第5話 雨の日、のち晴れ(2)


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雨が続くのは嫌いだ。

しかも、雨に似た雪も嫌いだ。ここ数日降っているのはそんな雪に近い雨だった。冬の寒さで、朝方の地面は氷り、雪が積もることはない。

そんな季節に、僕の家にはあいつが訪ねてきた。

インターホンで顔と声を聞いた時は、虫唾が走るほど嫌ですぐに追っ払ってやろうと思ったけれど、インターホン越しのあいつは、全身を雨に濡らして、どこかしら顔色も優れていなかった。もしかしたら、僕に用があったのではなく、たまたま通りかかって、そこにたまたま僕の家があったから、雨宿りをしたくて来たんじゃないかって、思った。

僕の勝手な憶測は大きく外れたことになるけれど、この時はそんなことを知らない。


僕は、潔く玄関の鍵を開けて、奴を中に招き入れた。

「わるいな。急にすげー雨が降ってきちゃって」

「急にって言うけど、ずっと降ってたよ」

一応、奴にタオルを渡してあげる。奴は僕からタオルを受け取ると、濡れた体を服の上から拭いた。

くしゅんと、くしゃみをして身震いをする。

「…………」

僕はどうしようもない気持ちで、玄関の前でやつを待ち構えていたが、そもそも受け入れてしまったのが間違いだったかもしれない。

「………少しだけなら、暖まっていっても良いけど」

くいっと二階の方を親指で示すと、奴は申し訳なさそうに笑う。

「ありがとう、そうしてもらえると助かる……」

靴を脱いだやつを見かねて、僕は先に階段を登った。

にしても、なんでこんなタイミングで奴が来るかなあ。


なあ、天人。

なんで今になって僕の家なんかに来るんだよ。

今更、僕を救おうなんかするなよ。




「わあ……お前の部屋、思ったよりも変わってないんだな……」

僕の部屋に入るなり、感嘆の声を上げる。僕は黒いベッドの上にどかっと座った。

「まぁ、特に変えるところもないし………というか、まじで暖まったら帰れよ」

「わかってるよ。ああ、寒い寒い」

部屋に置かれた暖房の前で天人は縮こまった。僕は軽く舌打ちをして、次席に座る。パソコンの画面を開いてマウスをカチカチと動かしていた。

室内にはマウスの音だけが響く。

「……なあ」

「なに?」

こっちは、お前と会話するのも心地よくねえんだよ。

「悪かった………」

「は?なんだよ、急に」

「去年、俺はお前を救えなかった……。俺が臆病だったから、お前から目を背けた……」

「今更かよ」

急に何を言い出すかと思えば、そんなことを言いにきたのか?

「謝られても困るからやめろ。あれはもう昔の話だ。今は関係ない」

「いや、でも……お前のその顔は…傷は、治らないんだろう?」

傷のことを言われて、僕は咄嗟に瞼に触れた。指先をザワリと這うような傷跡。傷ができた跡に縫ったけれど、跡が残ってしまった。

「だから、なんなんだよ。勝手に自分のせいとか思うんじゃねーぞ、気持ち悪い」

僕は吐き捨てるように言う。

「別に、あの時は僕が疑われてもしかたなかったし、あいつらもあれから僕に関わらなくなった。だったらそれでいいんだ」

僕は再びマウスを動かした。

そして、僕の耳に天人の鋭い一言が刺さる。


「それで、お前は猪山先生と木本先生のところに行ってきたんだな」

僕の指が止まる。


「何しに行ってた?もしかして、復讐に行ったのか?」


……なんで、お前がそんなこと知ってるんだよ。どこで、それを………。


「悪いけど、お前の行動を視させてもらってたよ。そしたら、何度かお前が二人の家に行ってるのがわかった。………何をしに行ってた?彼らに何をした?」

なにもかも、お前にはお見通しなんだな。

そう思うと、自然と口元から笑みが溢れた。なんだろうか、この気持ちは。敗北?何もかも知られていると言う、敗北感だろうか?それとも自分の不甲斐なさ?

「……おい、音音」

天人は音音の肩を掴んで振り替えさせた。

音音は、笑みを浮かべて空な片目で天人を見る。まるで、自分のことを嘲笑うかのように。ヘラヘラとした態度で。

「そうだよ。僕は………二人のところに行ってた。それがどうしたっていうんだ?それが何か悪いことなのか?僕が何かしたのか?」

「お前………まさか、手は出してないだろうな……?」

音音はニヤリと笑う。

刹那、天人は音音の肩を突き放した。音音は肩甲骨あたりを机にぶつける。

「なに、やってるんだよ……。それは、やっちゃだめなことだろうが……。それじゃ、俺もお前を救いたくても救えねーよ……」

「……救う?お前が?藤崎が?僕を救うって?」

僕はぶつけた肩甲骨をさすって席から立つ。天人の横を素通りしてクローゼットを開けた。

「悪いけどさ、今更笑わせないでくれる?なに、ヒーロー気取ってんの。僕を一度も救えなかった奴が、今更僕を救うって?できると思ってるの?できるわけないでしょ。だって、お前は僕から逃げたんだよ?この僕から逃げて、誰も救おうとしてくれなかった。この僕の気持ちはどこにぶつければいいわけ?なんで、なんでお前なんかに頼らなくちゃいけないわけ?」

クローゼットから、血のついた手袋を取り出す。僕はそれを手にはめた。

雨の中走ってきたせいで手袋もびしょびしょだったし、クローゼットに押し込んでいたせいで生乾きだ。

「音音………そうじゃなくて、俺はお前を救いたいってずっと思ってて……―――」

「莫迦にすんなッ!」

僕は、目の前に置いてあった血糊のついたカッターを掴むと、藤崎に襲いかかった。

天人は咄嗟に横へ避けて、部屋の隅へ逃げる。音音の刃先は天人を捉える。

「もう、やめてくれよ。遅いんだ。僕は取り返しのつかないことをした。だから、だからこそ誰かに救って欲しいなんて思っていない。警察が彼らの死体を見つけて捜査に入るのも時間の問題だって知ってる。だけど、それがどうした?それの何に問題がある?僕は目的を達成したんだ。やりたかったことをようやく達成できた。これで、僕は完全に堕ちることができたんだ……」

僕の周りが黒い霧を覆う。

藤崎は驚いて、僕に近づこうとしたけれど、僕は刃物を持つ手を緩めない。

「お願いだ音音。俺の話を聞いてほしい。俺はお前に言わなくちゃいけないことがある」

「なんだよ!」

気持ちが高揚して、声の音量が大きくなってしまう。その時、僕の耳には階段をぴょんぴょんと、健気に登ってくる音がしていた。


「今更だって言うのは分かってる。俺はお前から逃げたし、自分も何をしていたかよく理解していなかった。けれど、俺のした選択が間違っていたことはわかった。もし、俺があの時、あの二人を殺していたらお前がこんなに苦しむことも、手を汚すこともなかった。だから、俺は……今更って思うかもしれないけれど、お前を救いたい。今すぐ、その刃物から手を離して、一緒についてきてほしい………。お願いだ。俺は、二回も、お前を見捨てたくない……」


「………どうして………、どうして………?」

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