第2話 三年間ずっと勝ててない

 また異世界の夢を見た。

 異世界の夢と言うよりは、最早、彼女の夢である。

 私の夢の中の主人公——セレナ・ディートリッヒ。

 彼女の名前を知ったのはつい最近だ。のほうが名前らしい。優雅で厳かな響きのするその名前は、美しい彼女にぴったりだった。

 名前負けのしない彼女のいでたちは、夢の中の登場人物だったとしても、まぼろしく嫋やかだ。金髪碧眼の美女は自ら発光しているかのように魅力的で、特にその長く揺蕩たゆたう髪は素直に綺麗だと思える。

 今宵の彼女は暗い部屋にいた。明かりがあるものの行き届かない広い部屋。そこで彼女は無表情に立っていた。真正面には射撃の的——どうやらここは射撃の訓練所のようだ。

 この世界は私のいる世界よりも技術が発展しているらしく、出会うもののほとんどが目を惹いた。士官学校アカデミーにも射撃場はあるが、この世界ほど立派ではない。彼女の射座の先にある機械的な黒い標的は、青いラインの発光により各点圏を仕切られている。その標的と対応しているのは彼女が装着しているグラスだ。そのグラスのレンズには命中率が反映される。なんともハイテクなシステムだった。

 こんなにも充実した設備があるのに、彼女はちっとも嬉しそうじゃない。むしろ銃を撃つ訓練も嫌々しているように見える。不幸そのものの顔。そんなに嫌なら銃を捨てればいいのに。本当によくわからないひとだ。

 何度も撃ち、弾が切れれば次の弾を入れ、苦々しい顔で何度も何度も撃つ。命中率はあまりいいとは言えない。というか、正直かなり悪かった。最初の結果を見るかぎり、元の腕は立つのだろう。集中力散漫が原因だと思われる。トリガーを引いても弾が出なくなったところで、彼女は銃を下ろし、グラスを外した。


「ご機嫌ななめかい? セレナ」


 誰かが彼女に話しかけた。彼女よりも少し年上くらいの男だ。

 この男が彼女にとって、あまり好ましくない存在であることはすぐにわかった。例のごとく彼女の感情が私に流れこんできたからだ。

 ただでさえ鬱屈していた気分がさらに降下していくのがわかる。うざったい。どっかいけ。


「なんの用?」

「つれないなあ。次の任務を任されたって聞いたから勇気づけに来たんじゃないか」


 やけに間延びのしたえらそうな言いかたに吐き気がした。それはきっとセレナも同じだろう。ぶん殴るぞ、って感情が胸のうちに沸いてくる。

 男はシックなベストを着ていて、けれど、その上品な服装とは裏腹に、顔に大きな傷がある。まるで刃物で切りつけられたような残忍な傷だった。

 男が近づいてその傷が光に照らされたとき、セレナは嫌悪とも恐怖とも諦観とも違う、なにか妙な感情を抱いた。一番似ているのはおそらくおそれだとは思う。彼女はこの男のように傷つくことを怖れている。


「いらないわ。貴方は出て行ってちょうだい」

「ふぅん。そうかい」男はセレナのかけていたグラスを手にとって目元へ翳す。「俺にはちっともそんなふうには見えねえけどなあ」


 そりゃそんな結果見せちゃだめだわ。

 私はなにやってんだと思いながら、次の動向に思考を凝らす。セレナの感情から推察するに、次に飛び出てくる言葉は罵倒のはずだ。


「いらないっていってるでしょ」


 違った。

 まるで強がってるみたいだ。彼女は拒絶を口にするも、抱いている感情ほどの嫌悪を男に示さない。それをしては許されないかのように、こらえている。

 実のところ、彼女がそんなふうに自分の感情を抑制することはままあった。こんなにも生きにくい世界で、彼女は理性を総動員させ苛烈な感情を必死に押し殺している。その強力なブレーキすら私には息苦しく感じた。窮屈だ。


「無理すんなって。あんたみたいな別嬪さんが強がってると守ってやりたくなんだよ」

「結構よ。それで手柄を横取りされちゃ、たまったもんじゃないわ」

「それもこれもあいつのためってか?」


 ぶわりと、セレナの中に熱い感情が生まれた。

 ひたすらに温度が高い。甘さや電気的な刺激もかすかに含んでいるのに、その多くが攻撃性の強い憎しみによって掻き消されている。煩わしくて心臓ハートをごっそりと洗いたい。こんな毒みたいなものを私にまで押しつけないでほしい。


「あいつの研究は、あんたをそんなにするほど価値のあるものなのか? あんたは必死に外で働いてるってのに、あいつは部屋に引きこもって好き放題やってるんだぜ? いい加減愛想尽かしたって誰もあんたを責めねえよ。大体あいつの研究してるものなんてまるで子供騙しで、」

「それ以上しゃべるようなら弾丸を飲みこむことになるわよ」


 セレナは銃口を男の口元へ押しつけていた。トリガーにかける指は今にもそれを引いてしまいそうなほど危うい。彼女の涼しげな目がキリリと尖っているのがわかる。私からしてみれば、彼女がこの男を殺さないことがまるで不思議に思えた。

 男はゆっくりとその銃口を握り締めて口元から離す。

 セレナも存外あっさりとその動きに従って銃を下ろした。

 二人の間に沈黙が生まれる。

 セレナがこんなことを言われるのは一度や二度ではなく、そのたびに彼女が言い返すことは三度や四度では足りない。この男だけではない。夢の中の彼女はいつもなにかしらに苛まれていて、彼女の感情を揺るがせる悪で溢れている。

 一体お前らに彼女のなにがわかるというんだ——腹立たしくて、同時にやるせなかった。

 なんとなくだけど、セレナが誰かのために嫌々〝仕事〟をしていることだけは、このとき私にもわかっていた。本当なら彼女はその銃の訓練だってしたくないのだろう。彼女の感情とリンクしているときに抱く負のストロークは、そのことに多く起因しているのだと思う。そのことを、私は、私だけは知っている。

 私にとっては手に余る感情。とても冷たくて、重くて、疚しくて、苦しい。

 こんなものを抱えこむ彼女のどれほど不幸なことか。

 もしこちらの世界に彼女がいたらすぐにピンキーの餌食になっていたことだろう。ありえないことだけど、彼女がいなくてよかった。私たちの世界にそんなおぞましいものはいらない。均衡が崩れてしまう。


「おっかない女だな」


 男はようやく口を開く。少し低めに吐き出された声に、セレナは内心で怯えていた。


「まあいいさ。あんたが死のうと知ったことじゃねえしな。あんたの後ろ盾がなけりゃ、あの男もこのファミリーにはいれなくなる。せいぜい今のうちにあいつを生かす手立てでも考えとけよ」

「あたしが大金星おおてがらを立てたことで、お嬢様口調でハンカチを噛む貴方の嫉妬を見られるのが、本当に楽しみでしかたないわ」

「冗談がへたくそだな、セレナ」

「冗談じゃないってことが今にわかるでしょうね」


 男は鼻で笑ったあと、その訓練場を出て行った。暗くだだっ広い場所にセレナ一人となる。セレナはグラスをもう一度かけて、銃を標的に向けた。

 セレナは泣いていた。

 泣きながら、銃の引き金を引く。

 でも、もう弾は入っていないから、どれだけ引こうとも発砲はされない。それなのに、唇を噛み締めながらセレナは引き金を引いていた。

 もどかしくてくやしくて、とてもつらい。そんな感情が胸から全身を流れて目頭まで届く。熱くなる眼球から流れ出るのはきっとその思いの欠片。だから、こんなに痛いのだ。

 ずるずると彼女に引きずられる。私までその感情に支配されそうになる。振り切って、抗いたいけど、まるで私は彼女のように、その思いを直接受け取っていたい。拒絶できない。引き剥がせない。


 ハッと、私が目を覚ましたとき——まだ外は暗かった。


 夢の終わりの倦怠感。少し汗ばんだ体が気持ち悪くて布団から出る。ベッドの上にへたりこむ。まだあの感情がわずかに胸に残っていた。忌々しい。

 私はベッドの柵から下を覗きこみ、二段ベッドの一階で眠るキハを見遣る。彼女はぐっすり眠っていた。

 退桃士官学校ピンキング・アカデミーの訓練生はみんな、士官学校アカデミー敷地内にある寮で生活している。パートナーとの二人部屋で、トイレ、シャワールーム、脱衣所兼洗面所とベランダが、それぞれ設備として付属。冷暖房完備。大浴場は寮棟の二階にあるのでそちらを使っても可。衣類の洗濯は各自大浴場横のランドリールームで。体調不良は三階の総合医務室に直行。長年暮らしてきたが、なに一つとして不足のない生活を送らせてもらっている。

 キハは幸せそうな寝顔をしていた。涎が枕を濡らしてだらしない。ずれた布団を直してやろうかとも思ったが、面倒なのでやめた。

 キハを起こさないように静かに、二段ベッドにかけられた梯子を伝い、床に足をつく。真っ暗だけど夜目は効くほうだ。数十秒我慢すればじきに慣れてくる。

 こんな心地じゃ今日一日を生活するのも苦痛だったため、配布されているストックの棚を開けて、一本の注射器を取り出した。

 薬液は中にちゃんと入っている。腕をまくって、自分でをそれを打つ。薬液が体内に流れると、さっきまでの嫌な感情は徐々にマシになっていった。

 ふう、と一息つく。

 まだ明るくなるまで時間はある。もう一眠りしても十分なほどだ。再び自分のベッドへと戻る。枕の位置を整えて、また布団の中に潜った。目は冴えてしまったけど、眠れないほどではないはずだ。

 もうあんな夢は見ませんようにと静かに祈りながら、私は目を瞑った。






「ああもう、サヨの寝起きって本当に不機嫌ですよねぇ。怖い顔してますよ?」


 結局、あれから夢のない安眠を手に入れた私だが、元の寝覚めの悪さから機嫌はよくなかった。地団駄で地べたを割れそうだ。

 照明光輪イルミナが燦然と輝く眩しい朝。

 眠気がまだ瞼にしがみつく私はのそりのそりと梯子を下りた。

 時計の針が指すのは中途半端な時間。少しだけ寝坊をしてしまったが致命的なほどではない。すぐに用意をして食堂に行こう。ごはんでも食べればこのテンションはマシになるかもしれない。

 私はあくびをしながら部屋の手洗い場に向かう。蛇口の金属や手洗い器の白光沢まで目に痛い。そんなに私の視覚を痛めつけて楽しいのだろかと思いながら、蛇口を捻り、手洗い器に水を穿ち、したたかに顔を洗った。


「キハ……私の制服のジャケット知らない?」

「脱衣所に抜け殻になってありましたよ」


 私はどすどすと歩いて脱衣所に向かう。たしかにそこでは私のジャケットがとぐろを巻いていた。


「なんですか今のゾウの行進みたいな音は。ピンキーだってもっと優雅に歩きますよ」

「うるさい……地べた割るよ……」

「本当に朝弱いんですねえ。いままで私は何度朝にあたられたことか」


 キハは結んだ髪を整えながら、ため息をつく。

 首筋のあたりで切り揃えている私の髪よりも、キハのそれはずっと長い。毎朝それを一本の三つ編みに結わえてあるのだから手間がかかる。女の子らしいと言えば聞こえはいいが、正直のところ邪魔だと思う。

 退桃士ピンカーとしては、そのような長い髪は好ましくない。視界に障るし、それを考慮して毎朝くくっているわけだが、そんなことをするくらいなら切ればいいのに。本人に言ったことはないけど。


「サヨ。髪がぼさぼさですよ」


 着替え終えた私の髪に、キハのブラシが走る。洗面所の鏡の前に立つ私はどんどん小奇麗になっていった。そのあいだに目も冴えてきたため、寝起きの身なりが整いはじめた。

 キハが「はいできました」と言ったところで私は視線を外した。


「ちょっと痛かった」

「あら、すみません」

「ううん。いいよ」


 脱衣所から出ると、キハも私の後ろについてきた。

 各自の武器を持って部屋を出る。

 廊下を歩いていると、チラチラとこちらを伺う目が数多く感じられた。まだ件の功績が私たちを注目の的にしているのだ。まだ見習いの、それも十六歳の訓練生が、教官と三人で二十七体ものピンキーを討伐し、被害をゼロに抑えてしまったのだから、そりゃあ噂されるのも無理はない。

 照明光輪イルミナと同じくらいキラキラした寝起きの眼がいくつもこちらを向いて、ひそひそと囁いている。元々私が優秀だったこともあり、ここ数日で知名度は格段に上がっていた。次代を担う稀代の新星。退桃士ピンカーの鑑。愛と正義の戦士。この手が世界を平和にしてしまったのだ。くくく!

 だが、なかには薄い羨望にコーティングされた妬み嫉みのこびりつくような視線も感じる。彼らの囁き声の大半が的外れな悪口だろう。哀れだ。小さな器しか持ち合わせていないとは。そんなに羨ましいのか。女々しいな、ものすごく女々しいな。


「おはよう。サヨ、キハ。朝からすごい人気者っぷりだね」


 するりと執拗な視線を遮る位置に来て私に挨拶をしたのは、朝っぱらから爽やかに微笑むガジだった。

 庇ったつもりだろうか。小癪な。そういうところがいけ好かないのだ。

 借りを作られたような気がして、私は一歩下がる。まだこちらに向いていた視線は、ガジを通りすぎ、私に突き刺さった。


「おはようございます。ガジ」なんにも気づかないキハは私の隣でガジに返事をする。「今日もいい空模様ですね」

「そうだね。今日の午前中は座学だから、こんなに気持ちがいいと、ちょっと眠気が心配になるよ」


 そう言いながら、ガジは速度を落とした。

 さりげない……まるで私たちに歩調を合わせたように感じられる。だけど、さっきまでこちらに向いていた視線が見事に隠れたあたり、これは別の意味でのわざとなのだ。

 私は逆に歩調を速める。


「サヨは今日も低血圧?」

「そうなんです。今朝の寝起きの顔なんて、ピンキーもびっくりですよ」


 不名誉なことを言われているような気がしたが今は無視だ。私の歩調に早くも合わせてきたガジをさらに振り切るように歩調を速める。

 すると、一瞬キハが置き去りになるような間隔ができてしまったので、私はすぐにぴたりと静止する。その静止に合わせたにしてはやけに自然なブレーキを、ガジはかけた。まだあの視線はこちらを打たない。こうなったら自棄である。

 私はガジの背丈を越すように何度もジャンプした。周囲の目が一気にこちらを向く。注目されているのが嫌でもわかった。むしろわからなければ馬鹿だ。

 だが、意図せずと言うべきか、関係のないものまで引きつけてしまったようだった。さっきまで輝いていた囁き声がついには濁りかえる。あまりの奇行にあえて視線を剥がす者までいた。


「……さっきからサヨはなにをやっているんですか」


 ついでにキハの目も訝しさにより濁っている。

 一方のガジは苦笑していた。


「サヨも、元気そうでなによりだよ」


 本当になんていいやつなんだと思いながら、私は遅めの「おはよう」を口にした。

 食堂につくと、大半の生徒がもうトレイに食事を乗せて席についていた。あたりはトレイを持つ生徒や一足先に食事を終えて部屋に戻る生徒で溢れている。けっこうな人数が犇めきあっていた。

 どうやらトイレに行っていたらしいガジのパートナーは、ガジを見つけた途端に走り寄ってくる。ガジは私たちに手を振ったあと、パートナーのほうへ去っていった。

 朝、昼、夜の食事はバイキング形式で摂られる。この食堂でのテーブル、座る椅子に指定はなく、あらゆる学年が男女問わず、別々に座って食事していた。


「あそこの席が空いてますよ」


 キハが言ったのはバイキングテーブルから一番遠い場所だった。少し来るのが遅れてしまったらしい。もうそんな席しかないのだろう。

 しかたないかと思っていると、同期の仲間のグループがこっちに来るよう誘ってくれた。その誘いに甘え、ありがたく空けられた席に座らせてもらう。


「サヨもキハも本当にすごいね。まだあの話で持ちきりでしょ?」

「あの話って、この前のこと?」

「そうに決まってるじゃん」

「いくらバル教官がいたとは言え、二十七体をたった三人で、だもんね」

「流石サヨ!」

「そんなにすごいことじゃない」私は首を振った。「私も浮かれてるけど、あのほとんどはバル教官が倒したんだよ。私はそれを手伝っただけ」


 私だって分別はつくのだ。無駄に有頂天になったりしない。実のところ、囁かれているほど私は大したことなどしていない。

 それを言うなら、大物のピンキーにとどめを刺したキハのほうが、よっぽど活躍している。私とキハのペアで話題に上げられることが多いけど、本来ならばキハ一人だけがこの脚光を浴びるべきなのだ。私は羨望や嫉妬の眼差しを受けられるほど、できた人間ではない。


「そういう態度がね、またウケをよくするんじゃない?」


 彼女たちはオートミールを食べながら苦笑した。余談だが、私はそのオートミールが好きではない。そんなゲロみたいなものを口にできるなんて実は彼女たちは最強なんじゃないのか。


「座学とか、実技とかも、成績はトップクラスだし。サヨって調子に乗るわりには気取らないから、そういうところなんか真面目だよね」


 そんなことを言われたって、と私は顔を顰めた。

 何度も言うが、私だって分別はつくのだ。いくら成績がトップクラスと言われようが、所詮は次席だ。私はガジに三年間ずっと勝ててない。こんな状態で気取ったって、随分とまぬけな話じゃないか。

 私とキハは朝食を取りに行くために席を立つ。すれ違いざまに見たこともない生徒から「さっき廊下で跳ねてたひとだ」と指をさされてしまった。その声を聞いてキハが私から数歩離れる。随分とまぬけな話じゃないか。






「ピンキーの生態について、昔から数多くの学者が研究をしてきた。人間の不幸により突如出没する脅威に対し、我々は備えなければならなかったからだ」


 広げたノートにペンを投げ出して、私は授業を呆然と聞いていた。

 だってつまんなすぎる。

 午前の授業は座学だったわけだが、その内容が入学初期の、最も初歩的なものだった。もう三年もここにいるのだ。こんなことは当然知っている。実戦訓練の始まった私たちに基本を忘れさせないようにするためらしいが、講義室の階段状の机を見渡せば、大半の生徒が頭を沈めていた。隣のキハなんて涎つきである。


「ピンキーはその名のとおり、全身がピンク色の化け物だ。語源は〝桃色pink〟。また一部では暴れた跡を意味した〝蹴り罅Ping - Kick〟が訛ったものだとも言われている。姿かたちは様々だが、身長は三メートルを超えるものが多い。大半が獣やぬいぐるみのような見目をしている。暗闇のせいで人の気分が沈みやすいことから夜に現れることが多いが、夜行性というわけではない。その泣き声は赤ん坊の癇癪のように甲高い。倒したあとは自然消滅する。その消滅のしかたは個々で違うが跡形もないという点では同じだ。現象のように現れて消える」


 知ってる知ってる。

 私は頷きながら過去にとったノートを見返した。一字一句違わずに記録してある。完璧だ。写した私も、現在進行形で講義している教員も。


「そのピンキーを駆逐するのが退桃士ピンカーの仕事だ。化け物ピンク突き刺すピンクする戦士」


 ほとんどの人間は日常に負の感情なんて抱かない。そんな感情を抑えるための処置方法なんて私が生まれるよりもずっとずっと前に発見されている。

 この世界は平和と幸福に満ち満ちているのだ。

 それでも感情整理が間に合わないときは、どうしてもピンキーが現れてしまう。それを解決するのが退桃士ピンカーの仕事。数年前にも同じことを言われた。

 ふと、過去の書き取りにおかしな落書きを見つけた。こんなの描いた覚えがない。おかしいなと首を傾げていると、思い出す。これは落書きではない。生態図模写だ。教員が黒板に描いたものをそのまま写したつもりになっていたのだが、私は絵がてんでだめなのである。落書きと見紛うレベルなんて相当だ。


「我々、桃想郷ユートピア上に住む生命体、特に人類は、胸部に心臓ハートを持つ。前の授業では図にして板書させたが、今回は模型を持ってきた。心臓ハートは胸に隆起して存在する。元はガラスのように透明だが、中身が透けて見えるため、基本的に鮮やかな真紅の色をしている。内面の臓部が鼓動するため痙攣しているようにも見える。悲しみや不幸が重なると、心臓ハートの色は変色する。最も健康的な幸福の赤、憂鬱の赤紫、悲しみの青に、絶望の黒。色の淀みは不幸の印だ。淀めば淀むほど、ピンキーは誘われてやってくる」


 教員が生徒を叩き起こして前の席から心臓ハートの模型を回していく。寝ぼけ眼でそれを眺める生徒の大半が、五秒も観察せずに後ろの席の生徒へと渡した。私の席にもそれが届く。

 美しい赤が光沢のある器に満ちていた。光を浴びてキラキラと反射する。まるで遊色効果。ハート形もそう複雑なものではない。ある面から見れば、鏡を見たときに自分の胸に埋まっている塊と瓜二つだった。とてもリアルだ。

 私は左手でそれを持ちながら古いページに描き写していく。あの図では流石にだめだろうと直すことにしたのだ。間近で見ながら描けば少しはマシになるはずだ。先生の話もよそに、私は作業に熱中した。


「では、その色の淀みを可及的速やかに対処したい場合、我々はどのようにしなければならないか……サヨ」

魔法の注射くすりを打ちます。通常では腕に、ピンキーの出現要因になるほど淀んでいる場合は直接心臓ハートに」


 模写をしながらも素早くこたえる私に、教員は「よろしい」と頷いた。


「特殊に調合された薬液を身体に投与する。これは諸君も昔から目にしていただろう。ごく世間的市場にも出回っているし政府から月に一度は各世帯に配布されもする。何本かのストックが家にあるのが当たり前だ。気分が落ちこんだときや嫌な気分に見舞われたときは腕に打つ。目安としては、心臓ハートが赤紫から紫になった段階。青から黒、ピンキーの現れる段階になってくると、心臓ハートに直接打つ。すると、正常な赤に戻る。ペチュニアの花のポンプタンパク質の性質から着想を得たため、薬液の入った注射器のシリンジにはペチュニアの花のシンボルマークがプリントされている」


 完璧に描き写せたあと、後ろの席に模型を渡す。

 向き直り、改めて自分のノートに目を遣ったが、前に描き写したものとなにが違うかわからない。進化も退化もない。相変わらずひどいままだ。

 もうやめだやめ。絵が描けなかったところで一人前の退桃士ピンカーになれないというわけではない。もしそうなら死力を尽くしてでも善処に努めるが、関係もないなら話は別だ。これからは画力も必要になったと条件要項に改められれば、そのときにでも頑張るとしよう。


桃想郷ユートピアの幸福に満ちた生活は、絶対でなければならない。君たちもその意識を常に持っていてもらいたい」


 そこで講義終了の鐘が鳴った。

 鳴り響く音を目覚ましに眠りこけていた生徒が起きあがって伸びをする。

 隣のキハはまだ寝ていたので私は頭を小突いて目覚めを強制した。


「はっ」

「おはよう」

「もう……本日二回目ですよ、サヨ。おはようございます」


 言わせたのはキハなんだけど。

 みんなが講義室から出て行くのを見て、キハは席から立ち上がった。


「あ、サヨったら、授業中に迷路の落書きなんかして」


 迷路じゃなくて心臓ハートなんだけど。

 くふくふと笑うキハは、相変わらず涎がすごかった。濡れたウォーハンマーを遠心力でぐるんと払いながら、私の後についてくる。涎が何人かの生徒に飛沫としてかかったが、私は知らんぷりをした。

 午前の講義授業を終えた私たちは食堂で昼食にありつく。午後は実技訓練があるため、しっかり食べてパワーをつけなければ。昼食が終われば訓練が始まる。

 座学よりも実技のほうが好きな私としては、大好きな時間だ。

 知識もピンキー討伐において重要で、その下地がないと適切な判断や行動ができないのは、重々理解している。だけど、やっぱり愛と正義の戦士っぽいのはこういう実技のほうなのだ。


「サヨは実技前になると途端に元気になりますね」

「うん。努力すればするほど自分は強くなるし、結果もついてくる。やり甲斐があるし面白い。力をつけておけば、実戦に出たときにピンキーに怯えるようなこともないし、全力で戦える。今日は一発目から参加したいな」

「血気盛んですねえ。応援してますよ」


 そして、実技の授業を迎える。

 集まった訓練用の闘技場は、百人もの人間を収容できるほどの広さで、鉢のような円形の壁にぐるりと沿わされた席が特徴だ。観覧席や休憩用のベンチとしての機能がある。

 実技の授業でこの闘技場に来ることは稀だった。武器の扱いの基礎訓練ならともかく、ピンキーの模型を置いての訓練は野外で行われるのが常。この闘技場で行われる訓練は少し特殊な形式なのだ。


「パトロールの同行で、現地で戦う退桃士ピンクピンカーの空気がわかってきたんじゃないだろうか」


 闘技場の真ん中に集まって、教官の話を聞く。

 私たちは姿勢を正し、手を後ろに構えていた。


「今日は互いの実力を知り、互いから戦いかたを学ぶため、対人形式で戦闘訓練を行う」予想していた言葉に呻き声が上がったが、その全てを教官は無視した。「これまで何度もやってきたが、日々成長している諸君にとってはその都度が勉強になるはずだ」


 そう、対人形式。

 ピンキーを相手取る戦闘訓練ではなく、同期と鎬を削りあう。現在の自分の実力を相対的に思い知る時間にもなる。


「手順はいつもと同じだ。一対一での戦闘。もしものときに備えて銃弾はコルク製かゴム製とする。相手に〝まいった〟と言わせるか、こちらの判断で戦闘を終了させた時点で勝敗が決まる。ちなみに、背中が床に三度つくとスリーヒットカウントで負け、銃器を武器とする者が相手の場合は弾が当たった時点で負けとする。制限時間はない。質問のある者は?」


 誰も発言をしなかった。

 つまりはないということだ。


「よろしい」


 教官は頷いた。そして「それから、」と言葉を続ける。


「今回も臨時講師として、士官学校在籍証アカウント名・マカ教官をお呼びしている」


 教官は観覧席のほうへと手配せをした。

 私たちはそちらへと視線を辿る。

 マカ教官は現役退桃士ピンカーで、そのために非常勤教官という形で教鞭を執っている。たくさんの花飾りの香る豊かなロングヘアの持ち主であり、堂々とした振る舞いが素敵な女性だ。

 そんなマカ教官は、観覧席の真ん中で足を組んで座っていた。親しげに軽く手を振ってくれる。ぺこりと頭を下げた何人かの生徒は、まず間違いなくマカ教官の教え子だろう。そのなかにはガジとそのパートナーも含まれていた。


「彼女を師事している生徒もそうでない生徒も、現役退桃士ピンカーの貴重なアドバイスを戦闘に取り入れてほしい。マカ教官、お願いします」

「もちろんです」遠くからでも随分と響く声でマカ教官は言う。「しばらく見れてなかったから、私としても今回の訓練は楽しみなんです。生徒の動きから得られるものもあるし……」


 マカ教官はちらりとガジのほうを見た。それから爽やかに微笑んで「では、手前の席で観させてもらいますね」と席を立つ。

 けれど、そのあとに私のほうも一瞥される。なんだろう。私は彼女とはそれほど話したことがないのに。それとも、勝手に目が合ったと思っているだけで、気のせいなのだろうか。


「では、まず最初に誰が戦う? 誰でもいいぞ」


 教官が私たちを見回しながらそう言った。

 どういうわけかみんなが一番最初を尻込みしがちなので、私は遠慮なく名乗りをあげることにした。勢いよく「はい」と手を上げれば、教官から前に出るように促された。


「では、相手は? サヨ、君が名指ししてもかまわない」

「はあ」


 お気遣いはありがたいが、特に指名はない。パッとキハと目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。そんなに嫌なのか……まあ、私とキハはパートナー同士だし、そもそもキハ相手に負ける気もないのだが。


「いないか?」


 私の指名も、名乗りを上げる者も出ず、教官が「では、」と選ぼうとしたとき、マカ教官がすっと手を上げて発言する。


「教官。あまりな言いかたを承知で言いますけど、学年でもトップクラスの成績を持ち、先の一件でも活躍したサヨでは、大抵の生徒が相手にもならないでしょう。酷というものだわ」


 現役退桃士ピンカーにそう言われると鼻が膨れるほど誇らしい。むず痒いなかにも果てしない嬉しさがあった。あまり話したことはなかったが、もしかしたらマカ教官っていいひとなのかもしれない。バル教官が普段私を素直に評価してくれないぶん、マカ教官の言葉は純粋に嬉しかった。

 マカ教官は「ですから、私から指名させてくださいな」と視線を遣った。そして、彼へと口を開く。


「ガジ。やれる?」

「はい」


 マカ教官に促されて、ガジは一歩前へ出た。確かにこのメンバーの中でなら、私に勝てる者などガジ以外にはいないだろう。

 ガジは私の隣に並んで「よろしく」と紳士的に微笑む。

 いいやつだ。いいやつでも、私は負けられない。


「うん。よろしく」


 今度こそガジに勝ってやる!

 他の生徒は観覧席へと向かう。振り向いたキハが私に手を振ってくれた。私も振り返し、改めて気を引き締める。

 私とガジは、用意されたサポーターや軽い防具を、制服の上から装着していく。すると、ガジがふと気づいたように声をかけてきた。


「サヨ、背中のベルトが捩れてるよ。直そうか?」

「え、いいよ」


 ここでベルトもろくに締められないやつだとは思われたくない。今朝のように借りを作らされるのも癪だ。

 私は両手を背中に回し、ベルトの捩れを確認する。たしかにぐるんと一周していた。指でほぐそうとしたが上手くいかず、観念して一度金具を外してから直そうとしたけど、それもなかなか捗らない。

 もたもたと手間取っていると、ガジが背後に回ってきた。ちょっとおかしそうに笑って、「やっぱり助けが必要なんじゃない?」と指をベルトに絡めてきた。あっという間に捩れは取れる。

 くそ。こんなことでも私は負けなければならないのか。


「お待たせ。できたよ」


 恩着せがましい態度もなく、ガジは私から離れていった。そして、観客席にいる自分のパートナーや仲のいい友達の声援に、軽く手を振り返す。相変わらず大人気だ。

 悔しくなって自分から振ってみると、これがなんと観覧席の全員が手を振り返してくれた。みんなすごくいいやつだ。ガジは暢気に「大人気だね」と私に笑いかけた。


「では、位置について」


 私とガジは、闘技場の中央から二十歩分離れた場所で立ち止まる。

 ふう、と深く息をつく。

 これまでのガジとの対人訓練において、決着がついたことはない。最終的に教官が「時間切れ」と戦闘を止め、引き分けとするのが常だった。だから、公式に勝敗が決まったことは一度もなかった。

 でも、今日こそ私が勝つのだ。

 私たちは互いに武器を構えて、教官の声を待った。


「————はじめ!」


 先手必勝。私はハルバードに内蔵された銃をガジに向けて二度発砲。

 しかし、ガジもそれを予想していたのだろう。事もなげにマンゴーシュの刃で退ける。

 そのあいだに跳躍してハルバードを振り下ろそうとしていた私を、彼は軽々と避けた。反撃に、右手のレイピアで防具越しの私の脇腹を狙う。私は、その鋭い切っ先に突かれる前に、地面に突き刺さったハルバードを支点として、反対側に空中前転する。体勢を立て直すために後退する私を、彼は追うこともなく警戒していた。

 ガジは二種類の武器を保有する。

 磁性投擲レイピアと、連続射撃マンゴーシュ。

 右手に持つ刃渡り九十センチのレイピアは、華麗な曲線を描く鍔からブレードが乖離できる仕組みになっていて、ブーメランのように投げて攻撃することもできる。

 左手に持つ短剣のマンゴーシュは、所謂いわゆるパリーイング・ダガーで、攻撃を受け流すために用いられる。こちらの武器にも小細工があって、手首のスナップで鍔から直角にブレートが畳まれ、瞬時に銃の形状へと変わる。どっちも改造度の高い多機能武器だ。


「やっぱりすごいね、ガジ。あんなに複雑な武器をしっかり使いこなしてる」

「サヨだって負けてないよ。獲物エモノの扱いはバル教官仕込みなんだから」


 ギャラリーのそんな声も鼓膜から遠い。私は冷静で、目の前にいる強敵だけに意識を向けていた。

 私が慎重になってなにも仕掛けてこないのがわかると、ガジはレイピアを振り上げて大きく薙いだ。その反動を受けたようにブレートは鍔から剥がされ、私に襲いかかる。

 これくらい凌げないわけがない。

 私がハルバードで弾き返すと、ブレードは明後日の方向に飛んでいく。

 それを鍔の磁力で柄に引き戻したガジは、すっとレイピアを構えた。

 私の武器は大振りで、ガジの武器と比較しても、リーチや威力の差で負けるとは思えない。けれど、それを、多機能な武器を使いこなすテクニックと戦闘センスで、ガジは何度も覆してきた。そのため、彼と戦うたび、私はいつも押されているように感じてしまう。

 油断はできない。きっとくる。

 私はいつでもハルバードを翳せるよう、体勢を変える。私の中ではどんな動きにでも対応できる、一番隙のない、それでいて反撃に特化した構えだった。

 しかし、ガジはそんなタイミングで、私に走り寄ってくる。

 ガジがリーチに届いたときにハルバードを振る。ガジは跳んでそれを避けて、あろうことかハルバードの刃に着地した。そして、私の首元を目がけてレイピアを架ける。

 そこ防具ないんだけど。すごい容赦ないな。

 私はハルバードの柄の引き金を引いて銃を発砲、反動をつけて刃を薙いだ。勢いに負けて足場を崩したガジは、土壇場でそこから跳躍し、倒れこむことを防いだ。

 今しかないと、私は銃の反動を利用して、彼の懐へひとっ跳び。柄の底で鳩尾を穿とうとしたときに、ガジはしばらく放ったらかしにしていたマンゴーシュをこちらに向ける。銃口は一直線に私を狙っていた。


「っぶな」


 発砲された弾丸を間一髪、首を反らすことで私は避ける。

 しかし、落ちつく暇を与えることなくガジは攻撃を仕掛けていく。私に肉薄しながらレイピアで突き、マンゴーシュで射撃する。

 消えたと思ったレイピアは鍔から離れて背後から襲いかかってくるし、銃弾の嵐は尽きることなく、また時には短剣の形状に戻って私を狙ってくる。一連の動きは眩しいほどに速かった。

 ハルバードを振り回して、その全てを捌いて凌ぎきる。ゴリ押しのショットガンを弾きながら、執拗なレイピアのブレードが鍔に戻ることを待った。

 どんどん浅くなっていく呼吸の隅で考える。一度に最低二つの攻撃を与えられるというのは、とんでもなく苦労する。対応に遅れれば即負けだ。でも、いい加減、防御だけでは埒が明かない。


「ふんぬ!」


 ブレードがレイピアにリターンしたタイミングで、私は勢いよくハルバードを数回転させる。きれいさっぱり弾丸を弾き終えたあと、銃の反動で真後ろに遠く跳んだ。

 そこでふと、観覧席の最後尾、みんなの塊から少しだけ離れたところに、見慣れた姿をこの目が捉える——バル教官だ。

 バル教官は腕を組みながら私を見下ろしている。最前列にいたマカ教官もそれに気づき、驚いたようにバル教官を見ていた。

 私は眉を顰めながら「なんでそこに」と低く呟く。

 すると、まるでその声が聞こえたみたいに——いや、自分に向けられたものだとわかっただけで、なにを言ったかまではわからなかったと思う——バル教官は私にジェスチャーをした。

 それは、何度か指を立てるしぐさで、おそらく数字を表している。

——いち、はち、いや違う、じゅうはち。

 その数字はなんだ。秒数か。こんなときにそれはないはずだ。十八秒もなにをすればいいのかわからない。

 私が首を傾げていると、バル教官は目に見えてため息をついた。悔しい。解読したい。でも、なにがなにやらだ。

 そんな私に、バル教官は顎でガジを指した。

 途端に気づく。

 これは……ガジの連続射撃マンゴーシュの弾の数だ!

 思えば、ガジはさっきの猛射撃の最中、私に見せないよう、後ろ手で器用にマガジンを付け替えていた。いくら連続で射撃できるとは言え、もちろん弾の数は限られている。

 つまり、その隙を狙えば銃撃に遭うことはないというわけだ。

 だが、問題は、今この瞬間でのマンゴーシュの残りの弾数だ。その中に何発の弾が残っているかわからないことには、せっかくバル教官が授けてくれた知識も使い物にならない。

 これまでの銃撃リズムは覚えているため、回想してカウントし直せば問題ないのだが、ガジがその暇を与えてくれるわけがない。やはりこいつはすごい。この私を困らせるとは。

 しょうがない。次の装填からカウントだ。一回目の弾の入れ替えは見送り、二回目の入れ替え前のタイミング、その瞬間を攻撃する。

 私はハルバードの穂先の銃口をガジに向け、何度も狙撃した。ガジはふらりと躱し、また弾きながら、徐々に私に近づいてくる。レイピアのブレードを投擲して私の肩を狙う。それを私がハルバードで弾き返すと、彼はマンゴーシュを銃形態にし、連続で引き金を引いた。私はそれを避けながらガジの動きに神経を尖らせる。

 何発か打ったタイミングで、ガジは袖口に忍ばせておいたマガジンを手首から滑らせることで装填した。

 読めた。ここから十八発。

 マガジンの入れ替え速度から見るに、あらかじめ近づいておいて、十七発目には準備をしておかないと、隙を突くには間に合わないはずだ。

 繰り出される弾丸の猛攻を弾きながら、私はガジに近づいていく。念願のガジを倒せるなんて感動も一入で、とても興奮していた。心臓ハートが高鳴って、それでも視界は鮮明だ。

 十七発目——今だ。

 私はハルバードの穂先をガジに向ける。十八発目を避けながら、そのままガジの腹へと突進していった。

 銃の装填は間に合わない。マンゴーシュやレイピアでは私の武器のリーチには勝てない。仕掛けられる武器がレイピアのブーメランくらいならば、私だって避けられる。このまま防具越しに突いてやる。

 勝負ありだ!

 と、勝利を確信していたのも束の間、ガジがまさかの十九発目を私に向けて撃ち放った。


「ぐあ」


 そんな馬鹿な。

 反射でなんとか避けるも、穂先はガジから逸れてしまった。その隙を見逃さない彼は、くるんとハルバードの刃の内側に潜りこんで、柄伝いに私に近づく。

 しまった。私の武器は刃の内側に入ってこられるとなんにもできないのだ。マンゴーシュの刃で私を穿とうとするガジに、やられる、と目を瞑ったとき——


「そこまで!」


 試合監督をしていた教官の静止を促す声が、闘技場に轟いた。

 ガジの動きもぴたりと止まった。すっと武器を下ろして、教官のほうに目を向ける。

 私はと言うと、呆然としていた。

 負けた。公式で、初めて負けた。私の負けを悟って、教官は中止させたのだろう。たとえあのまま試合が続いたとしても、最後の一突きで私がガジに敗北していたのは確実だった。

 情けない。すごく悔しい。いや、でも、まだわからなかったのに、あのあと、もしかしたら、上手く避けて反撃できていたかも。

 うだうだと心中で悔し涙を飲んでいると、教官から信じられない言葉が飛び出る。


「両者引き分け。礼!」


 は? 引き分け? どういうことだ?

 ついていけずにはてなマークを浮かべている私に、ガジは膝を屈めて優雅にお辞儀をする。未だ固まった私を見て、苦笑を浮かべた。


「怪我はない? すごくいい試合だったよ。ありがとう」

「……ない」


 わけがわからなくて、一つしか返事ができなかった。

 そんな私に、ガジは「よかった」と紡ぐ。

 よかった。よかったのか。いいや、よくない。有耶無耶になって私まで勝ったことにされるのは非常にいけ好かない。

 私は「なんで引き分けなの」とガジを睨んだ。


「えっ? だって……」


 と、ガジは武器を右手にまとめ、空いた左手で指差す。足元だ。私よりも高い目線から足元を見下ろしている。私もつられて視線を落とした。


「俺も流石にこれは食らいたくなかったから、教官には感謝しかないね」


 無意識だった。私の右足は蹴り上げられるように宙に浮いていた。

 私は反射でなにを蹴り上げようとしていたのか。その高さや位置から察するに、男性からしてみればちょっと危ないものである。私は真顔になった。

 これは嫌だ。私も嫌だ。教官が止めたのも頷ける。


「……こちらこそいい試合だったよ。ありがとう」


 さっきの返事の続きをすると、ガジはきょとんとした顔で目を丸くしてから「そりゃよかった」と苦笑した。

 二人して息をつき、サポーターや防具を脱いでいく。

 体をほぐしていきながら、私はガジに質問する。


「ねえ、マンゴーシュの変形銃の弾丸って十八発しかないんじゃなかったの? なんでさっき十九発目が出たの?」


 あの不意打ちがなければ私が勝っていたとさえ思う。もう射撃がないことを確信してから踏みこんだのに、あんなことをされれば肝が冷えるのは明白。おかげでいらぬ冷や汗を掻いてしまった。

 私の言葉に、ベルトをほどくガジが返す。


「え? 弾は二十四発まであるけど」


 バル教官。






「お疲れ様です。サヨ。見事な試合でしたよ! すごくかっこよかったです!」


 観覧席に戻ると目をきらきらさせたキハが私を迎えてくれた。

 席につく最中も、みんながみんな私の体を小突きながら声をかけてくれる。でも、何人かには本気で殴られたような気がする。おまけに「試合の前、本当は誰に手を振ったの?」なんて聞かれる始末だ。誰にも振ってない。みんながいいやつでよかった。じゃないとすごく恥ずかしい。


「とても見事な戦闘だったわ。ガジとサヨに拍手を!」


 観覧席の最前列にいたマカ教官が声を張り上げる。贈られる数々の拍手に私とガジは耳を叩かれた。

 見事か。ふむ。みんなにそう評されるのはとても気分がいい。

 すんなり機嫌の直った私は、続けられるマカ教官の講評に耳を傾ける。


「ガジとサヨの戦闘は、士官学校アカデミーでも随一のいい試合だったと思うわ。お互いに戦闘スタイルはまるで違うから、どこをとっても勉強になったんじゃないかしら。ガジは、磁性投擲レイピアと連続射撃マンゴーシュを使い分けた戦いかたで。相手を翻弄していた。強いて言うなら、投擲するレイピアのタイミングの甘さ。あれでは相手に隙を与えられてしまう。女の子相手だからって手加減は無用よ、ガジ」

「はい」

「そしてサヨ。銃内臓ハルバードの扱いは完璧ね。この士官学校アカデミー内じゃ貴女以上の使い手はいないでしょう。動きかたや戦いかたは、いかにもバル教官仕込みって感じ。銃を併用しながらのハルバードの扱い、特に移動の動作が上手い。咄嗟の判断も、それを支える視力も、はっきり言って感嘆の一言。ガジのハイスピードな銃撃を避けれるのは貴女くらいのものよ。ただ……」マカ教官はくすりと笑って肩を竦めた。「考えもなしに懐に飛びこむのはやめること。最後の銃撃戦でガジに攻撃をしかけたのは大きなミスね。あのあと、逆に懐に潜りこまれるなんて、あってはならないわ。鼻の差で、ガジの勝ちが濃厚だった」


 私がぐぐっと顔を顰める。まったくもってそのとおりだった。

 きっと私に向けて言った言葉だろうに、マカ教官は私を見ず、バル教官を見て最後の言葉を吐いていた。それに対してバル教官は知らんぷりを決めこむ。マカ教官は視線を剥がしてから、もう一度口を開いた。


「これはあくまで人間同士の戦い。本当ならこんなこと、現実には起こらないわ。私たちの敵はピンキーであり、同じ人間ではないのよ。不幸の象徴はそんなものじゃない。不幸の象徴とは、一見して愛らしい姿をしたピンクの化け物のことを言うのよ。学んだことを生かすのはいいけど、その相手を穿き違えて実際の戦闘でへまをしないように。いいこと?」


 はい、と生徒全員の声が反響する。

 それに頷いてからマカ教官は「では次の組み合わせを」と試合監督をしていた教官に話しかけた。

 私が席の背凭れに身を委ねてぼんやりとしていると、背後にドカッと誰かが座る音が聞こえてきた。振動が背凭れを伝う。なんだなんだと振り向くと、そこにはバル教官がいた。


「…………」

「なんだ、その不満げな目は」

「不満げに見えます?」

「それが不満げではなく真顔と言うのなら一度整形をしたほうがいい。馴染みの外科医を紹介してやる」


 そんなにぶさいくだったか。私は両手で頬っぺたを持ち上げて無理に笑みを作った。淡々と「気持ち悪い」と言われた。どっちにしろだめじゃないか。

 私が手を離してバル教官を見つめると、「それでいい」と頷かれる。


「バル教官。嘘でしたよ」

「なにがだ?」

「ガジのマンゴーシュに入ってる弾の数ですよ」

「弾? なんのことだ」

「いや、だって十八って」

「あれはお前がガジの銃撃から逃れるのに費やした秒数だ」なんだってと抗議する間もなく、バル教官は言葉を続ける。「お前ならもっと早く抜け出して反撃に回れると思っていたんだがな。残念だ」


 その言葉に、私は額を背凭れに打ちつける。

 けっこう大きな音がした。おでこ痛い。隣のキハの心配そうな声が聞こえる。でも、私はなにを返す気力もない。またなのだ。またバル教官の期待を裏切ってしまったのだ。


「次はもっと早く反撃します」

「無理だな。今回の戦闘訓練はマカの持つ成績表に記録される。お前が今日、この時間、この場で、十八秒であのガジの銃撃から無事に抜け出せた事実は、決して覆ったりしない」

「くっ……私が優秀だったばっかりに!」


 席で蹲る私に、バル教官は背凭れを蹴って「前を向け。次の戦闘を見ろ」と促した。私は蹲りながら前を向き、とっくに始まっていた戦闘に視線を遣る。


「……やっぱりサヨはすごいですね」


 隣のキハがぽつんと呟いた。

 長い睫毛がこっくりとした影を涙袋に垂らしている。


「そうかな」

「そうですよ」

「具体的にどこがすごいか聞かせて」

「やっぱりいいです」


 なんだと。ここまできたのに聞かせてくれないのか。

 私がキハを見つめていると、キハは諦めたように続けてくれた。


「さっきの戦闘も、本当にすごかったです」

「ふんふん」

「私もあんなふうになりたいなあ……」

「いや、なれるでしょ、キハなら」


 私がそう言うと、キハはギョッとしたような、とても驚いた顔で私を見つめる。あんまり喜びの色はなさそうだ。なんだっていうんだ。


「私はあんなふうに弾を見切ったり上手に攻撃を避けたりできません」


 たしかにキハは攻撃を避けたりするのがものすごく苦手だ。混乱して、パニックを起こして、頭が真っ白になる。それは訓練のときや試験のときもそうだった。弱気になって、すぐに泣いてしまうのだ。


「でも、最近がんばってるし」

「全然だめじゃないですかぁ……あんな、できて当たり前みたいなサヨとは違うんですよ」

「え? うん。違う」

「ズバッと言いますね……」

「できて当たり前なわけないじゃん。私、すっごいがんばったもん」


 そう言うと、キハはなにも返さずに、私の言葉に耳を傾ける。


「キハも知ってると思うけど、入学したてのころは私しょっちゅう怪我してた。ほら、覚えてる? アモロトの時計台のてっぺんから女子訓練生が落ちて全身骨折したってやつ」

「ああ、あの噂……ってあれサヨだったんですか?」

「そっか。パートナーになる前か。あれも一人で夜な夜なしてた訓練のうちの一つだったんだけど、失敗しちゃって。照明光輪イルミナが出るまで誰にも気づかれなくて、本気で死ぬかと思った」

「なんで死んでないんですか……」

「点灯一分前だった。他にもね、バル教官に攻撃を見極める訓練だとか言われてボッコボコにされたり、銃の反動を制御できなくて壁にぶつかって鼻血出したり、武器を模索してたときはいろんな武器の振り回しすぎで両腕が肉離れ起こした。次の授業からはみんなに黙って我慢しながら振ってた」

「医務室行きましょうよ……」

「サヨは私より自分の武器を見つけるのが早かったし、この前のパトロールでは大物のピンキーを倒した」


 しゃべりすぎていたらしくてバル教官に咳払いをされる。キハはびくっとなって身を縮こまらせた。バル教官も本気で怒ってるわけではないだろうし、私は気にせず話を続けることにした。


「できて当たり前のことなんてそうそうないよ。できなくて当たり前なんだよ。なにかに優れているひとっていうのは、当たり前になるまですごいがんばったひとたちなの。だから、キハができることはキハががんばったことで、キハががんばってることはもうすぐキハができるようになることだよ」


 やったね、と呟く。

 少し間を置いて、キハは泣きそうな顔になった。だけど、今度こそちょっと嬉しそうだった。引き絞った唇をふるふると揺らして、声を出さないように噛み締めている。ぐず、と鼻を鳴らしてから、「あ、あっ、ありがとうございますっ」と言って、目尻の小さな滴を拭った。


「わ、私、嬉しいです。あとどれだけやればできるようになりますかね?」


 難しい質問をするなあと思った。

 私は別に教官でもなんでもない。ご存知のとおり、キハと同じ、この士官学校アカデミーの一般生徒だ。こういうのはちゃんとした教官に聞いたほうがいいと思う。そんなことを聞かれてもどう答えればいいかわからない。

 後ろで話を聞いていたであろうバル教官に助けを求める。バル教官は静かに頷いた。やっぱりそうだよな。

 私はサヨに返答をする。


「まあ、骨はいっぱいあるから。がんばろっか」

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