第31話 暗闇の車窓(1)
地下鉄内の車いすスペースは他の座席よりも広めに確保されており、付添の人間も向かいの席で一緒に座れるようになっていた。あまり顔を見られたくないハルトにとって、これは好都合だった。
「…………」
「…………」
昼の刻が近づくにつれて車両内は少しずつ騒がしくなってきているが、ハルトのいる車いすスペースには誰も近づいてこない。まさか死体が乗っているとは他の乗客も思ってもいないだろう。
とはいえ見つかったら大事になるのは間違いないので、ハルトは時折――主に乗務員が近づいているタイミングで、不自然にならないように口を開いた。
「僕、南に行くのは初めてなんだ」
「…………」
「トランおばあさんは元気になったらどこか行きたいところはある?」
「…………」
「……うん、そうだね。暖かくて広いところ。僕も行ってみたいな。東のほうにそういう地方があるんだって」
「…………」
「…………」
ただ、作り会話は長続きしない。相手からの返答がないので尚更だ。時折水を飲んだり、老女の手や首を少し動かしたり、寝たふりをして誤魔化していたが、夕の刻が近づいてくるにつれて乗務員からの視線が強くなっているようにも感じた。
(……どうしよう。僕の気のせいかな。……一旦降りたほうが……いやでも一本ずらしたってこの前の二の舞だ。だいたい『コモドの友人』の僕に降りる理由はないし……)
手足が震える。喉が渇き、暑くもないのに汗が出てくる。
(…………これ、もしかして薬の離脱症状……?)
ハルトが薬を飲んだのはアキラに別れを告げた前日の夜が最後だった。そのときに二錠飲んで、その前日も二錠飲んで……ずっと過剰摂取を続けてきたから、その反動が来ているのだろう。
(…………だめだ、……怖い。……早く着いてくれ……)
祈るように車両内の案内を見る。まだ15時、トファA2地区だ。あと半日は乗っていないとイファ地区には辿り着かない。何か不自然でない行動をしようと思い、立ち上がってトイレに行き、ついでに車内設備のパンを二つ確保する。戻ってパンをちぎり、少しは食べないとと言いながら一切れを老女の手の上に置いた。
「…………」
ハルトもパンを口の中に入れる。味なしパンとはよく言ったものだ。この世界で一番安いパンは、具材やジャムを用意することが前提の何の味もしないプレーンのパンである。ただ、今日はそれに輪をかけて味がしなかった。ほとんどを水で流し込んで、深く息を吐く。
「………………おばあさん」
「…………」
「少しだけ、僕の話をしてもいいかな。聞いてくれなくていいから……」
「…………」
「……自分の中だけで考えていると、怖くてどうにかなりそうなんだ……」
ハルトは窓の外に視線を向けた。暗い地下鉄の窓は、ただただハルトの顔を映し出すばかりで外の様子を何も教えてはくれない。
「僕の母さんは僕を産むためだけに山崎の家に嫁いできた若い人でね。……こう言っちゃうとちょっと角が立っちゃうんだけど、玉の輿狙いってやつだったんだ。もともと父さんは別の人と結婚していたんだけど、その人が子供ができない体質だったみたいで、どうしても跡取りが必要だったお祖母さまに言われて離婚することになったんだ。それで父さんが、せめて元奥さんに似た人をって選んだのが、僕の母さん」
「…………」
「母さんは僕を無事に産んで、これで後はお金持ちの医者の妻として母として将来安泰って思っていたらしいんだけど……。……お祖母さまがね、僕を東京の名門校に通わせて、T大やK大の医学部に入れるべきだって強く主張したんだ。もともと山崎の本家と分家はあまり仲がよくなくて、分家のほうの従兄がお受験ですごい小学校に入ったからそれで焦ったんだろうね。父さんは病院があるから名古屋を離れられなくて、結局母さんと僕の2人で東京で暮らすことになったんだ」
「…………」
「……順調だったのは本当に最初だけ。小学校の半ばくらいからかな。勉強についていけなくなったんだ。母さんはあちこちからいろんな勉強法や家庭教師を集めて試したんだけどどれもあまり効果がなくて。『テレビを見せているからダメだったんだ』『家でも勉強させていなかったからダメだったんだ』って、どんどん僕に勉強だけをするように言ってきた。僕も母さんの期待に応えたくて頑張った。……頑張ったんだよ。サボったつもりは一度もなかった。でも、ダメだったんだ、全部」
「…………」
「結局僕は医学部を諦めてとりあえず学歴で笑われない程度の大学に入った。でも山崎の家は医者の家系だから、医者になれなかった男と医者を育てられなかった女に居場所はない。結局母さんは離縁されて、僕も『これからは自由に生きなさい』って遠回しに勘当された」
「…………」
「……僕は、期待されて生まれてきたのに、期待通りにできなかったんだ」
――そう。期待通りにできなかった。放逐されて、ほぼ教授のコネで入った会社でも周囲の期待に応えられなかった。仕事はなんとなくできたけど、それよりも飲みの席でうまく話せなかったのが先輩や同期の反感を買ったみたいで一ヶ月経つ頃にはやんわりと遠ざけられるようになってた。気づけば居場所がどこにも、……いや、最初から居場所なんてなかったんだ。
「結局、死ぬときにまで人に迷惑をかけてしまった。……何の関係もない通行人を巻き込んで…………」
「…………」
「……でも、ね。おばあさん、僕はほんとうにひどい人間なんだ」
声を落とす。車窓に映る影が歪んでいる。雨だろうか。
「…………この期に及んで僕は、アキラに嫌われたくないって思ってるんだ。アキラから拒絶されるのが怖くて……本当に怖くて……だから……」
だから、逃げている。彼がもう二度と追いつけないところへと。自分がもう二度と苦しまなくていい未来へと。
「……最低なんだ。それはわかってるんだ。わかっているんだけど、だったらどうすればいいのか、わからないんだ……」
罪を償うべきだと思う。
罰を受けるべきだと思う。
だけどその方法がわからない。この世界の法では僕は裁かれない。
とにかくアキラをもうこれ以上苦しめたくない。悩ませたくない。だけど真実は伝えなければいけない。こんな最低の僕にも罪悪感だけはあったのだ。
迷った挙げ句のこの結果も、きっと間違っている。
だって、アキラにあんなに辛い顔をさせたのだから。
「……消えてしまいたいんだ」
「…………」
「僕という存在が、はじめから無かったなら。母さんも、父さんも、お祖母さまも、山崎の本家の人も、同僚たちも、アキラも、アキラの家族も、ジョコーソさんも、みんな、迷惑をかけずに済んだはずだから……」
「こんばんは。お話中失礼します。お隣よろしくて?」
不意打ちだった。ハルトが顔を上げると、白いワンピースを着た少女――アマービレが立っていた。
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