第6話 雨の日、のち晴れ(3)


僕の視界で、手が震えているのが分かった。

彼の言葉を聞いて、僕の張り詰めていた糸は切れそうになっている。解くのも簡単なほどに。

しかし、遅かった。

藤崎が、僕に差し伸べてくれる手は、僕の目の前でガラスの壁に遮断されてしまう。せっかくの救いが、僕には悲しいほどに手の届かない、心を締め付けるものとなった。

刹那、部屋のドアが勢いよく開き、兎が入ってきた。

「なっ!」

天人の足元を、駆け抜けて、兎は音音の肩に飛び乗る。

音音は窓辺を大きく開けて、手と足をふちにかけた。外に止む間も無く降る大粒の雨が、すぐさま体温を奪っていく。



最後に、僕は感謝を述べることができるだろうか?

この友に。





☯️


『天人さん、ごめんなさい!』

兎が音音の肩に乗ってそう言っているのが聞こえた。兎の鼻はヒクヒク動いている。

ごめんなさいって、どういうことだよ。お前、俺たちを騙したのか…?

『違います!僕は……、僕が彼を救いたかったのは本当です!』

じゃあ、なんで……。

天人は視えている。

音音の周りを囲む黒い霧が。このままじゃやばい。音音が堕ちてしまう。

それだけは絶対に避けないと、取り返しのつかないことになる。ここまでくると、もはや祓う他、手段はなくなる。

でも不思議と今は、祓うことが最善の策だと認識できる。迷うことはない。

音音は、何も言わずに…――一瞬だけ、この世界から消えてしまいそうな笑顔を俺に向けて窓から勢いよく飛び降りた。

俺は咄嗟に窓により、下を覗き込む。

音音は兎と一緒に濡れた地面へ着地した。

しかし、俺はその音音を狙う、黒い人影に気がついた。黒い人影は音音の背後、数メートル先にいて、スッと腕をまっすぐ音音に向ける。


「音音ッ!逃げろッ!」


俺が言うのとほぼ同時に、黒い人影から鋭い風圧が、音音の肩へ直撃した。音音は尻餅をつき、外れた肩を抱えて、走り出した。

黒い人影は、俺の方を見ると、トロリと崩れ跡形もなく消える。

「式神ッ………」

誰かの式神だった。それは誰のものかと問う必要もない。あれは、優一郎さんのものだ。

式神が解けるよりも早くに、妖力を使った俺は、式神のその向こう側に優一郎さんの、まるで勝ち誇ったような笑みが見えたんだ。

ゴンと、何か重たい鈍器で殴られたような痛みが脳を振動させた。

俺は痛みを振り絞って音音の家を飛び出す。

今の優一郎さんだったらきっと、音音を祓うなんて生半可なことはしないだろう。

現に、音音は半分堕ちかけている。救う手立てはあるけれど、あの人はそうしない。なぜかそう思った。

天人は雨に打たれながら、音音の向かった方向へ急いだ。

路地を曲がって、走る。

「舞子、やばいことになった。すぐに音音のいる場所を調べてほしい!」

『どうしたの?』

「音音が……人を殺した」

『………えっ?』

「それに、堕ちかけてる。兎の話によると、なんか事情があるみたいなんだけど……兎に角今は、優一郎さんが音音に接触するよりも早く、音音を保護したい。舞子の妖力で探せそうか…?」

『兎さんと佐々木くんは今一緒にいるんだよね?』

「ああ」

『わかった、やってみる』

「あと、ハル!聞こえてるんだろう、ハル。お前も一緒に舞子の言う場所に来てほしい。佰乃はいないし、戦闘力になるのはお前だけなんだ。聞いているなら、来て」

もう半ば命令形だけれども、仕方がない。

相変わらず、ハルからの応答はないけれど、接続を切っているわけじゃなさそうだし、きっと来るだろう。

天人は暫く走って足を止めた。

もう頭痛がひどい。おまけに体がだるいし、吐き気がする。走ると胃が動いてもっと気持ちが悪い。

天人は、口元に手を当てて必死に吐き気を我慢した。通り過ぎる人は誰もいない。雨だし、時間帯が遅いから皆、家族の団欒中だろう。

俺は黙って家を出てきてしまったが、大丈夫だろうか?

『あーくん!わかったよ!佐々木くんと兎さん、今靁封神社の裏山……少し下の方にいる………。多分ここは、突男と会った時に通ったことがあるような気がする』

「わかった。向かうから、細かいことは後で教えてくれ」

『了解』

俺はもう一度走り出した。

舞子と佰乃は本契約済みだと聞いた。

実は二人とも、あの話があった次の日ぐらいに、本契約をしたらしい。

舞子は部屋が荒れていて到底寝ることはできないので、暫くの間、東家で寝泊まりすることになっている。家族には東家と親睦を深めるためのお泊まり会とかなんとか言っているらしい。まあ、町を守る“陰陽師家”と、町の長の“神ノ条家”はもともと親睦が深いから、そのお泊まり会にどんな意味が含まれていようが、関係ないんだろうなとは思う。

色々考えているうちに、裏山へとついた。そして、木の生い茂る山へ俺は歩き出した。

舞子の指示を聞いて、自分の視力も駆使する。

その道中いろんな言葉が頭をよぎった。


“……救う?お前が?藤崎が?僕を救うって?”


“お前は僕から逃げたんだよ?この僕から逃げて、誰も救おうとしてくれなかった”


“………どうして………、どうして………?”


違う、俺は本当にお前を救いたい。もう一度お前と話がしたい。お前と、前みたいに笑って、隣にいてくれればそれでいい。それ以上のことなんか求めない。俺はもう一度、お前に明るい世界を取り戻してほしいんだ。こんなの、俺のただの自己満でしかないかもしれないけれど、それでもお前が微かに救われるのを願っているのなら、誰かに救ってほしいと、その差し出してくれる手を待っているのなら俺は喜んでその手を握る。

会ったら何を言おうか、一番最初に何を伝えるべきか。

そんな考えが頭の中をループする。なぜなら、あの時、音音が俺に見せた笑顔が忘れられないから。

音音はきっと、待っていたんだ。


その時、

ドカンッと。


大地から足元に振動してくるえげつないほどの衝撃が体を揺さぶった。

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