第11話 〈覚醒者〉とは(2)

俺がパルティトゥーラに来て、ハルトと暮らし始めてから半月――15日が過ぎた。

「えーと、中央の事務所があるのがヘファF4区、〈覚醒者リズベリオ〉検定所はそこより北西のE3区、俺たちが住んでるここがF2区で……き、機械的すぎないかこの地名……全然覚えられん……」

すっかりハルトの家に我が家同然に馴染んでしまった俺は、ソファに寝転がりながらパルティトゥーラの地図とにらめっこしていた。洗濯物を畳んでいたハルトが口を開く。

「慣れれば頭の中でその地名ならここから北のほうってすぐわかるようになるよ。どちらかというとパルティトゥーラの外の地名のほうが統一感がなくて難しいって思うかな、僕は」

「外の地名か……マコの村のことしか知らないや。そういえばマコって何なんだろ」

「マコはそのまま、綿って意味だったと思う。綿生産地だからそう名付けられたんじゃないかな」

「そのまんますぎる……いや、でも地名って本来そういう感じだよな……」

「そうだね。さて、服畳み終わったよ」

「サンキュ、仕舞ってくる!」

ハルトが畳んだ洗濯物を抱えて階段を登る。俺だってハルトに全部を丸投げしてサボってるわけじゃないのだ。ただ、畳むのはハルトのほうがきれいで、早かっただけで……。

二階の寝室には洋服タンスがあって、ハルトが買ってくれた俺の服もここに入れさせてもらっている。今の俺には収入がないから本当に何も返せるものがないのだけど……いつかはちゃんとお返しをしないとな、と日々痛感している。でも、どうしようか。

(俺ができる仕事……。一体何なんだろうな)

特別な知識も技能もない俺じゃ、専門知識が要る仕事は務まらない。だけどここに接客や飲食のバイトはないし(そもそも『パート・アルバイト』みたいな時短労働の概念すらないらしい)、通勤退勤ラッシュ時以外は人がいないから交通整理の仕事もない。できそうなのは今やってるパトロールの仕事以外だと宅送の仕事……だけど、宅送の仕事は地名が頭に入っていないと話にならない。そもそも〈覚醒者〉が宅送の仕事に就けるのかもわかっていない。

(やっぱりジョコーソに頼み込んで警備隊に雇ってもらうしかないのかな。あのゴージャスな制服は俺には似合わない気がするけど……。でも警備隊に入れば、マコの村の親たちに『ちゃんとやってるぞ』ってことだけは伝えられるかも)

勇士ハルトと一緒に働いてるんだぞと伝われば、あの母親も喜んでくれるかもしれない。……同じところに所属できるとは限らないけど。

コツン。

「?」

ふと、窓の外から何か音がした。コツン、パツン、パタン、パツン、何かが金属を叩いているような、リズミカルな音がする。

「何だ……?」

窓はシャッターが閉まっている。今は夕の刻。太陽はもう沈んでいるけれど、電気はまだかろうじて点いている時間だ。

パン、パタン、コツン、パタン、コツン、パタン、パタン、パツン。

「……雨か……?」

そういえばこの半月、雨が降ったことは一度もなかった。屋根かどこかに当たって反響しているのだろうか。

ほとんど無意識に窓に近づく。シャッターをほんの少しだけ開けて、窓の外の様子を窺おうとした。


〈 𝄐 〉


目が、あった。

最初は猫かと思った。暗闇で光る目。猫だろうと。でも、すぐに違うと気づいた。猫の目にしては大きすぎる。まるで、空全体に巨大な一つ目が、浮かんで、いる、ような――……。

「……がぼっ」

鼻から血が流れ、喉の奥から食べたものが逆流してくる。口を押さえようと思っても手が動かなくて、そのまま吐きながら床に倒れた。

「う、……あ……?」

動けない。全身が痺れる。何が起きているのかわからない。俺はただ、雨が降っているのかと、ほんの一瞬、窓の外を、夜空を。

――絶対に夜に外に出るな。夜の街を窓から見ようとするな。それはこの街で生きていくための最低限の決まりだ。

「ごぶ、ぼが、ごぼ」

夜に、外に出ては、いけない。

夜の街を、窓か、ら見て、はいけな、い。

何が起きているのかわからない。だけど、このまま死ぬということはわかった。

……助けて、……助けて、誰、誰か。ハルト、……はると、……。



…………。

……………………。


……文字が光っている。いや、光っているのは文字ではなくその背景のほうか。四角い板の中、文字がちらつく。

『早く帰ってきてよお兄ちゃんおなかすいた』

「宵のやつ……。ケーキ食べたいだけだろ、ったく……」

■はその文字を見てぼやきながら、少し笑う。指を板の上に滑らせる。

『今塾出たとこ』

■は「さ」の上に指を置く。すぐ帰ると打とうとして。

不意に上を向く。雨がぽつりと頬を濡らしたような、気がした――。



「ッ!?」

何か恐ろしいものを見た気がして跳ね起きた。何か、……何かを見た気がする。何を見たのかは思い出せないけれど、何か、重要な、でも決して見てはいけない何かを……。

「アキ、……ラ?」

「……ハルト?」

「……よ、よか、よかっ……!痛いところはない?気分が悪かったり、おかしくなったところはない!?」

「えっ、……えと、えっ……?」

いつになく取り乱しているハルトを見てかえって俺のほうが動揺してしまった。何?何があったんだ?

落ち着けと心の中で唱えながら周囲を観察する。明かりがついている。ということは朝か。俺はベッドの上にいて、ハルトはそのベッドの横に膝をついて何度もよかったと呟いている。何が起きたんだともう少し遠くを見て、思い出した。シャッターが閉じられた窓。その奥。

「……あ、……ごめん、俺、夜に窓の外を……見て……」

「ううん、言わなくていい。思い出さなくていいんだ」

「でも」

「思い出しちゃだめだ。思い出すとまた、引きずられる」

「引きずられる……?」

「…………」

ハルトは口ごもってしまった。何か言いたいことがあるけれどうまく言葉にできないようで、ハルトにしては本当に珍しく、視線がひどく泳いでいる。

「ハルト……?」

「……ごめん、ジョコーソさんを呼んでくるね……」

「あ、おい、ハルト……!」

立ち上がったハルトはこっちが心配になるくらいにふらふらだった。咄嗟に追いかけて支える。

「アキラ、まだ動いちゃ……」

「ハルトのほうがよっぽど具合悪そうだぞ。いいから掴まって。ゆっくり降りよう」

普段の何倍もの時間をかけてゆっくり階段を降りる。そのままハルトは外に出て行こうとするので、結局俺も追いかけて、二人で隣のジョコーソの家を訪ねることになった。



「だから言っただろうが」

ジョコーソは俺から事情を聞くと、深い溜息と共にそう言った。

「ごめん、……なさい」

「雨が降ろうが嵐が来ようが、絶対に、絶対に夜の街を見ちゃいけなかった」

「ごめんなさい……僕がもっとしっかりしていれば……」

「いや、ハルトのせいじゃないから……」

「……まあ、なんだかんだと説明を後回しにしていた俺のせいでもあるな」

ジョコーソはサングラスを外した。落ち窪んだ目が露わになる。片目は濁っているように見えた。

「この世界の夜は、説明し難いモノに支配されている。空の眼フィーネと呼ばれていて、見たら即死するもの、見つめ続けると発狂するもの……いろいろあるがお前が見たのは後者だろうな。生きてるんだから」

「…………なんでそんな恐ろしいものが?」

「わからんよ。研究しようと思って空を見たら死ぬしな。とにかく、俺たちにとって安全な時間は昼だけだ。この世界の人間は、生まれたときからそれが叩き込まれてる。好奇心で夜の空を見て死ぬなんて奴は右も左もわからねぇガキくらいだ。だが〈覚醒者〉は違う。お前らは夜空ってもんに忌避感がない。だからついうっかり見ちまうんだ」

「…………」

「しばらくは不意に気分が悪くなることがあるかもしれん。そういうときはその場にしゃがんでしばらく耐えろ。ただし夜が近いなら地下鉄の駅に駆け込め。ほんの一瞬外を見ただけならそのくらいで済むだろう」

「……わかった。……ありがとう」

「今日は仕事を休め。ハルト、もちろんお前もだ」

「…………わかったよ」

「それからハルトに話がある。アキラは先に戻ってろ」



アキラを帰し、ジョコーソの家にはジョコーソとハルトの二人が残された。

「……お前も見たんだな」

ハルトは無言で頷く。

「シャッターを、……これ以上外を見てはいけないと思って、閉めようとして」

「見ちまったか。まあ、お前も一瞬だけだったようでよかったよ」

「……でも、僕は」

「……忘れろ。何を見たとしても、それは今のお前には関係ないんだ」

「でも」

ハルトは祈るように両手を組んで俯く。ジョコーソはしばらくの間それを黙って見ていた。

「…………そう、ですね。僕は」

「…………」

「……僕は、勇士ハルト、ですから」

「元気出たか」

「……少しは」

「そうか。今朝の薬はもう飲んだか?まだなら早めに飲めよ」

「わかっています。……アキラが僕の傍にいる間は、僕は、彼を支えられる……彼の手本になれるような『先輩』でいたいですから」

ハルトは微笑んだ。ジョコーソはほんの少しだけ眉を顰める。

「そういうところだぞ、お前」

「何がですか?」

「自覚がねえのも考えもんだな」

「戻ります。アキラを1人にしておけないので」

ハルトは立ち上がり、一礼してジョコーソの家を去った。はあ、とジョコーソは溜息を吐く。

「……そこで自分がアキラの傍にいたいからって言えないのがダメなんだよ、お前さんはさ……」

見上げた先の時計は午前6時を指している。慌ただしい目覚めであった。

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