第5話 フクロウのホットミルク
痛い……ような気がする。
見渡す世界は、あの夢と同じ。
赤茶色のレンガで囲まれた温かい部屋。たくさんの緑が見えた四角い窓からは、夜の月明かりが見える。
「そんなこと、あるはずないわ」
口に出して言ってみる。あんなひどい世界でも、戻れないかもと思うと不安になる。こんなのどうせ、きっと、夢だとは思うけれど。
「あなた、もしかしたら旅人かもね」
エナはとても明るい、ろうそくの火を揺らしながら朝陽の隣に腰かけた。その顔は少し、悲しそうだった。
「たまにね、そういう人が来ることがあるんだって、私のおじいさんが言ってたわ。迷い込む、みたいな感じだって」
朝陽は黙ってエナの話を聞く。
「きっとここは、もともと朝陽ちゃんが暮らしていた世界とは違うんでしょう?」
朝陽がうなずくと、エナは微笑んで「じゃあやっぱり旅の人ね」と優しく言った。
「昔、私のおじいさんもね、迷い込んだ旅人を助けたことがあるんですって。その旅人は違う世界から来て、不思議な力を持っていたらしいの。でもいつの間にか、旅人はいなくなってしまった」
「その旅人は、どこに行ったの?」
朝陽はすぐに聞いた。
「わからないわ。突然現れたみたいに、突然消えたんですって。元の世界に戻ったのか、別の世界に行ったのか、おじいさんも知らないみたいだった」
「……そう」
朝陽はだんだんと覚醒し、自分の体と心がしっかりとここにあることを実感した。緊張のせいか熱っぽい頬や、不安のせいで大きく聞こえる耳の中の脈の音。この感覚は、夢なんかじゃないことが嫌というほどわかる。
さあ、どうしようか……。
朝陽はぼんやりと、ベッドの向こうに続くキッチンと丸太のテーブルを眺める。
困った顔の朝陽をのぞき込むようにして、エナは語りはじめた。
「ねぇ、夜空を見上げたこと、あるでしょう。その向こうには何があるのかしらね。太陽やお月様はどこにいるのかしら。太陽やお月様が暮らす部屋の外には、何があるのかしら?」
「う……宇宙の先ってこと……?」
全く話についていけない朝陽は、辛うじて言葉を返す。
「わかんないでしょ?だからまぁ、とりあえず、ご飯を食べて眠ってみましょう。そしたら元の世界に戻れるかもしれないし、もしかしたら別の世界に行くのかもしれないし、ずっとここにいるのかもしれない。不思議なことなんて頭で考えたって、何にもわかりゃしないのよ。そういう時は、ご飯を食べて寝る。普通の暮らしをするしかないじゃない。さっき話した旅人もね、おじいさんと一緒にしばらく暮らしたんですって。二人はとても、仲が良かったそうよ」
朝陽はふいに、体中の力が抜けた。
エナの声や言葉は、不思議な安心感を与える。
「ありがとうございます……」
エナに頭を下げた。思ったよりもずっと、しょぼくれた声が出た。
エナは朝陽の肩を抱いて、上下に優しく優しくさする。柔らかな感触と温かな体温が伝わる。「きっと大丈夫。元気出しなさいよ」そう言われている気分だった。
「安心して。ここにいる間は、私が面倒をみるわ。私もちょうどね、一人暮らしも寂しいなぁって思ってたのよ」
エナはやっぱり、おっかさんみたいだな、と朝陽はあらためて思った。
「本当に、ありがとうございます」
そう言って、エナの顔を見上げる。涙の中で見る彼女の笑顔は、ほんの少しの哀れみを帯びていて、だけどそれでもなお美しかった。
「おーい。エナ、大丈夫かな?」
低い声と共に、キッチンの窓をカツカツカツ、と叩く音が聞こえる。
「ああ、はぁい。今開けます」
泣きべそをかいた朝陽に「お客さんよ」と微笑んで、エナはキッチンに向かう。
「こんばんは。先生」
大きく窓を開け、エナは礼儀正しく挨拶をする。
「はい、こんばんは。エナ、眠れないのかい?」
そう言って、ちょんちょんちょんと部屋に侵入してきたのは、フクロウだった。
灰色と白色の美しい羽色、凛々しい眉のようなピンとした
彼は、くちばしに挟んでいたカゴをそっとテーブルに落とす。
「いいえ、私じゃないの。こちらよ、朝陽ちゃん。旅の人」
エナは手のひらをゆっくりと朝陽に向ける。
「ほう」
フクロウと目があって、朝陽は思わずベッドから立ち上がった。彼の
こんなに近くでフクロウを見たのは初めてだった。
「はい、あーん」
朝陽は大きく口を開けて、フクロウに喉を見せる。
「うん、大丈夫だね。旅ってのは興奮するからね。知恵熱みたいなもんだ」
眼鏡を頭の上にずらして、フクロウ先生は笑う。
彼はお医者さんらしい。
朝陽は軽い診察を受けた。ほんの少しの微熱があったけれど、その他は大丈夫だと言われた。
「きっと神経がピリピリしているんだよ。寝る前にホットミルクを飲みなさい。このシロップを入れるといい」
フクロウ先生は、金色の液体が入ったチューブを出した。
それを見て朝陽はギョッとした。
お弁当についている、お醤油やソースを入れるアレだ。魚の形の、赤いフタのチューブ。
「先生ありがとうございました」
エナが頭を下げ、朝陽も慌てて、「ありがとうございました」とお辞儀をする。
「たいしたことでなくて良かったよ。2人とも元気で何より。けれどもし明日の朝、体調が悪かったらオウム君に連絡しなさい」
朝陽が不思議そうな顔をしていると、フクロウは笑って言った。
「ああ、私は夜間担当の医者なんだ。昼間はオウム先生。交代制さ。いわば私は夜勤だね。でも毎朝毎晩、カルテの引き継ぎはきっちりとしてるから、安心しなさいな」
ほっほっほと笑うと、頭の上の眼鏡をカゴに入れ、「ほいじゃ」と夜空に飛んでいった。
大きな羽が羽ばたいて、部屋の中に勢いよく夜風を入れた。
朝陽はぼんやりと夜空を見上げる。
これが夢じゃないのは、奇跡だ。
「ホットミルクを入れるわね」
エナがそう言って、朝陽は窓を閉めた。
エナが作ってくれたホットミルクは、とてもおいしかった。エナは2杯分淹れて、2人でゆっくりと味わう。
あのシロップにはきっと、蜂蜜と生姜と、おそらくシナモンが入っている。でも、半分くらい飲んだら、ものすごくリラックスしたので、フクロウ先生のなにか、秘密の魔法の薬でも入っているのかもしれない。
「おやすみ、朝陽ちゃん」
エナはそう言って、キッチンのドアから顔を出す。
「エナさん、今日は本当にありがとう。おやすみなさい」
もうほとんど眠る寸前、ふやけた声で朝陽は言い、心地の良いベッドに沈む。
「いいのよ、おやすみ」
エナのうんと優しい声、そしてドアの閉まる音がした。月明かりの部屋でまどろむと、とろけてしまうような甘い眠気の波がくる。
喋るリス、フクロウの医者、小さな女性。
ピスタチオのコップ、クルミの器、お魚のチューブ。
不思議な1日だった。
これは夢かもしれないし、もしかしたら現実かもしれない。
夢だったら、バカみたいに眠ってるのかしら。それとも、あの玉をのどに詰まらせて危篤状態とかなのかも。もしくは植物人間になってたりして。「どうなってもいい」なんて思っておいて、どうにかなったら不安になるもんなのね。
もし現実だったら……、脳内で作り出した妄想かしら。そうしたら今ごろ、精神病院に入院してたりして。
でも、そうじゃなかったら?
それこそもう、宇宙の不思議だ。
私なんかが知ろうとしても、きっと絶対に分からない謎なんだわ。
だったらエナさんの言うように、ここで暮らしてみるしかないじゃない。
そんなふうに思ったら、なんとなく安心して、朝陽はそのまま、眠りの波にのまれた。
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