第2章 エナの特別な食事

第6話 急須で顔を洗う


朝陽あさひちゃーん!起きなさーい」


 ああ、もうお母さんたら。

 ちゃんと起きるわよ、だからすぐにカーテンなんて開けないで。まぶしいんだから。


「朝陽ちゃん」


 朝陽は一瞬で覚醒した。

 母の声じゃなく、エナの声だった。


「お、おはようございます」


 びっくりして飛び起きてしまって、頭がぐにゃんぐにゃんと揺れた。


「驚かせてごめんね。まだ眠いでしょうけど……。でも、フクロウ先生から“きちんと朝食をとるように”って伝言があったの」


 エナは朝陽の額に手の甲をあて、「うーん、まだ少し熱っぽいかしらねぇ」とつぶやく。


「とりあえず、顔洗ってらっしゃいな」


 夢か現実か、ふぬけた頭で考えながら、朝陽はうなずく。


 しかし、エナに案内されたお風呂場を見て、朝陽は完全に目が覚めた。


 さまざまな柄の、四角いタイルに囲まれたバスルーム。そのタイルは、朝陽の背丈と同じくらいだった。大きな窓があって明るく、ちょろちょろという水の流れる音がする。

 大きな窓の手前にはバスタブがあった。それも、映画でしか見たことのないような猫足の、美しい曲線を描いたアンティークなもの。ほれぼれとするようなデザインだった。

 だがしかし、その美しいバスタブの隣には、なぜか、あまりにも日本らしい釜戸が堂々と鎮座していた。しかも、その釜戸の上にはガラスの急須きゅうすがのっている。

 まるで美女と野獣みたいだと思った。


「温かいお湯をためておいたわ。ここで顔を洗ってね」


 エナは急須の蓋を開けて言う。


「なるほど」


 朝陽は釜戸の素晴らしい役割にやっと気が付いた。温かなお湯を作る大切なものだった。


「洗い終わったら、ここの取っ手を持ち上げて、バスタブの中に流してちょうだい」


 急須の取っ手を持ち上げる動作をして、エナは説明する。


「なるほど」


 急須を傾けるとちょうど、その注ぎ口がバスタブに向かうようになっていた。


「そうしたら、ここにある水道をポットの中に戻しておいてね」


“水道”と呼ばれたのはストローだった。じゃばらになった首の曲がるもの。そのストローは現在バスタブの方を向いていて、ちょろちょろと水が流れている。エナは急須のことを“ポット”と呼んだ。


「なるほど」


 バスタブには排水溝があるようで、流れていく水はどこかに排水されているようだった。


「タオルはそこにあるからね」


 エナはにっこり微笑んで浴室をあとにする。朝陽は慌てて「ありがとうございます」とお礼を言った。


 再びバスルームを見渡して、唖然とする。

 たぶん、そうだろうとは思っていたけれど、恐らく自分は縮んでいる。もしくは周囲が異様に大きいのかも。

 急須に顔を近づけると、ほんのりと温かな蒸気がふれる。気持ちの良い蒸気を、鼻からたっぷり、肺の中に送り込んで顔をあげると、目の前に鏡があった。


「あ……」


 朝陽は久しぶりに、自分の顔をまじまじと見て、その有様に絶句した。

 死人のように蒼白い顔は、若さを失っていてハリもツヤもない。目の下は赤というよりはもうほとんど紫色をしていて、悲しくたるんでいる。頬がこけたせいで頬骨が目立って、まるで自分の顔じゃないみたいだった。


 ひどくショックだった。


 涙が出そうだったから、朝陽は温かな、たっぷりのお湯で顔を洗う。


 昼夜逆転の生活をして、ちゃんとした食事も摂らず、嫌な夢ばかり見ていつも頭が痛くて、いつだって睡眠不足だった。就活が辛くて、嫌でたまらなくて、朝が来てほしくなくて、ずっと夜でいてほしくて、そんな生活をしていた。「きちんとしなくては」「みんなみたいに頑張らなくては」とは思うのだけれど、ちっともうまくいかない。

 全部自分のせいだと分かっていた。分かっていたからこそ、とても苦しかった。

 ふがいない自分に腹が立って、お湯の中に顔を沈め、「もう、いや―!」と叫んだ。

 お湯が大きく泡立って、水面でゴボゴボとはじける。

 アゴが外れるんじゃないか、というくらいに口を開けたら、ちょっとすっきりした。


 タオルで顔をごしごし拭いて、言われたとおりに急須の取っ手を持ち上げる。勢いよくバスタブに流れ出したお湯は、排水溝へと飲まれて消えた。

 ストローの蛇口を急須の方に持ってきて、きれいなお水でもう一度顔を洗い、タオルで拭う。最後に、急須の中の汚れを手で磨くようにして洗い流した。


 再び急須の中にお水がたまる。

 朝の光を通したお水は、きらきらと粒のように輝いてささやかに流れ、満ちていく。


「朝陽ちゃーん。ご飯できたわよー」


 エナの明るい声がする。


「はーい」


 バスルームのドアを開けると、卵とバターの香りが鼻をくすぐる。なんておいしそうな香りだろう。


「いい匂いですね」


 うっとりと鼻を膨らませてキッチンに入る。エナは嬉しそうに笑った。


 「食べたい」と思う香りだった。ものすごく、お腹がすいた気がした。それは久しぶりの欲求で、生きているという心地がした。




「朝はタンパク質が一番よ。1日を元気に過ごせるし、夜もぐっすり眠れる」


 そう言って朝陽の前に置かれたのは、美しく整った半月形のオムレツだった。その横には豆のサラダ、こんがりと焼き目のついたパンにトマトのスープ。オレンジジュースと紅茶も添えられている。


 素晴らしい朝食を前に、感嘆のため息が出るとともに、朝陽の頭には「膳据ぜんすぜん」とか「一宿一飯いっしゅくいっぱん恩義おんぎ」とか、「働かざる者食うべからず」とか、そんな言葉が浮かんだ。


「エナさん、お世話になってばっかりなのに、何もお支払いできなくて……。そのかわりに私、なにかお手伝いします」


 本当に申し訳なくて、ありがたくて、でもお金なんてなくて、朝陽はしょんぼりと伝えた。


 エナはオムレツを口に入れようとしたままポカンとして、ケラケラ笑った。


「いいのよ、そんなこと。困ったときはお互いさまでしょう?まずは体調を整えなきゃ。元気になったら、朝陽ちゃんのやりたいことをやればいいわ」


 そう言ってエナはオムレツをほおばる。「冷めないうちに食べて」と言われて、朝陽は頷いた。


「ありがとう。いただきます」


 オムレツはふかふかしていて、中にはチーズがたっぷり入っていた。口の中にバターの風味が広がる。卵とチーズ、バターだけで、こんなにも幸福な料理が作れるなんて、彼女は本当にすごい。


「生きててよかった」


 オムレツを食べて、ぽつりとそう言ってしまって、自分でも驚いた。


 エナは「大げさねぇ」と笑ったけれど、朝陽は真剣に、大まじめに、心からそう思った。


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