第10話 父の思い出
小さな田舎町の、こぢんまりしたレストランだったけれど、家族3人が充分幸せに暮らしていけるくらいには繁盛していた。
朝陽は父の作るご飯が大好きだった。好き嫌いなく育つことができたのは、父の教育のおかげだと心から信じている。
幼いころ、一番好きだった遊び場は父の厨房だった。母には、「危ないからだめよ」としょっちゅう連れ戻されたが、それでも懲りずに忍び込んでは調理をする父を眺めていた。
小気味のいい音を奏でる包丁とまな板。軽々とフライパンをあおり、宙を踊る食材。食用油、肉、魚、野菜、そしてたくさんの香辛料、あらゆる香りを、父は全身に宿していた。
料理をする父は魔法使いだと、朝陽は小学校低学年くらいまで、真剣にそうだと思っていた。
それくらい、料理をする父は格好良かったし、魔法の料理を口にして、おいしそうに笑うお客さんを見るのも、大好きだった。
母によって毎日アイロンをかけられた、清潔で真っ白なコックコートを着た父。恰幅が良く、ほんの少しだけ出たお腹をぴったりと覆うシェフエプロン。
几帳面なほどに切りそろえられた爪と、その美しさに相反するように荒れた指先。
朝陽はいつでも思い出すことができる。鮮やかに、そして正確に。
まさに指の先まで。父が生きていた頃の体温まで、その指先の冷たさまで。
朝陽の父は彼女が12才の時に亡くなった。
病気だった。
最後の一年は、母も朝陽もボロボロだった。痩せ細ってゆく父を、少しずつ瞳の輝きを失ってゆく父を、指先から全身まで冷え切ってゆく父を、母と二人で見守った。
朝陽はたったの12才で、父の姿や周囲の環境から、『おそらく父は死ぬ』と悟った。
その日のことを、その絶望感とどうしようもない虚無感を、忘れることはできない。
父が死んで、朝陽の愛するレストランはシャッターを下ろした。
母娘は小さなアパートに引っ越し、助け合って暮らした。母は小さな会社でパートタイムとして働き、夜はスナックに勤め、朝陽は家事をしながら学校に通った。
毎日必死だった。
そして朝陽が15才の時、母は再婚した。
義父はとても良い人だった。優しくて、まじめに働き、スーツと革靴の香りのする人だった。いつもニコニコして、血のつながらない朝陽のことを、心から愛してくれた。
義父と家族になって、苗字が変わって、母は専業主婦になり、朝陽はただの学生になった。
高校にも大学にも進学させてくれた。
朝陽には二人も、素晴らしい父がいる。
それはとても、幸せなことだと思う。
スーツを着た、革靴と通勤電車の香りがする背の低い父。
コックスーツを着た、食べ物の香りがする恰幅の良い父。
忙しく働くエナの姿を見ながら、朝陽は懐かしく思い出す。
魔法使いだった、食べ物の香りがする父のことを。
エナの真っ白なエプロンも、きっとたくさんの香りを宿している。そして彼女も、もしかしたら魔法使いかもしれないと思った。
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