第8話 冷めてもおいしいクッキー


 洗井あらいさんはエナの淹れた紅茶を3杯も飲み、「今度はなにか、羽織ものがあるといいかもねぇ」と笑った。そして、自分の作った服を嬉しそうに着る二人を見て、とても満足した様子で帰っていった。


 洗井さんを見送ると、もうお昼の時間だった。


「興奮したらお腹すいたわね」


 エナはてきぱきと動く。テーブルにはサラダや卵、アボカドやかぼちゃで作られたペースト、クリームチーズやスライスされたバナナを並べ、焼きたてのパンとベビーコーンのスープを運ぶ。いつもおっとりしているけれど、食事となると力がみなぎったように動く彼女を、朝陽あさひはとても素敵だなと思った。


「いただきましょう」


 焼きたてのパンを片手に、好きな具材をのせてサンドイッチにする。エナはほとんど全部の具材をのせてかぶりついていた。朝陽はアボカドとクリームチーズ、サラダと卵を挟んで食べる。


「おいしい……」


 朝陽が笑うと、エナも嬉しそうに「ね」なんて言って微笑んだ。




 昼食を終えると恐ろしいほど体がぐったりして、朝陽は再びベッドに沈む。


「急なお客さんで疲れちゃったでしょう?ゆっくり休んで」


 エナはそう言ってくれたけれど、朝陽はなんだか申し訳なくて「食っちゃ寝で、すみません」とだけ言って重たいまぶたを閉じた。

 どうしてこんなに眠たいのか、自分でも分からない。

 あのアパートではちっとも寝た気がしなかったのに、今は夢も見ずコトンと眠る。それはシャッターでも閉めるような、強制的な睡眠だった。

 「食っちゃ寝だなんて」と笑うエナの声が聞こえたような気がした。だけど、朝陽の脳はもうすでに甘やかな眠気に支配され、何かを把握するなんてそんな難しいことはできなかった。




 次の瞬間、目を覚ますと外はもう真っ暗だった。

 朝陽はつい「しまった」と思う。また昼夜逆転を進行させてしまった。どうして自分はこう堪え性がないのだろう。こんなんで立派な社会人になんてなれるわけないわ、そう思って起き上がると、エナがキッチンでクッキーを焼いていた。


 朝陽は心底ほっとした。

 ここは就活なんてない世界だった。夜中にクッキーを焼いたっていい世界なんだ。


「エナさん、すっかり眠っちゃって……」


 のろのろとベッドから立ち上がると、エナは振り向いて微笑んだ。


「いいのよぉ。それだけ体が睡眠を欲してるってことでしょう?自然の摂理にまかせましょう」




 テーブルには、フクロウ先生のホットミルク、そしてエナが作ったマシュマロ入りのクッキーが並んでいた。そして二人は、洗井さんお手製のお揃いのパジャマを着ている。


「朝陽ちゃんが眠ってる間にね、フクロウ先生が来て、“きちんと食べて、よく眠れているなら大丈夫”って言ってたわ。でも遅い時間にしっかりご飯を食べると、睡眠の質が落ちるから、ホットミルクと軽いものを食べなさいって。お腹が空きすぎても眠れないでしょう?だから、軽く食べてね」


 エナはそう言いながら、クッキーをつまむ。

 朝陽はうつむいて、「ありがとうございます」と言う。焼きたてのクッキーはサクサクしていたけれど、閉じ込められたマシュマロがとろりと出てきて、信じられないくらいにおいしかった。


「あの……、この世界にはお金がないんですね」


 朝陽はうつむいたまま呟く。この恩をどうやったら返せるのか途方に暮れていた。


「お金ってものが、朝陽ちゃんの世界にはあるの?」


 エナは不思議そうに聞く。


「はい。働いたりしたら報酬としてもらえて、それを使って食べ物とか生きるためのものを手に入れるんです。労働の対価です」


 朝陽が言うと、エナはほんの少し考えてまた尋ねる。


「その“お金”ってものがないと、生きていけないの?」


 エナの顔が不審そうに歪む。


「まぁ、はい。生活するにはお金は絶対に必要なので……。お金がないと病院にも行けないし、ご飯も食べられません。そういうものが、この世界にはないのでしょうか?」


「ないわ」


 エナはきっぱりと答えた。


「だってもし、働けなくなったらどうするの?そのお金ってものがないと、生きていけないんでしょう?働けない人は死ねっていうの?そんなのひどすぎるわ」


 エナはむしゃむしゃとクッキーをたいらげる。


 そうなったらそれなりの保証とか保険とか、年金だとかそういうものがあるにはあるんだけれど……、そこまで説明すると朝陽自身もこんがらがりそうなので言わずにおいた。


 ぐび、とホットミルクを飲むと、エナは話し始めた。


「この世界に労働の対価なんてないわよ。みんな好きでやってるの。自分の特技を活かしてね。でも……まぁ、あえて言うなら恩返しかもね。みんな誰かに助けられて生きてるから、自分も誰かを助けるために働いてるの。だって、このパジャマだって、私、こんな素敵な寝心地の良いものは作れないわ。フクロウ先生みたいに頭もよくないし。だからね、私はおいしいものを作ってるの。少しでもみんなが健康で元気に過ごせるようなおいしい食事をね。それにもし、事故やなんやで働けなくなっても、みんなが助けてくれるわ。そうやってたくさん助けてもらうとね、早く元気になって、またみんなに恩返ししたいって思うもんだしね。ここのみんなはね、ちょっとお節介なくらいプレゼントするのが大好きなのよ」



 朝陽は唖然とした。

 そんな夢のような世界があるなんて。

 そう思うと同時に、ゾッとした。

 朝陽の世界ではそんなことは無理だ。お金がないとすぐに争いごとが起きるし、弱い人間は切り捨てられるように死んでいくし、私欲のために人を殺せるような恐ろしい世界なのだから。

 そしてもっと怖かったのは、ぎっとりと染みついた自分の思考だった。恩返しすら、お金で解決するものだと思い込んでいた自分が凄く嫌で、不快だった。


 震えるようなため息を吐いた朝陽に、エナは冷えたクッキーを渡した。


「このクッキーはね、冷めてもおいしいの」


 朝陽はそっとクッキーを受け取る。サクサクとしたクッキーの中に隠れたマシュマロは、もちもちとした食感に変わっていて、それはとても優しかった。


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