不運な一人と一柱

「私は優しい人になりたいよ......」


 パチンと泡が弾けるような感覚がして目が覚めた。

 周囲を見渡すとそこは薄暗い、古びた物置小屋。なんでこんなところにいるのか、状況が理解できずに桜庭湊人はしばし固まった。


 額を抑えて記憶を探ると少しずつ思い出してくる。いつものように仕事に行こうと準備をしていたところ、自宅にガラの悪い奴らが押しかけてきた。目付きが悪く、怖がられることの多い桜庭よりもよほど怖い、間違いなく本家本元、その筋の人たちが。


 桜庭は真面目に日々を過ごしている善良な一般市民だが、悲しいことにこの手のトラブルにはなれていた。桜庭がいくら真面目に紳士に行きようとも、それを嘲笑うように厄介事を押し付けてくるの存在。それが実の父であった。


 聞けば、ギャンブル好きな父が多額の借金をつくったあげく、行方をくらましたらしい。ここまででも天晴れといえる最低人間っぷりだが、挙げ句の果てに数年連絡すらとっていなかった息子に全ての責任を押し付けたのである。

 ここに俺の息子がいるから、金はそいつから回収してくれ。というなんともシンプルな紙切れ一枚で。


 おかげで桜庭はヤのつく職業の人に追いかけ回されることになり、職場に連絡する余裕もなく家を飛び出すことになった。悲しいかなトラブルに慣れた足は迷いなく隠れるのにふさわしい場所を探り当てた。そうしてたどり着いたのが今にも崩れ落ちそうな古い小屋。少し休憩をと座り込んだ後の記憶がないので、体力の限界がきて気絶したのだろう。


 経緯を思い出し桜庭は息を吐きだした。壁によりかかると板がきしむ音がする。見た目どおりに古い小屋であるらしい。


 逃げる最中にぶつけた体が痛む。途中、人が通らないような無茶な道を選んだこともあり、体の至るところがすりきれていた。額のあたりも切れており触ると固まっていない血の感触がする。

 このまま死ぬのかもしれない。

 無断欠勤した桜庭のことを上司は怒っているだろう。このままクビだろうと簡単に想像できてしまう。桜庭にしては長く勤めた場所だった。最後にお礼くらい言いたいが死ぬのであればどうにもならない。


 中学生の頃、同じように追いかけ回されたことを思い出す。今ほど逃げるのが上手くなかったため、すぐ捕まって殴られて、顔に傷をおった。

 もともと父のせいで周囲には遠巻きにされていたが、顔に傷が残るとさらに怯えられるようになった。考えてみればなんと不運な人生だろうか。


 母は父には逆らえない弱い人だった。そんな弱い人を桜庭は見捨てられなかった。だから代わりに父に殴られ怒鳴られた。家では毎日、父に怯え、 外にでればなにもしていないのに怖がられる。


 そんな幼少期を過ごし、やっと父から離れられたと思えば、忘れた頃にこうしてまた生活を台無しにされる。実父であるかぎり、いくら真面目に堅実にいきようと、父の気まぐれで不幸になる。これから先もそれは変わらない。


 それを思えば、もういいのではないか。 いくら自分が真面目にいきようと、無駄なのである。突然、嵐のように父が全てを奪っていく。それならばもう諦めてしまえばいい。責任を押し 付けられる息子がいなくなれば、父も少しは大人しくなるかもしれない。


 目を閉じる。抵抗をやめる。それだけで楽になれる。息を深くすって吐き出して、壁に身を預ける。そうしていればそのうち、額から流れる血が自分をこの世から連れ去ってくれる。静かで寂し い死に様だか、自分にはお似合いだ。そう桜庭は思った。


「お兄ちゃんは優しい人になってね」


 ふいに妹の声が聞こえた気がした。次に笑顔が浮かぶ。

 生まれつき病気がちだった妹は小学生でこの世を去った。風邪をこじらせて、病院に連れていくこともなく放置され、桜庭が学校からかえってきた頃には冷たくなっていた。

 あの時ほど家にいなかったことを後悔したことはない。虐待を疑われるからなんて父の暴言は無視して、つきっきりで看病すれば。自分が妹をおんぶして病院にいけば。そういくら後悔しても足りなかった。

 だからせめて、妹が望んだ優しい人になろう。そう思って桜庭は生きてきた。生まれつきの顔立ちと傷のせいで怖がられることも多かったが、それでも人のために行動し続けた。


 こんな時だからか、いままでの人生が脳裏に浮かぶ。自分は優しい人になれたのだろうか。妹の望みを叶えられたのだろうか。


 桜庭は閉じていた目を開く。まだ足りない気がした。妹は桜庭よりもよほど優しかった。あの日、学校を休んで看病するといった桜庭にいいから。 と笑った妹は桜庭が父に怒鳴られ、殴られないように気遣ってくれたのだ。自分の方が辛かったはずなのに。きっと心細くてたまらかっただろうに。

 そんな優しい妹に今の自分はまるで足りない気がした。


「生きないと......」


 せめて妹の分まで。幸せにならないと。優しい人間に、誰かを守れる人間に。

 クズから生まれた人間はクズにしかなれない。 そう桜庭を嘲笑った父の声がする。そんな呪いの言葉より桜庭は妹の優しくて寂しい言葉を信じたかった。真実にしたかった。


 力のはいらない体を無理やり動かす。疲労と出血でまともに働かない頭はぼんやりしていていい案なんて思い付かない。それでも、桜庭は体を動かす。とにかく必死だった。なにかを変えたかった。


 起き上がるために力をこめたとき、桜庭の手になにかが触れた。布で覆われた細長いもの。ホコリまみれで薄汚れ、小屋の一部と同化するように投げ出されたそれが妙に気になって、桜庭は手に取った。


 中身を取り出さなければ。 鈍い思考でなぜか強くそう思った。

 導かれるように巻き付けられた布をとる。 布の下から出てきたのはこの場に似つかわしくない短刀。桃色の綺麗な刀に桜庭はしばし目を奪われた。


 鞘を抜くと鞘と同じく綺麗な桃色の刃が目にはいる。薄暗い小屋には似つかわしくない。やけに神聖なものに思えて桜庭は息をのんだ。


「久しぶりじゃ。久しぶりに旨そうな匂いがする」


 気づけば影が出来ていた。桜庭しかいなかった小屋に幼い子供の声が響く。声は高くまるい。しかし落ち着いた抑揚と話し方は老婆のよう。


「妾は鬼守桜花。ぬしは力を求めるか」


 見上げれば自分を見下ろす瞳とかち合った。 桃色の長い髪。白目の部分は黒く、瞳は緑と黄色が合わさった不思議な色をしている。幼い顔立ちは可愛らしいが額と頭には人にはありえない角があった。


 鬼。そんな言葉が頭に浮かぶ。

 鬼の登場する昔話はいくつかあるが、だいたいは悪役だ。しかし少女からはまがまがしい雰囲気は感じない。息をのむほど美しく神聖で、見ているだけで今までの不幸が洗い流されるような気がした。


 神様? そんな考えが頭に浮かぶ。

 もしかしたら自分はもう死んでいて、ありえない幻覚を見ているのか。

 血が足りずに鈍った思考で桜庭はぼんやりと少女を見つめ続けた。


 少女の形のよい唇が動く。声が漏れる。しかしそれは言葉にならず、かすれた息となった。先ほどの威厳に満ちた声とはまるで違う。

 桜庭がなにか反応する前に少女は目を見開いて、桜庭から距離を取った。


「なんで血まみれなんじゃ〜!?」

 薄暗い小屋の中に少女の甲高い声が響き渡った。


「ちょっと待つのじゃ!  怪我人ではないか! 妾は怪我人から生気をすってしもうたのか?  これはあり? なし ?  なしじゃな!! ということは、ちょっとまて。まて、まて!! おぬし大丈夫か!? 死んだりせんよなぁあ!?」


 少女のあまりの狼狽えように桜庭は目を瞬かせた。血まみれだと指摘されたことにより、かろうじて保っていた意識が遠のくのを感じる。ふらりと頭が回り、気づけば床に倒れていた。


「倒れたー!??  やっぱダメじゃった!  なんでじゃ!  なんでそんな瀕死で妾に触れてしまったのじゃ!  馬鹿者ー!」


 少女の悲鳴が頭上で響く。顔をあげなくてもうろたえているのがわかった。頬にあたる床が冷たい。体が重い。ホコリっぽい。倒れたときに体を打ち付けたから痛いのか、逃げたときの傷が痛いのかもはや分からない。分からないまま意識が遠退く。


「まて、まて! えっもしや妾、人殺し?  人を守るために打たれた刀なのに人殺し? いや、 いや、いや!  ちょっとそれはダメじゃろ!! 妾の存在意義に関わるじゃろ! ってわけでそこのもの、 生きてくれ!  妾のために!」

「……」

「反応がない? これもう手遅れ?  ちょっとまて !!  起きがけこれってどういうことじゃ!  というかここどこじゃ!  誰かおらぬのか!  姉上 ー!  もうやじゃ、おうち帰るー!」


 泣き声が響く。慰めたいのに体に力がはいらない。それなのにやけに心は穏やかで、桜庭は不思議な気持ちだった。 だんだんと声が遠くなる。代わりに見えたのは一面の桜並木。一際大きな桜の前で妹が笑ってい る。


「お兄ちゃんは強くて優しい人だから、これから 一杯幸せになれるよ」

「美海......」

「誰じゃそれー!!」


 妹の名前を呼んだが最後、意識が遠退いていく。 少女の絶叫が聞こえた気がしたが、桜庭に答える元気は残されていなかった。



 これが親に振り回された不運な男と人に振り回された不運な付喪神の出会いであった。

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