第9話 エナのレストラン


 冷めてもおいしいクッキーとフクロウ先生のホットミルクで、朝陽あさひはその晩もぐっすりと眠った。洗井あらいさんのパジャマは眠る邪魔をしない、けれど静かに、優しく寄り添うように体になじんだ。

 エナとお揃いの、眠るに適したパジャマを着て、ふかふかのベッドに潜ると凄くほっとした。その寝心地の良さは、『ここにいていいんだよ』と言われているようだった。




「朝陽ちゃん、ご飯よー」


 エナの元気な声がする。大きな窓は、太陽の明るい光をめいっぱい部屋中に注いだ。朝陽は温かな急須で顔を洗い、エナと一緒に朝食をとる。今朝はふわふわのパンケーキだった。エナはバターと苺、ブルーベリーにバナナをたくさんのせて、はちみつをたくさん垂らした。朝陽は一枚しか食べきれなかったけれど、エナはすいすいと二枚も食べた。


 その後、エナは食材の調達に行き、朝陽は洗い物をする。


 洗い物をしながら、うとうととしてしまう。


「どうしてこんなに眠たいのかしら……」


 でも最近、体がずいぶん軽くなった気がする。眠りから目覚めるたびにそう思う。

 前は目覚めるたびに体中が重くてたまらなかった。まるでヘドロに埋もれて眠っているように、息苦しく、気怠かった。地面にべったりとへばりついた体を、全力で引き剥がすような目覚め。だからいつも、寝起きから頭痛がして、起き上がるころにはすっかりくたびれていた。


 やっとの思いで洗い物を済ませ、濡れたへちまを置くと、もう耐えられないとベッドに潜る。

 ベッドの中で、朝陽はこっそりと笑った。くふふ、と。

 あまりにも幸福だった。これから自分は、歓迎されたベッドの中で気持ちよく眠り、また軽やかに目を覚ますのだ。

 眠る間際、風邪で学校を休んだ日の朝を思い出した。通常ではない、特別で不思議な気分になれる朝。そんな朝に食べる、父の作ったお粥が朝陽は大好きだった。




「朝陽ちゃん!お昼ご飯だよ!」


 目覚めると、どんぐりまなこと目が合った。雨丸あめまるだ。


「おはよう、雨丸」


 雨丸はベッドに頬杖をついて、にこにこしている。


「今日はね、エナのお店が凄く忙しいんだ。だからね、僕がお昼ご飯をもってきたよ」


 テーブルにはまん丸としたおにぎりが二人分、置かれていた。


「ありがとう」


 朝陽は雨丸の顔を思いきり抱きしめた。ふかふかした体、草や花、葉っぱや風、川の匂いがする。「雨丸は太陽の香りがするのね」と言ったら、彼は照れくさそうにしていた。




 雨丸のおにぎりは大きかった。米粒がこんなにも大きいことに、朝陽はある種の感動さえ覚えた。「いただきます」と言って、二人は一緒におにぎりを頬張る。雨丸はかわいらしく頬っぺたを膨らませる。塩味だった。

 ふたくちめを頬張って、朝陽は一瞬思考が停止した。

 甘い。

 おにぎりの具が、甘かった。

 幸福な微笑みを崩さないことに全神経を集中させ、雨丸に尋ねる。


「おいしいわねぇ、この具は、な、なぁに?」


 ちょっとつっかえたが、なんとか言えた。雨丸は嬉しそうに笑って言う。


「ピーナッツバターだよ」


 なるほど。


「テーラー洗井さん、仕立て屋さんの洗井さんって知ってる?あの洗井さん、僕が作るピーナッツバターが大好きなんだ。だからこうして、よくおにぎりにしてプレゼントするの。いつもおいしいって喜んでくれるから」


 なるほど。アライグマは雑食……。そんなことを考えながら、いつかパンに挟むことを提案してみようと思った。洗井さんもきっともっと喜んでくれる。


「おいしくない?」


 雨丸がそんなことを聞くので、朝陽は大きな声で「すんごくおいしいわよ!」と言って、がぶりと頬張った。にっこり笑って食べてみると、そんなに悪いものではないような気がした。


 だけどでもやっぱり、パンの方がいい。


 朝陽はそう思いながら、けれども一粒残さず全部食べ切った。お金の概念がない優しい世界の、ちょっとした副作用を見たような気がした。




「ねぇ、エナさんのお店ってこの家のお隣にあるの?」


 朝陽はすっかり満腹になって、お茶を飲みながら尋ねる。


「そうだよ!あれ?朝陽ちゃん、行ったことなかったっけ?じゃあ今から行ってみようか!」


 雨丸は楽しそうにはしゃいだ。「迷惑じゃないなら……」朝陽がそう言うが早いか雨丸は手を握って歩き出す。「大丈夫だよー」なんて言いながら。


 キッチンのドアを抜け、廊下を歩いてエナの部屋の前を通り過ぎる。廊下のつきあたりには、瓶に入ったひまわりが飾られていた。その上にはなぜか、額縁に入ったさつまいもの絵。

 つきあたりから左に曲がると、木のドアがあった。ドアについた窓はステンドグラスで、向こう側の部屋の明かりを美しく通した。


 ドアの向こうは活気にあふれている。ドアを開けなくても朝陽には分かる。調理をする熱やぶつかる食器、たくさんの食材の香りとみずみずしい野菜に水の音、そして食べる人たちの力強いエネルギー。


「開けるよー」


 雨丸は呑気な声で言ったけれど、朝陽はとてもワクワクしていた。


「あらぁ、いらっしゃい」


 エナがドアの方を向いて笑った。


 ドアは厨房につながっていた。

 使い込まれた釜戸、真っ黒な艶のある鍋、大きなまな板、かごや袋の中にあふれんばかりに詰め込まれた、野菜やきのこ。朝陽はため息をついて、部屋中の空気を吸い込んだ。

 きざまれたシソの葉、熱を持った味噌、そしてご飯の炊ける幸せな香りがする。


 朝陽はいっぺんで気に入った。


 古いけれど清潔な厨房、だだっ広い空間で、笑いながら食事をする人々。


 エナのレストラン。彼女がいつかの誰かへ、恩返しをしている場所。

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