第2話 不採用通知


 7月最後の夏の夜、蛙がうるさいくらいに鳴いて、生ぬるい風がうとましく絡みつく。

 だけど朝陽あさひは、誰もいない夜の道が好きだった。


 今夜も遅くに目を覚まし、シャワーを浴びてコンビニへと向かう。

 しかし、今日はいつものようにスムーズにはいかなかった。

 猫のエサが品切れだったのだ。


 毎日猫のエサを買い求める女がいるんだから、きちんと在庫管理くらいしなさいよ。


 朝陽は苛立ちながら店を出る。何も買っていないのに、店員が「ありがとうございましたー」なんて言うものだから、なんだか更に腹立たしかった。


 最近、イライラしやすい。


 仕方なく遠くのコンビニまで足を伸ばしながら、朝陽は考える。

 自分はもっと、穏やかな性格だったはずなのに。どちらかというと、のんびりと長いものに巻かれて、ぼんやりしているような人間だった。

 だけど今は、気がつけば心の中で悪態をついている。そんな自分が凄く嫌だった。


「このまま、嫌な大人になっちゃうのかしらね」


 朝陽は呟く。

 明日は誕生日で、22才になる。



「どうでしょうねぇ?」



 左耳に直接声が届いた気がして、朝陽はひどく驚いた。とっさに左耳を手でおさえて、声の方へと視線を向ける。体中の皮膚があわだって、タイトなデニムを履いてきたのに、そのデニムを押し上げたような心地がした。



 2メートルくらい先に、真っ黒な服を着たお婆さんが座っていた。頭に巻かれた紫色のバンダナのせいで、顔がよく見えない。

 真っ黒なカバーがかけられた机の上には、赤く縁取られた四角いランタンに『占』と書かれている。


 うわぁ、うさんくさいの。


 そう思ったら、お婆さんは空気を撫でるように手招きする。


「ちょっと、座ってみなさいな」


 朝陽は困った顔をした。占いなんかに興味はないし、お金を請求されたりしたら困る。「急いでいるのでまた今度」そう言おうとした時、占い師は言った。


「なぁに、お金なんていらんさ」


 まるで心を読まれたみたいで、朝陽は急に怖くなった。逃げようと思いながら、占い師の机の前まで来てしまった。


「さぁ、座って」


 朝陽は勢いよく首を振る。どうして自分は逃げないのかしら、まるで他人事みたいに思いながら、とりあえず抵抗してみる。


「私、お金なんてないんです」


 朝陽はやっとの思いで声にして、そして恥ずかしくなった。

 思ったよりもずいぶん小さくて、ざらついた金属みたいな声が出たから。

 自分の声じゃないみたいだった。大学が夏休みに入って、朝陽は誰とも喋っていないのだ。


「可哀想に。眠れないんだろう?栄養も摂れていないし、夜に閉じこもってばかりだ」


 朝陽はぎょっとして占い師を見た。

 彼女の目は不思議だった。紺色をした瞳の中心は黒いのに更にその奥、針の先くらいの大きさの点がわずかに赤いのだ。


 彼女の瞳に見入っていると、占い師は目をそらし、机の下から紫色の包みを出した。


「寝る前にこれを飲んでごらん。ぐっすりと眠れるさ。次に目を覚ますときには、ひとつ歳をとっているかもしれないよ。さあ。もちろんお代はいらない」


 ああ、このお婆さん、少し変なんだわ。


 朝陽はそう思って、とりあえず受け取ることにした。微笑むお婆さんから包みを受け取り、礼儀正しくお礼を言って逃げるように帰った。




 そそくさとコンビニに入り、猫のエサを買う。占い師に会わないよう違う道を通って公園に行き、猫にエサを与える。

 2回も遠回りをして歩き回り、わけのわからない緊張までして、朝陽はどっと疲れた。



 部屋に戻る前にポストを覗くと、ごちゃごちゃしたチラシと共に一通の封書が届いていた。


「今回は~ご期待に添えない結果となりました〜」


 部屋に入り、開けてもいない封書を投げて、朝陽は冗談みたいに言う。未だに声がざらついていて、情けない気分だった。

 冷蔵庫からお水を出して、喉を鳴らして飲んでやる。


「なによ」


 無性に腹が立った。自分を不採用にする会社にも、ふがいない自分にも、怒りが沸いた。

 だけどその瞬間、怒りが悲しみにすり替わった。


 もう、怒ることにすら疲れてしまった。

 エネルギー不足だ。


 大学に入学する時、父が買ってくれた大きな冷蔵庫にもたれて、朝陽は泣いた。

 なんで泣いているのかも分からない。

 ただ声を殺して泣きながら、ずるずると冷たい冷蔵庫の扉を滑って尻餅をついた。


「いたっ!」


 お尻に何かが当たった。

 そうだった。占い師がくれた変な包みを、デニムの後ろのポケットに入れたんだった。

 鼻をぐずぐず鳴らしながら、包みを取り出す。


「わぁ、きれい……」


 朝陽は思わず声をもらす。今度はざらついていない、滑らかな声だった。


 紫色の包みは和紙のような素材で、金色と銀色、そしてほんの少しの黒色を使って、たんぽぽに似た花の模様が描かれていた。あまりの美しさに、興味本位で包みを開けた。ドラッグとか、刃物とか、呪いの御札とか、そういうものが入っていたりして、そんなことを考えながら。


 でも、中身は小さな玉だった。


「黒飴かしら?」


 まるであの占い師の不思議な瞳みたいだった。

 ちょっぴり舐めてみると、驚いた。ほんのり甘くて酸味があり、煮詰めたブルーベリーのような芳醇な香りが鼻を抜ける。

 しかし、これを口にするのはなんとなく、はばかられたので、そっと包みに戻した。


 立ち上がって封書を開ける。


「ほらね、やっぱり」


 不採用通知だった。味気ない書体でつらつらと綴られた無意味な文章と、その薄っぺらな紙を投げて、ベッドに転がる。


 朝陽は紫色の包みを開けて、濃紺の玉を口に放り込んだ。


 もう、どうなってもいいや。

 どうせお腹壊すくらいでしょ。

 死ぬような薬でも、まぁ、それはそれでね。

 とか言って、何も起こらないもんなのよねぇ、つまんないの。


 だって、『ひとつ年をとっているかも』なんて言われたけど、明日が誕生日だもの。

 あの占い師、やっぱりインチキなんだわ。



 そんなことを考えながら、朝陽は静かに目を閉じた。さっき起きたばかりだというのに、今夜はなんだか眠れそうな気がした。

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