第3話 不自然な世界


 その晩、“眠る前のまどろみ”というものを、朝陽あさひは久しぶりに味わった。

 体をゆったりと浮かせながら、底のない穴をふわふわと落ちていくような心地よさ。

 幼いころに読んだ、『不思議の国のアリス』の絵本を思い出す。


 本当に久しぶりにぐっすりと眠った。

 夢ひとつ見ない、質の良い眠りだった。




 甘くて爽やかな木の香りに包まれて、体はぽかぽかと温かい。

 誰かの話し声や生活する音がした。

 とても安心する。

 トントントンと、規則正しい音が聞こえた。

 ああ、これはまな板の音だ。

 お父さんが料理をしているんだわ。今日の朝ご飯はなんだろう。

 朝陽はそう思って、幸せな気持ちで目を覚ました。



 目の前にリスがいた。



「ああ!エナ!起きたよ!」


 くりくりとした瞳に朝陽の顔を映しながら、そのリスは言った。鼻はかわいいピンク色で、ひくひくしている。


「ねえ、大丈夫?」


 目の前で首をかしげる。なんて愛らしいのだろう。



 でもどうして、そんなに大きいのかしら。

 どうして、人間の言葉を喋ってんのかしら。


 ああ、私は夢を見てるのね。



 朝陽がぼんやりしていると、リスの隣から美しい女性が顔をのぞかせた。


「おはよう、よく眠ってたわねぇ。体は平気?」


 くるくるした赤毛の髪を、頭のてっぺんで緩くお団子にしたその人は、ふんわりと優しく微笑む。細くて優しい声だった。


「お腹がすいたでしょう。もうすぐしたらリゾットができるわよ」


 朝陽の額にかかった髪を、彼女は手のひらでそっとかきあげてくれる。温かくて、ミルクの香りのする手だった。


 起き上がると、柔らかなベッドの中にいた。

 軽くてふわふわで暖かなお布団。白っぽい木のベッドはなんだかとても、木目が大きい。部屋は赤茶色のレンガで囲まれていて、四角い窓からはたくさんの緑が見える。明るい部屋だった。


「さあ、召し上がれ」


 丸太みたいなテーブルに、茶色い器が並ぶ。クリームとチーズの、おいしそうな香りがする。



 立ち上がると視界がぼやけてめまいがした。急いでベッドの背もたれをつかむ。


「あらら!いいわ!そのまま横になってて!」


 赤毛の女性はそう言って、木のトレイに器をのせる。

 朝陽は念入りに、何度も確認するように瞬きをしながら視界を取りもどし、もう一度ベッドに座る。


「大丈夫?あなた2日も眠ってたのよ。これを食べたらきっと元気になるわ」


 トレイにのったリゾットからは湯気がたっている。さっきのリスが心配そうに飛んできた。


「あ、ありがとうございます」


 朝陽はお礼を言って、トレイを受け取る。


 トレイには茶色い、なんだかガサガサした器の中にリゾットが、隣の丸いすべすべの器には、お茶のようなものが入っている。そして、木のスプーンが添えられていた。



 おかしい。


 なんというか、何かが違う。



 器がおかしいのは置いておいて、液体の性質がなにかおかしい。


 どうせ夢なんだから、と、朝陽は黙ってスプーンをつかみ、お茶の中につっこんだ。


 スプーンが、液体の中に割って入る。そしてゆっくり、液体は口を閉じた。

 スローモーションみたい。

 スプーンを引き抜くと、液体は吸い付くようにしてぽちゃりと落ちた。


 どろりとしている、ように見える。


「あなた、大丈夫?」


 赤毛の女性は不思議そうに見つめる。


「あの、これ、お茶ですか?」


 朝陽が尋ねると、女性は頷いた。


「いただきます」


 そのどろりとした液体を、口に入れる。

 最初、口のまわりに液体の膜がついた気がしたけど、口に入るとさらりとしたお茶に変わった。


「あ、おいしい」


 レモンみたいな爽やかな香りがして、でもちっとも酸っぱくなくて、ほんのり甘い。


「そう?よかった。レモングラスのお茶よ、頭がねシャキッとするから」


 その女性は優しく笑う。


「あの、この器、凄くめずらしいものですね……」


 朝陽はそっと、お茶の入った器を掲げる。

 白くてすべすべ、底は削られたように平らになっている。


「そう?ピスタチオの殻よ?」


 朝陽はじっと、赤毛の女性の顔を見た。

 彼女は当たり前でしょう?といった顔で、リゾットが入った器を指差して言う。


「こっちはクルミの殻」


「なるほど」朝陽はなんとなく納得してしまった。

 よくできた夢だなぁと思った。


「ねぇ、君の名前は?」


 相変わらず、心配した顔のリスが聞く。


「私は朝陽といいます」


 そう言うと、リスは「素敵な名前だ」と言い、女性も「ほんと、素敵ねぇ」と同意した。


「私はね、エナっていうの」


 赤毛の女性は笑って言った。30代くらいだろうか、落ち着いていて優しそうで、とても美人だった。けれども彼女は、美女特有の『近寄りがたさ』を感じさせなかった。なんとも言えないおおらかさ、例えば、“田舎の優しいおっかさん”を思わせる雰囲気だった。


「僕は雨丸あめまるだよ」


 エナと同じくらいの背丈のリスはそう言った。だらりと襟元のあいた黄色のシャツに青色のベストを着ている。


「ねぇ、君、どっから来たの?」


 雨丸が続けて尋ねる。エナは少し心配そうな顔をして、朝陽の肩に手をのせた。


「朝陽ちゃん、あなた2日前の夜、隣の楠木の下で倒れてたのよ?あの布に、きれいに包まれて」


 エナが指差す方向に、あの紫色の和紙が下げられていた。金色と銀色、そしてほんの少しの黒色で、たんぽぽのような花の模様が描かれている。

 あの晩、占い師がくれた包み。



 そうだ。私はあの日、真っ黒な玉を飲み込んだんだったわ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る