っ黒な心。絶望。


「……お母さん…………お父さん……」


 譫言のように少女は呟いた。

 どうやらまだそのことで心を淀ませたらしい。捨てられた寂しさや孤独や冷たさは、あまりにも強い毒だ。この広い家で一人で暮らすにはこの少女は確かに、幼すぎる。


「だ、大丈夫ですよ。今すぐ魔法の注射くすりを打ちますから、そしたら!」


 キハのそのかけ声に、少女はカッと目を見開いた。その瞬間、癇癪を起したみたいに暴れて、私の持っていた注射器を奪い取り、床に投げつける。

 勢いよく着弾したそれは甲高く砕け散り、私の手の甲に赤い傷を作った。キハが「大丈夫ですか!?」と私に顔を寄せる。


「大丈夫、それよりこの子を取り押さえて」

「はっ、は、はい!」


 キハは少女を取り押さえるように両手の自由を奪った。

 少女はまだ暴れていて、振り乱れる心臓に針を刺しても、衝撃ですぐに折れてしまった。これで二本も無駄になった。キハはより強く、その少女を押さえつけるけど、身勝手な反抗は思ったよりも強固で、魔法の注射くすりを打つ隙なんて微塵もない。


「静かにして……じゃないと、君はずっとつらいままだよ」

「いやだ! いやだ! やだやだ、おか、お母さん! やめて! 痛いもん、そんなの打ちたくない! 助けて! お母さん! お父さん!」


 だめだ。完全にパニックを起こしている。

 半ば無理矢理その心臓に針を刺しこみ、薬液を投与する。けれど、心臓ハートの色はちっとも変わらない。まだ魔法の注射くすりが足りないのかもしれない。


「まだストックがあったはず……私は取ってくるから、キハはその子をお願い」


 キハが返事をするよりも先に、少女は甲高い喘鳴を上げ、暴れだした。自分の手が血だらけになることも厭わず、砕け散った注射器の破片を掴みあげたと思えば、自身を取り押さえるキハへと投げつける。


「……ぅ!」

「キハ!」


 咄嗟にキハは目を瞑り、自分を庇うために手を緩める。その隙に少女は暴れ散らかして、キハの頬や手の平に新たな傷を作った。

 私はキハの手を引き、少女から距離を取らせた。硬く目を閉ざしたキハの様子を伺う。硝子が目に入ったわけではなさそうだが、私に抱きつくキハは、ほんの少し怯えていた。その頬から流れる血が、制服にシミを作る。


「あ、あああっ、お母さん! お父さん! どこぉっ!」


 少女はわんわんと泣きながら、握り拳を宙で振るう。その合間にも注射器の破片をこっちに投げてきた。

 ピンキーが歩くたびに震える壁から、埃が降りかかってくる。造雨ドロップのせいで足場が濡れていて、踏ん張りきれない。それでもなんとか怯えるキハを抱きしめて、私は少女の暴動を見つめていた。


「……もう、こんなこと、やめよう? こんなことしても、不幸が続くだけだ。君はちっとも幸せじゃないでしょう?」


 どれだけ私が説得しようと、少女は聞く耳を持たない。世界の全部が敵であるかのように、見境なく暴れていた。どす黒く淀んで今にもぼとりと落ちてしまいそうな心臓ハートで、必死に悲しみを湛えている。もう迎えに来ないであろう二人を呼びながら。

 私は前と同じように、少女に言葉をかける。


「悲しいことは乗り越えて、忘れて、君も幸せに、」


 言葉を言いきらないうちに、少女はさっき打った空になった注射器を、私たちのほうへ投げつけた。間一髪で避けると、壁にぶち当たって砕け散る。その破片があちこちに散らばった。私の頬にも掠めたのか、小さな熱さがいくつも沸き起こった。


「うああ、あぁぁあぁあっ! お母さん! お父さん!」


 ピンキーが町を踏み荒らしている音がする。

 外で一人で戦っているマカ教官の、苦戦しているような鞭の音がする。

 拳を握りしめた。泣き喚いている少女に、私は強く口を開く。


「いい加減にしろ! お前がいると、お前の親は幸せにはなれなかったんだ!」


——そのとき。

 がぷりと、歪んだ少女の顔が、一瞬にして食いちぎられた。

 文字どおり。

 一口で、ぱくりと。


「あ、っあ、あぁ……うっ」


 抱きしめていたキハから恐怖に染まった声が漏れる。

 ヘビの頭を持つピンキーが、真横から勢いよく少女の頭を食べたのだ。

 噴水のように血が吹き飛んで、首元が真っ平になった華奢な体が、力なく地べたに横たわる。断面からは肉と骨が見え隠れてしていて、ピンキーは長い舌でそこから血を啜った。ついさっき無視した蜘蛛のピンキーも、生温かい死体に群がりに来る。動かなくなった少女の上で、楽しそうに跳ねていた。


「い、いやあ……そんな……」


 キハが私にしがみつく。

 私もあまりのことに絶句していた。

 けれど、相手は待ってくれない。少女を食らったピンキーは私たちを見ると、しゃなりしゃなりと近づいてくる。

 キハの手を取ってその場を離れた。私たちに襲いかかろうとしていたピンキーが、勢いよく壁に激突する。そのせいで崩れた壁面をなんとか切り抜けながら、水たまりを踏みこんで逃げていく。


「しっかりして、キハ」

「でもっ、でも、でも、あの子が、でも」

「あの子は死んだの」私はキハの肩を強く抱きしめた。「救護は失敗。今から討伐任務に切り替えるよ。いくらマカ教官でも、この数を一人でなんて危険すぎる」


 すっかり腰の抜けてしまったキハを奮い立たせながら、近寄ってきたピンキーを狙撃する。彼女を一人で立たせてから、私はハルバードを構えなおした。

 少女の家のリビングだったところから、どんどん大物のピンキーがやってくる。

 ぬいぐるみのような丸っこい見た目をしたピンキーが、甲高い泣き声を上げながら飛びついてきた。その頭を斧部でかち割って、次の襲撃に備える。案の定、ヘビ頭のピンキーが襲いかかってきたので、私はその目玉に穂先を突き刺し、てこの原理で頭部に着地して、眼球を奪う。暴れるピンキーの上で一跳躍、大きく振りかぶってピンキーを切り殺した。

 キハもなんとか応戦している。半ばパニックになりながら、少しずつピンキーを討ちとっていった。

 けれど、戦況が芳しくないのは変わらない。

 応援はまだ来ないのか。

 シャチの体をした一匹のピンキーが、宙を漂いながらやってきた。愛らしい見た目とは裏腹に、不気味な雰囲気を醸しだしていて、体長も私たちの二倍以上ある。おまけにとにかく動きが早い。私の狙撃をすいすいと避けて、尾鰭で激しくいなしてくる。


「くっ!」


 勢いよく壁に叩きつけられた。

 頭を打ったせいで朦朧とする。ガンガンと割れるような痛みに思わず目を瞑った。


「サヨっ!」


 キハの駆け寄ってくる足音がする。けれど、その音はあるとき不自然にぴたりと止まり、彼女の短い悲鳴が聞こえた。

 朦朧とするなか、私は薄らと目を開ける。

 どうやら彼女の三つ編みが、壁から露出した金属部品の一部に引っかかってしまったらしい。身動きが取れない。キハはそれを取ろうとしているけれど、焦っているためか上手くできていない。さらに縺れてひどくなるだけだった。

 シャチの体をしたピンキーが、そこらじゅうを体当たりして破壊していく。ベランダの窓ガラスが割れて、あたりに散らばった。すると、慌てふためくキハを見つけて、赤ん坊のような、無邪気な甲高い鳴き声を上げる。


「きっ……キハ……」


 ふらふらとした状態で手を伸ばす。まだ視界がぼやけていて、体にも力が入らない。持っていたハルバードを落としてしまった。それを拾おうとしてしゃがみこむと、倒れそうになって手をついた。


「……あ、い、いやあっ、来ないでっ!」


 キハの声が震えているのがわかる。

 そんなのおかまいなしにピンキーは嬉しそうな声で鳴く。泳ぐように彼女に近づいていって、あるとき大きく跳ねたのを、顔を上げた私は見た。


「サ、ヨ……たすっ」


——グシャ。

 キハがピンクに塗り潰される。

 シャチの体をしたピンキーが、その巨体で、彼女の真上に落ちてきたのだ。否、押し潰した。彼女の体なんて、簡単にひしゃげる。ぐりぐりと擦りつけるように、ピンキーは地べたで身じろぎした。そのたびにピンキーの腹の下からぐちゃぐちゃと肉の音がする。

 すっかり真っ赤になった床の一面には、彼女はいない。そのかわりに、まるで私に手を伸ばすように、薔薇色の獣のような血が、短く跳ねた。


「…………キハ?」


 シャチの体をしたピンキーは、飽きたように宙に浮く。発った跡は言い様もないほどで、生臭い肉の塊がそこにはあった。まるで真っ赤な実の花畑。いっぱいあった骨なんて、きっと全部砕けてしまっている。


「キ、ハ……」


 吐き気がして立っていられなくなった私を、ピンキーは襲った。勢いをつけた体当たりで、私の身を思いっきり跳ね上げる。

 息もできないような圧迫感と浮遊感。靡く前髪の隙間から、重力に従って無防備に落ちてくる私を、空を仰いで待ちわびる、ピンク色の化け物の姿を見た。私の隙を狙うかのように、私を食らうそのときを、今か今かと見つめていた。

 ぞくりと、戦慄した。

 私は急いでハルバードを構えなおし、問答無用に銃をぶっ放す。狙いなんてあってないようなものだ。私以外のものを蹂躙するための発砲。私の喉は声を忘れていて、だから銃声が半狂乱になって叫ぶ。その執拗な連続射撃に、ピンキーは破裂するように散っていった。


「っはあ、っはあ、っはあ……っはあ……あ」


 着地して、早くなる呼吸と息を整える。

 倒したピンキーたちは、蒸発するように消えていく。

 足元にこびりつく赤を直視できなくて、私はただただ前を向いていた。

 銃撃によって、あたり一帯のピンキーも壁も取り払われた。風通しも見通しもいい光景。瓦礫の山々の奥には、まだ多くのピンキーが見える。今まで相手取ってきたやつらなど、そのなかの一塊にしかすぎない。私はまだ戦わなくちゃいけない。戦わなくちゃ。

 そのとき、見慣れた女性が勢いよく降ってきた。否、吹っ飛ばされたと言ったほうが正しいだろう――マカ教官だった。

 ピンキーの攻撃を受けたであろうマカ教官は、それでも受け身は崩さない。その勢いのまま膝を折り、手をついて、しゅるるんと茨鞭を手元に巻きつける。息を切らしながら立ち上がって、私へと尋ねた。


「サヨ、大丈夫? キハは? 出現要因は?」


 そう言っているうちに、マカ教官はある床に広がる鮮血の花を見た。そして、奥にある首なし死体までもを見つけて、苦い顔をする。けれど、私の顔を見たときにその目を見開いた。


「サヨ——」


 私に近づこうとしたときに、新たに家の中に侵入してきたピンキーに攻撃される。二人とも難なく避けて距離を取った。

 そのピンクの手足には、たくさんの鞭の痕があった。マカ教官が応戦していたピンキーだろう。とても巨体で、首が痛くなるほど見上げなければならなかった。いつもよりもずっと高いところから降ってくる、赤ん坊のような鳴き声。

 私は呆然とその声を聞いていた。


「……数は減らしたわ」もう一度茨鞭を解き放ってマカ教官は言った。「でも、依然として状況は変わらない。現役退桃士ピンカーの私と学年トップクラスの成績を持つ貴女の力を以てしても、かなり厳しいはずよ。あのピンキーには攻撃がまるで通じない。いくら人体とは作りが違うといえ、この雨のなかで相当度のボルト・アンペアで攻撃してるはずなのにピンピンしてるわ。これ以上電圧を上げると絶縁破壊を起こしかねないから、電気ショックの攻撃は塞がれた。鞭同様ただの斬撃じゃあ、傷をつける程度だし、皮膚の弱い部分を狙っていくしか」


 そこでなかなか口を開かない私に、マカ教官は眇めた。鋭い視線と声が注がれる。


「ちょっと、サヨ、聞いてるの?」


 そのとき、大物のピンキーが、私たちを踏みつぶそうと、その足を落とした。

 間一髪で避けるも、ピンキーはまるで踊るようにステップを踏み、私たちを殺そうとする。何度も何度も踏み荒らされて、家は完全に崩壊する。

 壁を失くした途端、外にいるピンキーたちが私たちの存在に気づいた。しゃなりしゃなりとこちらへ歩み寄ってくる。

 頭はぼんやりとしているのに、私の身体は条件反射のように、ハルバードを構えながら、周囲を警戒する。

 ピンキーの楽しげなスキップが、瓦礫だけでなく、死体さえも蹂躙する。数多くのピンキーのおみ足には、真っ赤な血がこびりついていた。大物のピンキーの足がまた執拗に降ってくる。ふらふらと避けながら、私は手を伸ばした。待って。踏み荒らさないで。これ以上傷つけたくない。


「サヨ! 危ないでしょ、なにやってんの!」


 マカ教官の怒鳴り声が思ったよりも遠くから聞こえる。


「だ、だって、キハが」


 あちこちに散乱して消えていく。なんの遠慮もなしに、なくなっていく。また踏みつぶされようとしたとき、私は駆け寄ろうと手を伸ばした。

 けれど、それを制するなにかが、胸を突き刺す。

 それは一本の細長い針だった。

 注射器のシリンジの薬液が徐々に減ってくる。這入ってくる。私の心臓ハートに。押し上げられる。マカ教官が制服越しに打った魔法の注射くすりは、みるみるうちに私自身を痺れさせ、書き替えていく。


「しっかりなさい、あんたまで出現要因になられたら困るのよ!」


 シリンジの中の全ての薬液が投与されると、マカ教官は引っこ抜き、乱暴に明後日の方向へと投げた。パリンと割れて弾ける音がした。頬を引っ叩かれる音にさえ聞こえた。正気に戻れと暗示されているみたいに。


「……すみません」


 すうっと思考が冴え、私はハルバードを握りしめた。

 蠢く敵を、私たちを脅かすピンキーを、静かに見据える。


「もう大丈夫です。私はまだ戦えます」


 私はゆっくりと歩きだし、瓦礫の外へと出る。

 途中、襲ってきたピンキーを穂先の銃で撃ち、ピックで引っかけていなした。

 しとしとと造雨ドロップが降り注ぐ。前髪から頬へと滴って、こびりついた地面の血を洗い流す。

 ちらりとマカ教官はそっぽを向いて、自信ありげに口を開いた。


「だけど、ラッキーね。出現要因が死ねば、これ以上ピンキーが増えることもないわ」

「外には何匹くらいいますか?」

「両手で数えられるくらい。どれもワンちゃんに毛が生えた程度よ」


 ワンちゃんには元から毛が生えてる。


「マカ教官。あの大物のピンキーの動きを止められませんか? いくら電気ショックで死なないと言っても、まったく無傷なんてことはないはずです……足だけを痺れさせるくらいなら」

「冴えたアイディアだけど、残念、もう試したわ。もちろん結果は惨敗。このタイプのピンキーは、特大の威力で迎え撃つべきなんだけどねー」

「じゃあ、それやってやりません?」私はマカ教官を見上げた。「現役退桃士ピンカーであるマカ教官と、バル教官の超絶優秀な愛弟子の私とで」


 マカ教官に流れを説明したあと、まずは小物のピンキーから片づけていく。数が多いとはいえほとんどは倒している。そう面倒なことではなかった。

 およそを討伐して広いスペースを確保すると、マカ教官は武器である茨鞭の先を街頭に固定し、鞭をピンと張らせる。持ち手のほうを少し離れた街頭に引っかけ、張りが強くなるように回りこみ、体重をかけた。ゴールテープのように伸びた一本の弦ができる。


「オーライ」


 その真正面、弦に対して垂直の位置に大物のピンキーが来たとき、私は助走をつけて、弦の真ん中へと走る。ハルバードの斧部を弦に引っかけ、後方へと伸ばしていく。完全に伸びきるまで発砲の助力で駆け抜けて、引っ張りながらピンキーの位置を確認した。

 ちょうどいいポジション。ドンピシャ。これなら絶対はずさない。

 弦の伸びは限界に達した。私の足が引きずられるほどに弾性が叫びを上げている。私はそれを利用し、引き金を引ききるのと同時に、手を離した。

 重なった反発力に背中を押され、ハルバードが鋭く飛翔する。

 豪速でピンキーを射抜く——弩砲バリスタだ。

 花火玉が空気を切り裂くかのような、独特な高音が響く。私のハルバードの穂先は見事にピンキーの首を貫き、その勢いのまま頭を胴体から切り離した。


「狙いどおり!」


 マカ教官が勝気に笑うその先で、ハルバードの鏑矢は失速し、空中から地面へと叩きつけられた。ガシャンガシャンと音を立てて落ちたと同時に、淘汰されていくピンキーの頭。立ちつくしたままの胴体も、じきに消えていくだろう。

 マカ教官は茨鞭を街頭から離して、駆け寄ってきた私に言う。


「やるじゃない。今からでもハルバードから弓矢に武器変更してみれば?」

「教官こそ、今からでも人間から弓矢に路線変更するべきですよ。見事でした」


 思いっきり頭を殴られた。なんでだ。褒め返しただけなのに。

 安心していたのも束の間、もう再起不能だと思っていた頭を失くしたピンキーが、ゆらりと歩み寄ってきた。驚愕して「やば」「嘘でしょ」と身を強張らせる私たちに、その獰猛な腕を振り上げる。

 しかし、上から降り注いだ大きな銃弾の雫に穿たれた。

 幼児のような叫び声が上がる。今度こそ死んだピンキーは、私たちに倒れこむよりも先に、しゃぼん玉となって消えた。ふわふわとオーロラの光沢を持つ玉が浮かぶ。造雨ドロップに当たって、儚く潰れた。


「……やっと応援が到着した」


 何機ものヘリを見上げて、マカ教官は言った。

 私も彼女と同じように見上げる。

 一番手前にいたヘリが攻撃したのだろう。搭載されている銃器が、牙を剥くようにこっちを向いていた。


「武器の回収、および建物の修繕は任せましょう。貴女も怪我の手当てをしたほうがいい」


 マカ教官は私の頬を撫でながら覗きこむように言った。私がそれに頷くと、満足したように離れていく。

 ……やっと終わった。

 私はあたりを見回す。前回のパトロールとは比べようもないほどの惨状。折れている街頭も、すっかりひしゃげた車も、荒らされた花壇も、潰れた家も、なにもかもが空しいほどに破壊されていた。

 そう。空しい。胸に残っている。かろうじて息を吹き返した肌寒さ。造雨ドロップのせいではない。疲労のせいでもない。ハルバードが手元にない不安のせいでもない。確実に消えてなくなってしまった、それ。


「マカ教官」

「ん?」

「この一帯って、完全清掃されてしまうんですか?」

「そうね。瓦礫や死体、こびりついた汚れは全部取り除かれて、一定のものはゴミと一緒に焼却されるはずよ。疫病なんて流行られたらたまったもんじゃないから。それがなに?」

「……いえ。なにも」


 ヘリで士官学校アカデミーに戻ると、みんなが心配したように駆け寄ってくれた。応援から帰ってきた同期生もだ。みんなが口を揃えて「またピンキーを倒したんだね」と褒めてくれる。傷ついた私に心配や労りの声をかけてくれる。

 私はその全てに大丈夫だと返した。そして、「寂しいよね……でも、泣いちゃだめだよ」「元気出して、サヨ」と励ましてくれる友人に、同じく大丈夫だと返した。

 少し離れたところで私と同じような言葉をかけられている男の子がいた。その子もまた、私と同じように、なんでもないような顔で受け答えをしていた。


「にしても、サヨはやっぱりすごいよ」

「あの数を倒しちゃうなんてね!」


 口々に囁かれ、報告書にも記載された内容に、私は一人きりで目を通す。

 ピンキー出現数は四十体。被害あり――――二人死亡。

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