蚯蚓

えのき

1

 乾き切った空気が、僕を叩いた。


 多くのビルが月明かりに照らされ、だんだんと寝静まっていく。人々が家路についた暗い街にあるビルの屋上に、僕は一人佇んでいた。


「ハァ」


 この寒さと孤独感が、僕の疲労感をどっと加速させる。


 人生というのは、僕にとっての絶望だった。こんなきつい世界に放り込まれたせいで、僕はいつも何かに蝕まれている。


 駄目だな。またこんなことを考えてしまう。もうやめだ。

 

 バイバイ世界。


 心の中でそう言いながら、僕はそこから身を投げた。

 

 冷たく乾いた空気の中を突き進み、終わりが近づく。ゆっくりとすすむ時間の中で、僕の頭を今までの時間がよぎる。地面が近くなると安堵が込み上げてきて、僕の人生は幕を閉じた。


                *****


 何だか温かい。

 

 ふかふかとした暗い世界が、妙に心地よかった。おそらくは、これが天国というものなのだろう。


 手足は動かせないどころか全く感覚がない。その上、何も見えず、何も聞こえずというように、視覚や嗅覚などはほぼ使えない。ただ、体全身を這うように動かすことは出来たので、僕はそのように奇怪な動きをしながら、その場所を動き回った。


 ふかふかとした空間が、だんだんと体に吸い付くようなねっとりとしたものになっていく。


 しかし、僕は少し違和感を覚え始めた。


 天国というのは、光もないような世界なのだろうか。生前に持っていた知識とは明らかにかけ離れた世界だった。だがまあ、それもそうだろう。なにせ死人は喋らないのだから。


 特にすることもなく、私はただただ動き回っていた。


 そんな時、光を感じた。


 暗い世界に、暖かな一条の光をこの身で受け止めたのだ。僕はようやく希望を見つけたかのように、その光へと必死で近づく。だんだんと光は増え続け、ついに暗い世界から飛び出した。


 ああ、なんて素晴らしい


 光を全身で感じることのできた僕は、長い時間昂っていたが、少し体の調子が悪くなってきた。何だか体が乾いていく。光を感じているのに何も見えず、混乱の中に陥った。


 さらに、光がちかちかと不自然に点灯し、おぞましい寒気が全身を覆う。自らの体を抱くように丸まり、迫り来る現実から身を守ろうとする。だが、そんな僕を嗤うように、不気味な音が聞こえてきた。


 そして、世界が再び闇に包まれる。


 何も見えない。何も聞こえない。痛くないのに苦しい。体の感覚が全くないのにしんどい。


 何もない地獄で、僕は今の自分がようやく見えた。僕は鳥に食われた蚯蚓みみずだったのだ。僕は悟った。感情を持つ人間だけが苦しいというのは、僕らの傲慢だと。


 そこで、僕の意識は闇に還った。


                *****


 僕の視界に、じんわりと光が差し込む。


 瞼を開くと赤い光が柔らかく目に入り、僕は体に力を入れた。長い夢だったのか、手足を動かすのが久々に感じる。手で体を支えながら起こすと、そこは見知らぬ白い部屋。頭を触ると、ざらざらとした包帯があり、僕は助かったのかと理解した。


 朝日が赤く照らす寒々しい空の下、病室の窓辺に咲く一輪の花を見て、僕はベッドから立ち上がる。足を怪我していたため、歩くことがかなり困難だったが、それでも僕は歩き出した。


 人も動物も植物も、何もかもが必死で生き抜こうとしている現実から、僕はただ一人逃げようとしていたのか。恥ずかしい自分を蹴り飛ばし、僕は重い足をひたすら動かす。


 それに、人生悪いことばかりじゃない。先程まで寝ていたベッドの足元に眠っている、目元を赤くした母を見てそう思った。


 僕は今、湿った地面から不恰好に這い出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蚯蚓 えのき @enokinok0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ