第19話 疲れた時の甘いもの
「あぁ、
エナはそう言うと、まだ湯気のたつ紅茶(ピスタチオの器に入っている)をそっとテーブルに置いた。肩を持ち上げて、小首をかしげて、「なんてことないのよ」といった感じで、この世界の“王様”について話してくれた。
「王様って言ってもね、私達が勝手にそう呼んでるだけなの。彼はね、魔法使いで、昔この世界を助けてくれたのよ。実は私たちはつい最近まで、死にかかっていたの。今みたいに充分な水や食料も無くて、みんな途方に暮れてたのよ」
エナがそこまで話すと、
「そんな時に魔法の力を持った彼が、おいしくて清潔な湧き水や自然豊かなこの地を生み出してくれたの。だからみんな、王様って呼んでるのよ。今はたまに、この世界の困りごとを助けてくれるくらいで、王様って言うより、守り神って感じね」
エナはそう言うと、少し寂しそうに微笑んだ。
「どんな人なんですか?」
朝陽が尋ねると、洗井さんが嬉々として口をはさむ。
「実は誰も見たことないのよ。私も洋服のサイズを聞かされるだけで、どんな人かは知らないの。洋服のデザインから、男性ってことは分かるんだけどね」
彼女はその細長くて器用そうな指先を、口元に持っていって、内緒話でもするようにひっそりと笑う。
「へぇ……」
エナはパッと明るい表情になって、「それで、今回はどんなお洋服を頼まれたの?」と身を乗りだして尋ねる。洗井さんも「それがねぇ!」なんて楽しそうにおしゃべりをはじめた。
そんな温かな世界で、朝陽は空想する。不思議な世界を救った、正体不明の魔法使い。
そのまま、なんとなく視線を落とすと、両手に持った蜂蜜のサンドイッチが目に入った。
しっとりとしたパンに挟まれた、黄金色の蜜。それはどろりとした照りのある輝きを放っていて、その光の中で何かがニヤリと笑ったような気がした。それでふと、チェシャ猫が思いついた。「誰も見たことのない、魔法使いの王様は、もしかしたらチェシャ猫かもよ」そんなことを思いながら、顔をあげたら雨丸と目が合った。
「あ、僕ね、これも持ってきたんだぁ……」
彼はおずおずと、ピーナッツバターのおにぎりを取り出した。
「まあ!私の大好物!」
洗井さんは嬉しそうに受け取って、雨丸に「ありがとう」と言い、おいしそうに頬張った。
みんな幸せそうに笑って、朝陽も笑った。だけどなんだか、自分の笑顔だけが煙のようにその場に残った気がした。本物の自分の顔を隠して、まるでチェシャ猫みたいに。
煙になった笑顔の奥で、母や義父や、クラスメイトの友人たちをぼんやりと思い出す。みんな、どうしているだろう。
私は行方不明者なのかしら。それとも、眠っているのかしら。
もし眠ったままなら、熱中症で死んでたりして。そうだったら……、嫌だな。
洗井さんはとても満足して帰っていった。
「いつも素敵な服をありがとう」
みんなでそうお礼を言ったら、彼女はただでさえ垂れた、優しい眉をもっと垂らして、「こちらこそありがとう」と笑った。
その晩、洗井さんお手製のパジャマを着たエナと朝陽は、久しぶりにホットミルクを飲んだ。新鮮な蜂蜜をたっぷりと入れて。
「朝陽ちゃん、疲れたでしょう?」
エナはすっかりくつろいで尋ねる。
「ううん、大丈夫」
朝陽はにっこり笑って言った。けれど、エナは眉をあげた。彼女はちゃんと気がついているのだ。
「朝陽ちゃん。考えても分からないことは、分からないものよ。宇宙の不思議よ。きっと大丈夫。朝陽ちゃんはとても良い子だもの。悪いことなんて、起こりっこないわ」
エナはするどい。いつもおっとりと、のんびりしているように見えるけれど、正しく人の心を読み取る。もしかしたら、ただおっとりしているように見えるだけで、本当はきっと、誰かの不安を正確にくみ取ろうとじっくり観察しているのかもしれない。そして彼女は間違いなく人を安心させる。エナは凄い女性だった。
「うん。ありがとう。そうよね、宇宙の不思議よね」
朝陽は今度こそ、心から微笑んだ。
不思議な世界に来たけれど、エナがいれば、心強い。
「せっかく体が元気になってきたのよ。考えたって分からない不安に取り憑かれたら、それは良くないわ。心ひとつで、体なんてすぐ病気になっちゃうんだから」
エナはホットミルクをぐびっと飲み干し、空っぽになったピスタチオの器をドンっとテーブルに置いた。
「だから、明日はケーキを食べに行きましょう」
エナが満面の笑みで言って、朝陽は「へ?」と間抜けな声を出した。
「疲れた時は甘いもの。心も体も、きっと元気が出るわ」
エナは冗談っぽく笑ったけれど、声は真剣だった。彼女の優しい微笑みの奥に、ほんの少しの哀しみを、朝陽はわずかに見た気がした。
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