第3章 八百屋さんの朝は早い

第11話 森の中の箱庭街


 タンタンタンタン。

 どぼん、ちゃぷちゃぷ。

 ざばぁ、ばしゃっばしゃっ。


 眠りと目覚めの間。

 少しずつ、聴覚が仕事をこなしはじめたとき、朝陽あさひの耳に爽やかな音が入ってきた。


「サラダの音だわ」


 朝陽はまどろみの中で、そう確信する。


 薄く刻まれるたびに、青っぽい匂いを放つきゅうり。

 たっぷりの水に沈んだと思ったら、はじけるように水面に浮き上がるトマト。

 水浴びを済ませたレタスは、扇子のように上下に煽られ、水に濡れた犬みたいに体中の水を飛ばす。


 朝陽の父は、毎朝サラダをこしらえた。あと、黄金色のオニオンスープ。

 この2つの料理は、セットメニューでも単品メニューでも、必ず脇に添えられた。

 シャキシャキのレタス。パリパリのきゅうり。口いっぱいに広がるトマト。


 ごくん。

 喉を鳴らして寝返りをうち、キッチンの方を見る。

 白いフリルのエプロンを揺らし、くるんとした赤毛の髪をぴょんぴょんさせながら、エナは踊るように料理をしている。

 彼女のその仕草から、この上なく料理を、そして食事を愛していることが伝わる。


「エナさん、おはようございます」


 朝陽はボサボサ頭のまま、エナに挨拶をする。ついでにペコリと頭も下げる。


「あら、おはよーう」


 エナはいつも通り、おっとりと優しく笑った。




 急須で顔を洗い、洗井あらいさんのバターイエロー色のワンピースを着る。

 調子が良い時は、パジャマを脱いで、きちんと洋服に着替える。それだけで、頭が少しシャキッとする。

 それに、最近は昼間に眠ることが少なくなってきた。朝目覚めるとエネルギーに満ちているし、夜は心地の良い疲れでぐっすりと眠られる。


『朝起きられて、夜眠られる』


 たかがそれぐらいのこと。たったそれだけのことが、今の朝陽にとっては、ありがたくてたまらなかった。




「朝陽ちゃん、今朝はどう?」


 エナは、こんがり焼けたパンを頬張りながら聞く。


「今日もとても調子がいいです。最近、すっきり目が覚めるし、夜もよく眠れて。元気もあるし……あの、もしよかったら何かお手伝いすることありませんか?」


 朝陽はみずみずしいサラダを抱えるように持って、シャキシャキ鳴らして食べる。


「うーん……そうねぇ。あっ!食材の調達!朝ご飯食べたら行くんだけど、ついてくる?」


 エナがそう言って、朝陽は「ぜひ!」と笑った。




「じゃあ、行きましょうか」


 二人は空っぽのカゴを抱えて、キッチンから廊下に進み、厨房に続くドアを開ける。

 レストランはほんの少し、昨日の食材の残り香がした。まな板に鍋、床までもピカピカに磨かれた厨房を通り、客席を通ってお店の玄関へと向かう。テーブルや椅子は、まるで出番を待つようにお行儀よくたたずんでいた。



 大きなガラスの扉を開けると、森の中にいた。


 目の前には、木々に見守られた美しい並木道が続いていて、右から左から、小さな人々や動物が行きかう。



 緑色の木々はずっと遠くまで続いていて、通りの向こうには花や草が生い茂る。空はうんと上の、伸びやかな木々の遠い先端のもっとずっと先に見える。

 深く酸素を吸い込むと、青々とした草木が香り、朝露で湿気った土の香りが立ち込める。

 きちんと草が刈られていて、驚くほど綺麗に整った並木道は、たくさんの人に踏みならされて平らかだった。


「エナさん!おはよう!」


 小さなうさぎの子ども達が、巾着のカバンを背負って手を振る。嬉しそうにぴょんと跳ねる姿はとても可愛らしかった。反対側からは、子供を抱っこしたねずみの母親。くちばしに手紙をくわえたスズメが、忙しそうに飛んでいく。


 森の中の一部分を切り取って、箱庭のように作り上げられた不思議な街だった。


「おはよう!気をつけてね」


 エナは笑顔で子供たちに手を振る。

 朝陽は振り返って、エナのレストランを見た。


 小さな小さな石を形良く積み重ね、レンガのようにして建てられた建物。何枚もの板が積み重なった屋根はがっしりとしていて、こけむしていた。建物の両端にはツタが絡まり、それが煙突にまで届いている。木でできた素朴な看板には『おだいどこ』と書いてある。お店の少し奥に建つ同じ石造りの家が、エナと朝陽が暮らしている自宅のようだった。


「わぁ……」


 そのあまりの美しさに、朝陽は後ずさりをした。エナのレストランの名前が『おだいどこ』なのも、心から気に入った。エナらしいお店の名前だと思う。建物の雰囲気、店の名前、全てが完璧で愛おしく、思わず感嘆の声まで漏れる。


 エナの自宅の右隣には、大きな楠木。

 朝陽が紫の和紙に包まれて眠っていたという楠木の下、地上にほんの少し浮き出た木の根を、感慨深く見つめる。

 よくよく見ると、木の幹には小さな階段が設られていて、たくさんの巣穴のようなものがあった。


「あそこが雨丸あめまるの家よ。あの黄色いドア」


 エナは楠木を指して言う。楠木の下の方、黄色の可愛らしいドアがはめ込まれた巣穴、そこが雨丸の家だった。


「それで、その上がケーキ屋さん」


 雨丸の家のもっとずっと上、長い階段の先に、雨丸のものとは全然違う、大きくて整ったドアがあった。そのドアのすぐ隣では、木の枝が枝分かれしている。そしてその太い枝に、ぷっくりと丸い、大きなティーポットがぶら下がっていた。


「へぇぇ……」


 ティーポットの中にケーキが並んでいるのかしら。それともたっぷりの紅茶が注がれているのかしら。

 いろいろと空想しながら眺めていると、エナはおかしそうに「今度食べにいきましょうね」と笑った。


「さぁ、食材の調達はこっちよ」


 エナはそう言って、楠木とは反対側、『おだいどこ』の左隣に建つ建物を指差した。

 そして左隣に目を写して、朝陽はギョッとする。


 赤い郵便ポストがあった。


 壁に取り付けられるタイプの、家庭用の郵便受け。

 郵便局で食材の調達をするのだろうか、朝陽が困惑していると、手紙を取り出すための大きな扉が少しずつ上に上がりだした。

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