第8話 ジャンル判明(2)
その後、ハルトが戻って来る前に皿だけは洗っておかねばと気づき、俺はキッチンに立った。
蛇口を捻って(風呂に入ったときに気づいてはいたが、水道の仕組みは日本と同じようだ)顔を洗う。そうしたら少しだけ冷静になった。
ボーイズラブ。略してBL。
詳しくなくとも、オタクである以上最低限の意味は知っている。男と男の恋愛を主題としたジャンルだ。異世界転生モノでも確かアニメ化したやつがあったはず……。
「…………」
『異世界転生』が『異世界に転生した人間が主人公の作品』の総称であるように、『ボーイズラブ』は『男と男が恋愛する作品』の総称である。つまりそれは、『異世界転生BL』という二つを組み合わせたジャンルが存在することを意味する……。
「…………いや、それだったらなんで俺もっとイケメンじゃないんだよ!塩顔ならもうちょっとこう……星○源みたいな顔でもよかっただろ!?」
いや、違う。そんなことを嘆いている場合ではない。問題は、もし本当にここが異世界転生BLの世界で、俺が主人公だとしたら……俺の恋愛相手は、ほぼ確実にハルトになるということだ。
だってここまでで発生したイベントといえば年上と年下の女との出会い(しかもさくっと別れた)と、帰宅ラッシュに呑み込まれたときにハルトに助けられたことと、地下鉄でジョコーソに出会ったことくらいだ。フラグっぽいのがハルトの件しかない。
となると、つまり。これから恋愛関係に発展するかもしれない男とこれからひとつ屋根の下で暮らす、というわけで。ついでにさっき見た寝室のベッドは一つしかなかったわけで。
えっ、あれ、もしかしてエッチなやつだったら、もしかして今晩、もう……!?
「い、いやいやいやいやいやいやいやいや……!!」
首をぶんぶんぶんぶん振って否定する。いくらなんでもそんな、あんな王子様みたいな男が出会った初日に襲いかかってくるとかはありえない、ありえないはず……!待て、ひょっとして俺が襲う方なのか?いやでもそれなら俺のほうが体格良かったりするんじゃないかなとか、もっと相手が女子みたいに見える瞬間があるんじゃないかなとか、……あれ?ということはやっぱり俺が受け側……?挿れられるほう……?
「うわーっ!!こ、心の準備が!!!」
「ど、どうしたのアキラ、何かあった!?」
「……わーっ!!」
振り向くと/半裸のイケメンが/立っていた。……って一句詠んでる場合じゃない!字余ってるし!!
風呂上がりに俺の奇声を聞きつけて慌てて駆け下りてきたらしいハルトは腰にタオル一枚巻いただけの格好で、髪からも水がぽたぽたと垂れていた。さっきまでの俺なら「うわー、濡れててもツラがいい……」くらいで済んでいたと思うけど、今はなんかそれどころじゃない。目のやり場がなさすぎる。どこを見ればいいんだよ、どこ見てもハレンチだろこんなの!
「ア、アキラ……?一体……?」
「や、あの、なんでも、なんでもない!ちょっと手が滑って皿割りそうになってビビっただけ!!それより、服、服着てくれー!!!」
……。
「…………えっと」
「……落ち着いた?」
結局、途中かけになった皿洗いは服を着たハルトが引き継いでやってくれた。そのまま湯を沸かしてココアを淹れてくれて、俺はそれをソファの端に座って飲んでいる。ハルトが視界に入ると落ち着かなくなってしまうので、ハルトには同じソファの逆端に座ってもらった。でかいソファでよかった。一人暮らしの家になんでこんな、寝転がれそうなくらいでかいソファがあるのかは考えないことにする。
「…………ごめん……ちょっとその……前世の記憶がフラッシュバックしたというか……混乱して……うまく言えないんだけど……」
「……僕のせいかな、ごめん」
「いや、ハルトは何も悪くない……!」
そう、ハルトが悪いわけではない。これから始まるボーイズのラブの可能性に俺が動揺しすぎたのがいけないのだ。そうだ、フラグが折れてさえしまえば俺とハルトはここからでもバディで活躍する異世界転生おまわりさんに軌道修正できるはずだ。……いやでも刑事もののBLって……あるよな、当然あるよな……なんでもありらしいからな……。
「…………あの、本当にごめん……」
「元の記憶と今の記憶がぐちゃぐちゃになって混乱するのは、〈
……ああ、なるほど。確かにこんな風にこの世界に無いはずの知識を持ち出してパニックに陥る人間がいたら、普通なら頭か心の病を疑われるところだ。だから理解のある人間を傍に置いて対応させる。なるほど合理的なシステムだ。
「……制度化できるほど転生してくるやつが多いんだな」
「そうだね。国中から毎年数百人は来るみたいだよ。検定所で〈覚醒者〉ではないって判断される人もそれなりに居るみたいだけど」
「なんでそんなに多いんだろうな……」
「……ジョコーソさんが言ってた。そもそもどの世界にも平等に、魂は転生しているんだって。もちろん地球にも」
「…………」
「この世界の転生者が特別多く見えるなら、それは単に『見つける』『保護する』手段が充実しているだけだろうって」
「……確かにそうかも」
地球で……日本で、自分は別の世界から来たって主張したらどうなるか。良くて変人扱い、悪くて病院行きだろうか。いずれにせよロクなことにはならないだろう。自分は人とは何か違うと思ったまま地球人として生き続けている人だっているかもしれない。
「今、アキラの後見人は暫定的に僕になっているから間接的にジョコーソさんが面倒を見てくれると思う。この家にいる間は僕とジョコーソさん二人を、うーん……親戚だと思って頼ってくれていいよ」
「親戚……」
「近所のお兄さん、とかでもいいけどね」
まだハルトの顔を見れていないけど、笑っているのはわかる。なるべく俺を安心させようとして声をかけてくれているのも。
…………世界観がどうとかそういうのは一旦忘れよう。結局俺はしばらく生活の色々なことをハルトに頼るしかなくて、その間はどうしたって距離が近くなる。意識しすぎるとかえってハルトに迷惑がかかるだろう。
……それに俺だって、令和を生きる若者だったんだ。そういう、その、同性愛だ異性愛だって偏見を持つのがよくないことはわかってる。俺の気持ちと、ハルトの気持ち。それが重なるのか、道を分かつのか、今の時点でわかるわけがない。なるようにしかならない。
「……ありがとう、ハルト。俺が出会ったのがハルトでよかった」
だから、今の時点でわかっていることを口にした。
ハルトは間違いなく親切な男だ。ハルトがあのとき自分が身柄を預かると言わなければ俺は今夜こんな温かい家の中ではなく研究所の手術台の上にいたかもしれない。裏や下心がもしあったとしても、何も起きていないのにそれを疑うのは失礼だ。そんなことは起きてから考えればいい。……いや、貞操の危機は起きてからじゃ遅いかもしれないけど。
「…………僕なんかが」
「ん?」
「君の役に立てたのなら何よりだよ。……そろそろ寝ようか。飲み終わったならカップもらうよ。片付けておくから歯を磨いておいで」
「あ……もう21時過ぎてたんだな。わかった。歯ブラシって日本のと同じ?」
「同じだと思う。洗面所の棚に未開封のものがあるからそれを使ってくれる?」
「わかった」
空になったマグカップをハルトに渡して二階に上がる。ちら、と横目で見たハルトの顔は、なぜだかひどく寂しそうに見えた。
――ザァ、と蛇口から勢いよく零れ出した水がマグカップに瞬く間に溜まって、溢れて、底の方にわずかに残っていたココアを洗い流していく。
ハルトはしばらくの間それを見つめていた。
「……………………そんなわけはない、か」
呟いて、水を止める。スポンジを手にとってマグカップを隅々まで洗い上げていく。手と身体の動きに合わせて亜麻色の髪と濃茶の瞳が微かに揺れる。マグカップを水切りかごに置く頃には、ハルトはもう元の穏やかな表情を取り戻していた。階段を上りながら洗面所にいるアキラに声をかける。
「アキラ、よかったらベッドを使って。僕は一階のソファで寝るから――」
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