「良心の呵責」

 その国のある町には人魚葬というものがあるそうだ。

 それは水葬の種類のひとつであり、葬り方は人間の死後、腰から下を大きな白い布で巻き、足の爪先の布地に重りをつけて沈める、というものだ。

海に沈んでいく姿が人魚に見えることから人魚葬という名前がついたと言われている。


 人魚葬は誰でもできる訳ではない。

一年に一人だけその町で選ばれた人しかできないのだ。

選ばれるにはいくつか条件がある。罪を犯したことがないこと、清廉潔白であること、女性であること、などだ。

選ばれた理由は決して公表されることがない。

昔、私の母親が人魚葬に選ばれた。条件はその時に知らされた。


 毎年、気付いたら今年の人魚葬が取り決められていて、その度に学校や町で話題が持ち切りになる。


「今年は15歳くらいの人だってさ。」

「本当?若いのに可哀想…。」


そんな会話がそこかしこで聞こえる。


少し前までは、亡くなった方の功績などに応じて人魚葬の実行委員会が遺族に人魚葬にするかどうか確認し行っていたのだが、最近は亡くなる前に人魚葬を希望したい方が申請し、受理されたら行うこととなっている。


そんなざわめきを横に置いて私は今日、病院で検査があるため、学校を早退した。

脳に異常があるらしい。詳しくは親から聞かされていない。自分の体だというのに全く不思議なことだが。


病院で一人の患者とすれ違った。点滴スタンドを抱えていて、私よりも少し若いくらいの女性だ。

なんとなくその女性が噂の人魚葬に選ばれた人間であると直感が告げていた。

嬉しそうな雰囲気を纏っていたからだ。


私は定刻通り診察を受けた。結果は後日両親のもとへ届けられるらしい。またしても私が知ることはないのだろう。


帰り際、きらびやかな病室が目立った。”祝 人魚葬 決定”と書かれたプレートが下げられていて何号室か、誰が入っているのか分からない。


私は衝動的に入ってしまった。どんな人が人魚葬に選出されたのかあるいは応募したのか知りたくなったのだ。

果たしてそこにいたのは、15歳くらいの女性で、ニット帽をかぶった(おそらく彼女はがんを患い、抗がん剤の影響で脱毛しているのだろうか)人であった。


「こんにちは。」と私がいうと、

「こんにちは!」と元気よくその女性は返答した。


彼女のもとにはきっと多くの人間が人魚葬に選ばれたことを称えに来ているのかもしれない。

なるほど、生前に一大の催し事の主役に選ばれたら確かに最期としては悪くないかもしれない。

しかし何も話すことを決めていなかったため、間隙に沈黙が流れた。


「私、渡辺麻衣っていうの。あなたは?」

「私は・・・」


「麻衣!寝てなきゃダメじゃない! ...あらあなたは?」


母親らしき人が入って来た。


「いえ、部屋を間違えました。すみません。」


私は気まずくなり、嘘を吐いて病室を出た。


彼女は自ら人魚葬に応募したのだろうか。それとも親が勝手に娘の最期にと応募したのだろうか。まだ亡くなっていないということから実行委員会から声をかけたとは考えにくい。

私は彼女に興味を持ってしまった。幸いにも私が通院している病院に彼女はいるらしい。訪れる機会はいつでもあるだろう。


今年の人魚葬が行われるのは9月末とされている。つまりそれは彼女の余命であることと同義だ。今といえば7月に入ってすぐだった。残り2か月ほどの命。そんなこともあるのだろう。


私は通院のたび、彼女に会いに行くことにした。どうやら彼女の体調が悪い日以外は彼女に会うことが一般の人でも許されているらしい。(初めて会った時、病室に入れたのは偶然ではないようだ。)


「こんにちは。」

「こんにちは!また来たんだね。」


「そう。名前を伝え忘れたと思って。」

「そうだね。お名前、なんていうの?」


「私は遠藤優(すぐる)っていうんだ。」

「そうなんだ。いい名前だね。」


「ありがとう。私も麻衣っていい名前だと思う。」

「嬉しいな。でもよくある名前だからね。」


「そうかもね。でもこれは私の持論だけど、よくある名前ってのはいい名前だからよく使われているんだと思うんだ。」

「そうだね。」


面倒臭いこと言ってしまったなと思う。


「君、人魚葬に選ばれたんだよね?」

「君って呼ばないで。麻衣って呼んで。」


「ごめん。麻衣はさ、なんで人魚葬にしようと思ったの?」

「急に呼び捨ては驚いたなぁ。なんでそんなことを聞くの?」


「実は私の親が人魚葬だったんだ。人魚葬はさ、実行委員会こそ別だけど、葬式自体は税金で行われるから無駄だと批判されることもあったんだ。だから、それでも人魚葬を選んだ君のことを知りたくて。」

「やっぱり、最期は綺麗でいたいじゃん。火葬だったらきっとみんなは私の骨を見ることになっちゃうと思うんだ。知ってる?若くして死んだ人の骨ってすごく太いまんま残っちゃうんだって。そんなの家族に見せたくないなぁ。土葬だって誰かが私の墓を暴くかもしれない。私ってかわいいからね。なら水葬...は日本では禁止されているんだっけ。でも唯一許される人魚葬なら私の望みにきっと近いんだと思う。」


「人魚葬でもきっと君の遺体には海の生き物が張り付いたりして綺麗なまま残ることはないと思うよ。見えないだけで。」

「見えないなら、それでいいの。だって人は見えないだけで綺麗じゃないとこだらけでしょ?だからいいの。湖の奥底まで沈んだ私の体を見つけにくる人なんて絶対いないしね。」


 「そうだね。」

 「それに周りの批判なんてどうでもいいの。だってもう関係のなくなる人たちだし、というか今でも別に関係があるわけではないし。さらにというか、これからも生きられるだけ幸せなくせに批判してんじゃねーよと思う!」


「強いね。麻衣ちゃんは。」

「麻衣さんか、麻衣って呼んで。」

 

「麻衣。」

「はい。」

 

「病院から出られる日とかある?」

「...多分あるよ。」


「分かった。その日教えて。」

「いいよ。あ、お母さん。」


「この人、麻衣のお友達?」

「はい、遠藤優と申します。前もお邪魔させていただきました。」


「そうなの。また来てちょうだいね。今日みたいに麻衣の調子がいい日は麻衣も暇をしているし。」

「分かりました。また来ます。」


「ねえねえお母さん。優くんね、お母さんが人魚葬だったんだって。」

「あら。もしかしてあなた、遠藤悠子さんの息子さん?元議員さんの。」


「そうです。ご存知なんですね。」

「生前はお世話になりましたから。」


人魚葬に選ばれるくらいだからそうなんだよなと思う。


「また来ますね。」

「ええ。」



何日か経った。


いつも通り彼女のもとを訪れた。


彼女は机の上にメッセージカードを並べて、具に読んでいた。

私に視線はくれないが、彼女は私が入って来たことに気付いていた。


「これ毎年、学校と昔通ってたクラブの人たちからくれるんだけど、どうするか迷うんだよね。」

「入院している麻衣に向けての励ましのメッセージだよね。私にも覚えがある。

昔、入院してた時に同じようなものをもらってた。」


「捨てにくいよね。」

「捨ててるの?大切に取って置いたら?」

   

「溜まっていくばっかりだからね。これみて。この人、私が学校に通っていた時に私のことが嫌いだったんだけど、メッセージも無理やり書いているよ!毎年ネットで拾ったクイズを書いて文字数を稼いでいるんだもん。笑っちゃうよ。」


確かに長い年月入院していたのなら、溜まる一方であるし、読み飽きるのかもしれない。退院した後に、たまに引き出しから出して懐かしげに読み直すのとは訳が違うのだ。


「どんなメッセージカードだったら嬉しい?」

「なんだろう・・・、基本的にはどうであれ私に向けて書かれたメッセージだから嬉しいよ。”どんなメッセージ”か、難しいね。ひと通り色んな形のメッセージは貰ったし...。それにもう私には必要がないものだからね。」


私は彼女の言葉の意味を追究しないことにした。


「難しいね。」

「そうだね・・・。そういえば、でもラブレターだけは貰ったことがなかったな。

じゃあ、これを優くんへの宿題にします!」


「はぁ。」

「頑張ってね。来週、このまま外出できそうなんだ。ラブレターはその時に採点します!」


「分かった。」

「約束だよ。」


友達としてあるいは恋人として、距離が近い人同士がやるようなことを私がやるとは思わなかった。残り少ない余命を前に彼女は少し錯乱しているのだろうか。だがこれは私が始めたものなので、もう少し付き合うことにした。


これから死ぬ人に向けて書くラブレターだなんて、あらためて考えると残酷だ。そんなのはこれから何十年も生きていく人が、同じく生きていく人に向けて書くものだ。私は彼女が、短い人生でも生きててよかったと思えるような、ある種の慰みを与える文章を書けばよいのか。それともあとおよそ2か月の間に本当に彼女に恋をしてラブレターを書けばいいのか分からなかった。前者の方が、私には現実的であると思えた。



来週のその日が来た。


私はラブレターを2通用意した。1通は麻衣と過ごした時間のおかげで私も生きていく希望を持てたという旨のもの、もう1通はただのありきたりなラブレターだ。私はどちらかを今日の最後に渡そうと思っている。その時の雰囲気に合わせて渡すラブレターを変えるつもりだ。


私は、正午よりしばらく前に病室に行った。

もうすでにそこには出かける準備を終えた麻衣がいた。藍色のワンピースに、ベージュのサマーカーディガン、そして茶髪の医療用ウィッグ。


「やあ、こんにちは。」

「遅いよ。」


「時間どおりに来たつもりだけど…。」

「そうだけどー。私が準備している時にはすでに来てくれていなきゃダメ。」

 

「めちゃくちゃだな。」

「いいじゃん、別に。」


私はそれ以上言葉を紡がなかった。


「じゃあ、行こうか。」

「そうだね、行こう。デートに。」


彼女の一言でこのお出かけはデートになった。

彼女は近くの看護師に「行ってきます。」と言った。

今日の外出についてはあらかじめ許可を取っているのだろう。


私たちは病院を出た。よく晴れていて、天気が良い日であった。

暑いと思えば暑いし、適温だと思えば適温な気がした。汗だくなままクーラーの効いた書店や喫茶店に入れば、たちまち体調を崩しかねないといった様子だ。


「昼ご飯は食べた?」

「まだ。これから!」


「どこに行こう?というか何なら食べられる?」

「今のところは特にないかな~。なんでも食べられるよ。てかなにを言われたって食べるし。」


「分かった。じゃあ駅前のパンケーキ屋に行く?あそこ人気らしいよ。」

「あそこはいいや。私の”これ”が分かったとき、皆、入院中の私に持ってきてくれすぎて、飽きちゃったから。それよりも家系ラーメンとか興味あるな。」


「家系ラーメン?!あれは誰が食べても具合が悪くなるよ。」

「本当に?やっぱりそうなんだ。」


「じゃあ駅前の喫茶店に行こう。」

「そうだね。案外、そういうところの方が行ったことないかもしれない。」


「なら、決まりだね。」

「うん。」


案の定、駅前のパンケーキ屋は長蛇の列ができていた。

”すごいね・・・”とこぼしながら喫茶店まで歩いた。

建物としては少し古くレンガ造りで、三面の窓がついている。

店内に入り、二名であることを私は店員に示した。


「レトロな雰囲気だね。落ち着いてていいね。」

「そう。ならよかった。」


私たちは席に着いた。木造の丸テーブルと椅子。おそらくデザインを統一しているのだろう。店から香る木の匂いがさらに自分を落ち着かせる感じがした。


「ねえ、私たち普通のカップルに見えるかな?」

「見えると思うよ。」


私は否定しなかった。


「少なくとも余命幾ばくかの人が良く知らない人とデートをしているようには見えないと思う。」

「酷いなあ。知ってるもん。優くん。色素が薄い。神経質。優しい。持病がある。」


「薄いなあ。」

「まだまだ色々知ってるもん。逆に私のことは知ってるの?」


「麻衣...さん。明るい。優しい。持病を抱えている。変わったこと好き?...な人。」

「優くんも薄いじゃん。」


「...そして人魚葬に選ばれた人。」


近くの客のうち数人がこちらを見た。気持ちの悪い雰囲気を感じた。わざわざ嘲笑いにくる人がいるようなそんな雰囲気だ。


「そうだよ。」


少し気不味くなった。私は話をそらすことにした。」


「なに食べようか。」

「じゃあ私はケーキセットにしようかな。」


「どうしようかな。」

「じゃあ同じやつにしよ。私はブルーベリーで、優くんはストロベリーにしよ。」


「分かった、そうしよう。」

「じゃあ、決まりね。」


彼女は通りかかった店員にメニューを指差しながら注文した。


「楽しみだね。」

「そうだね...。ところで、これ似合ってるかな?」


髪のことだろうか。それとも服のことだろうか。はたまたそれ以外のことか。私はこんな時、選択を間違えてしまうのが常だった。


「よく似合っていると思うよ。」

「何が?」


結論を出さなければならない。


「その髪、良く似合っているよ。」

「ありがとう。初めは嫌だったけど、これになったおかげで却って色んな髪色にできるようになったからよかったと思ってるんだ。」


運よく正解だったようだ。


「初めて見たけどよく似合っているよ。」

「ありがとう。もういいって。」


そんな会話を繰りかえし、私たちは食事を終えた。


「次はどこに行きたい?。」

「翡翠湖に行きたい!」


翡翠湖、人形葬が行われる場所だ。


「なんで?」

「現地入りっていうのかな?なんというかあらかじめ見ておきたいじゃん。私の最期の場所なんだから。」


「確かにそうかもしれない。翡翠湖はとても綺麗な場所だ。そこに来る頃には君は...。」


そこまで言いかけて私はその言葉の先を話す勇気が無くて止めた。しかし彼女は続けた。


「死んでるもんね、私。」


「ごめんね。」

「別にもう決まってたことだし。優くんと会った時から。」


「...行こうか。」

「うん。」


私たちは翡翠湖行きの観光バスに乗った。この時期は夏ということもあり、観光客でバスはすし詰め状態だった。この熱気で彼女が体調を壊さないか不安だ。

数十分ほどバスに揺られた。目的地に近づくに連れて人工物が減り、車線が減り、人の気配がなくなる。誰が守っているのか分からない速度制限の看板を15個ほど数えたところで私は飽きて、彼女をほうを見た。存外、体調は見た様子では悪くなさそうだ。本当に今日は体調が落ち着いている日のようだ。だが、気は抜かないようにしようと思う。


”次の目的地は終点 翡翠湖、翡翠湖です。”とのメッセ―ジを聞き、彼女に小声で”もうすぐだね”と私は言った。彼女は頷いて私の手を握って来た。はぐれないようにということだろう。



翡翠湖はその名の通り、湖全体を翡翠の色がかかっていて、とてもよく澄んでいる。湖の中心に向けて桟橋が架かっており、そこからはイベントの度に遊覧船が出る(人魚葬のあとはどれくらいか期間を空ける決まりにはなっているが)。

今日は天気が良く湖の底まで見えそうだった。自分の母親の葬式が行われなければ、ここに数えきれないくらいの遺体(遺骨)が沈んでいるだなんて信じられそうにもなかった。


バスの中の観光客は皆、近くのアンテナショップに向かっていた。

私たちはそのまま桟橋のほうへ行った。桟橋の手前には遊覧船のチケットを売っているログハウスがある。


「綺麗だね、湖。」

「そうだね。」


私たちは神妙な顔で湖を眺めていた。

ここで彼女は私の母親のように沈むのか、とまだ生きている彼女を前に考えていた。

私たちは桟橋に足を踏み入れようとしたところ、看板が立っていることに気付いた。

”人魚葬 9月末ころ実施予定。”という文字が目に入った時点で私は気が滅入ってしまった。


「なんか今更だけど、嫌だね。このポスター。」

「そうだね。でもこのポスターは一つ嘘をついているよ。」


「どんな嘘?」

「私ね、9月末まで持たないみたいなんだ。」


息を呑んだ。私は何も言うことを思いつかなかった。

私たちは黙ったままそのまま桟橋の端に向かって歩いた。足元の木の板は古いようで、私たちが歩くと甲高い音で軋んだ。歩くたび、私の心臓まで軋んでいるような錯覚に陥った。


端まで着いた。

出来る限り湖の中心に届くように架けられた橋だ。湖を覗いてみる。

なるほど、ある程度の水深がある場所まで架けられているので、ここから遺体を沈めるのだろう。

この湖の底にはきっと私の母親もいるのだろう。そして、彼女もそう遠くないうちに沈むのだ。


「私の母親の葬式が行われた時も、今日のように天気が良くて、湖が澄んでいて、とても綺麗に見えたんだ。それこそ人魚みたいだった。」

「そうなんだ。私もそうなれるかな。」


「分からないよ。」

「そこは嘘でも”なれるよ”と言ってよ。」


彼女の死にあるのは、その葬式にあるのは、きっと”物体”としての美しさだけだ。目の前の彼女の生き物としての美しさは時期に永遠に失われるのだ。

私は失敗したと思った。私は彼女を綺麗だと思ってしまったと同時にそれを永遠に失う過酷さも手に入れてしまった。


なんで彼女は死ぬのだろうか。

科学的なところではなくて、もっと宗教的なところに私はその答えを求めたくなった。


私はその感情を察してほしくなくて湖の底を見つめたまま、話し続けた。


「ねえ、私は麻衣が死んだあと、どうやって生きていけばいいのかな。」

「私と出会う前の人生に戻るだけだよ。」


「でも出会ったよ。」

「そう。でも戻るだけだよ。」


「戻れないよ。」

「戻ってよ。」


「君は一体、どうしたいの?こんなとこまで私を連れ出したり、日常に戻ってって言ったりしてさ。私に君のことを忘れさせたいの!?覚えていてほしいの?!」


思わず私は声を荒げてしまった。


「覚えていて欲しいよ。でもそれが重荷になるようなら忘れて欲しいんだ。」


「忘れられないし、重荷になるよ。絶対。」

「そっか。」


彼女は笑った。私はこの一瞬だけなぜか普通のデートに来たカップルになったかのように感じた。


「死ぬのは怖くないの?」

「怖いに決まってるよ。死んだことだけはないから。」


「どうしたら怖くなくなるかな。」

「多分、これはどうしようもないと思うんだ。それにみんな同じことだしね。優くんもまだだけどいつか立ち向かわなくてはならなくなるんだよ。私はそれが人より早いだけ。」


「強いね、麻衣は。」

「そんなことないよ。優くんに話して、言葉にするまで本当はすごく怖かった。」


「ありがとう。言ってくれて。」

「こちらこそだよ。」


段々と遠くから喧騒が聞こえてくる。観光客が湖を観にこちらまで来ているようだった。でも、どうでもよかった。


彼女ではなくて、もし死ぬのが私だったらどうだろうと想像する。

少なくとも面倒臭いよく知らない持病からは解放される。受験勉強もしなくて良い。きっとこれから抱える不安はなくなる。


あらゆる問題が解決されるのだろう。(正確にはあらゆる問題が問題として私に降りかかることはなくなるのだろう。)

それはとても蠱惑的で魅力的に思えた。ただ死んでいないだけで生きているとも言えないこの17年間の人生の終わりとしてはそれでもいいと思えた。


もっと私は想像する。


私はこれから足を滑らした振りをして、彼女の前から消えて、落ちていく。きっと湖は想像しうる限り際限の翡翠色をしていて綺麗なのだろう。私は眠るように沈んでいく。やがて最後の息を吐き出して、五感を手放していく。何もなく感じなくなった頃、水底に着き、羊水に浸る赤子のように倒れる。今度は母体から呼吸を貰えることはない。そこで私の人生は終わりだ。


人魚葬だと重りを付けるが、それはあくまで沈むときに布と体が人魚のようにみせるためだ。そもそもここは淡水湖なので、重りなんて必要ないのだ。


私は死のうと思った。そしてどうせ死ぬので、今までやってみたかったけど、憚られてきたことをやることにした。


「麻衣。よく聞いて。」

「どうしたの?」


「私は麻衣のことが好きだ。」


空気が凍り付いた気がした。湖から感じる冷気が皮膚を突く感じがした。


「どういうこと?」


「そのままの意味だよ。」

「ああ、ラブレターのこと?直接、言ってくるとはやるねえ。」


確かにラブレターなんてものもあったなと今更のように思い出す。


「違うよ、本当に麻衣のことが好きなんだ。」

「いいって。書けなかったなら、書けなかったで大丈夫だから。」


書けなかったと言えばその通りかもしれない。今、好きになったのだから。


「麻衣は私のことをどう思う?」

「えっ?急に言われても。」


「教えて欲しい、時間がないんだ。私にも、麻衣にも。」

「...嫌じゃないよ。優くんは。」


「じゃあ、キスしてもいい?」

「それは違うよ~。まだ恥ずかしい。」


「そうか、でも良かった。私は麻衣を好きで、麻衣も私を好きで。」

「恥ずかしいことを言うね、君。」


「いくらでも言うよ。よかった。」


私はそう言って抱きしめた。


「びっくりしたあ。」


彼女は小声で呟いた。


遠くの観光客は私たちの様子を見物しているのか、こちら側に来そうにはなかった。これは私にとってはチャンスだった。


「麻衣。ありがとう。」


彼女が恥ずかしがってそらした目をこちらに向けると同時に、私は気を失った振りをして背中から湖に飛び込んだ。


水の音がずっとしていた。水面を叩く音。泡の音。静かな水の音。

陽光が湖を透過して目に差し込んだ。体が沈むに連れ、視線は光源を外れ暗くなっていく。それは小学生の頃の学級発表会の劇で強烈なスポットライトに目を眩ませ上手く役をできないまま暗転した時のことを私に思い出させた。


思ったより最後の息を吐き出すのは早かったようで、私は魂が抜けるように呼吸を手放した。


意識が失われそうになった時、誰かに顔から足まで満遍なく全身を触られた気がした。そこで意識は途切れた。






それから私が最初に見た光景は、麻衣がウィッグもなにも外れた状態で必死な顔をして私の顔を見ていた様子だ。

私は眠りから覚めた瞬間の様に思考がまとまらず、ぼんやりとしていた。数刻前に死のうとしていたことなど忘れていた。


”おい、目が覚めたぞ”という声が聞こえてくる。起き掛けに目の前の指の数を確認させられた。


「あんた、足を滑らせて落ちたんだぞ!大丈夫か!?」


と眼鏡をかけた40代ほどの白髪交じりの男性に声をかけられた。


”そうか、足を滑らせたのか”と思った直後、私は死のうとしていたことを思い出す。

生きていることを不思議に思ったが、頭からつま先までを濡らしている彼女を見て、私は彼女に助けられたのだと悟った。

彼女は泣いていた。私を見つめて、涙を溢していた。とうに子どもの泣き方ではなかった。


「馬鹿。」と彼女は言った。


私はその通りだなと思った。


度々、湖で服を濡らしてしまう人がいるようで、運よくログハウスには乾燥機があった。私たちは一室と着替えを借りて、髪と服が乾くまで三角座りで待っていた。


「足を滑らせるだなんて、馬鹿だね。」

「本当にそうだ。」


この分だと私が死のうとしたとは思われていなさそうだ。


「意外とすごくドジなんだね、優くんは。」

「そうだね。恥ずかしいな。」


「ねえ。」

「なに?」


「優くん、死のうとしたでしょ?」


悟られていた。

さて、どう言い訳をしようか。どんな理由であっても彼女を怒らせてしまうのは予想できた。


「うん。」

「なんで?」


「そのほうが楽な気がしたから。」

「それはきっと楽じゃないよ。別に私は幽霊とか、あの世とか信じていないけど、それはきっと優くんが後悔する方法なんだと思う。死んだあとのこととかじゃないけど、後悔する方法で死んだら、楽になんかなれないよ。」


私が黙っていた。沈黙が彼女の言葉を促した。


「それに、死んでほしくないんだ。君には。」

「なんで?」


「君が死んだら、私が死んだあと後悔しそうだから。」

「どういうことだよ。」


私は笑った。


「私ね、人魚葬楽しみなんだ。」

「死んだあとのことなのに?」


「そう。死んだあとのことなのに楽しみなんだ。きっと綺麗なんだろうなあ。」


彼女は遠くを見て微笑んだ。


「ねえ、花火がしたいな。」

「分かった。花火をしよう。」


「あそこの公園に行きたい。病院の近くの丘にあるんだけど、今まで行ったことなかったんだ。いつも窓から眺めてて行きたいと思ってたんだ。」


私たちは身だしなみを整えて、店主の老夫婦に感謝を告げ、ログハウスを出た。


同じ道を戻り、バスに乗っていると、心地よい微睡み襲われた。数分ほど眠りに落ちてしまったようだ。私は夢の中であることを思い出した。子どものころ、母の人魚葬が決まった時、家に届いた文書の一部に書かれていたこと。


”人魚葬はかつてここの罪人の処刑に使われていた。

重りで沈められていくにもかかわらず、じたばた足掻いてもがく様が遠くからは人魚のように見えたから、人魚葬と名付けられたのだ。”


でも、そんなことは彼女が知る必要はないのだ。


「優くん、着いたよ。」

「ああ、うん。」


またも寝ぼけ頭でバス代を清算した。

日が暮れかけていた。花火には丁度良い時間帯なのかもしれない。近くのコンビニに寄り、手ごろな花火セットを購入し、公園に向かった。

思えば、長く歩かせたり、冷たい湖の中に入らせたり、そんなことをしている場合じゃないのに、彼女には酷い目にあわせてばかりだった。


公園の椅子に腰かけ、私たちは日が暮れるまで話していた。


「今更だけど、私が湖の中に落ちた時、誰が助けてくれたんだろう。」

「え、私だよ。」


「観光客の誰かじゃないの?」

「失礼だね、命の恩人に。泳げるよ私だって。昔、水泳のクラブに入っていたんだもん。」


「そうなんだ…。その、ありがとう。」

「どういたしまして。もうあんなことしちゃだめだよ。」


「分かってるよ。」

「なら、よろしい。じゃあ、日も暮れてきたし、花火をしよう。」


一つずつ手持ち花火に火を点けていく。とてつもない勢いで火薬は燃え、緑色から赤色に花火の色が変わる。黄色の花火が散っていく。辺りは鼻の奥を突く独特な火薬の匂いに包まれる。夏にだけ漂う花火の匂いだ。一つずつ使用済みのバケツに入れられていく。それは私と彼女の残り時間のように感じられて、何を喋ろうとしても言葉に詰まった。


線香花火に手をかけた彼女が言う。


「ねえ、最後まで残っていたら勝ちね。」

「分かった。勝負しよう。」


線香花火はしばしば人生に例えられる。

私はそれに火を点けた。


蕾。


「夏って感じがするね。」

「うん。」


牡丹。


「まだまだこれからだよ。」

「そうだね。」


松葉。


「綺麗だね。」

「私もそう思う。」


柳。


「ここからが勝負だよ。」

「まだまだ大丈夫だよ。」


散り菊。


「私みたいだね。」

「違うよ。麻衣は生きてる。」


「そっか。」

「そうだよ。」


「ねえ、今日すごく楽しかったよ。本当にありがとう。」

「そう思ってくれたのなら、私も嬉しい。」


「また、火を点けて。」

「分かった。ああ、あとラブレターのことなんだけど、湖の中に全部落としちゃった。ごめん。」


「大丈夫だよ。ラブレターよりも結果的に気持ちは伝わったから。」

「よかった。」


最後の線香花火が落ちた頃、ひんやりとした夜で辺りが濡れていた。


「そろそろ帰らなきゃだね。」

「うん。送るよ。」


私たちは心地よい夜と沈黙を共有して病院まで歩いた。


「おやすみなさい。麻衣。」

「おやすみなさい。優くん。気を付けて帰るんだよ。」



私は手を振った。



結論から言うと、それから私と彼女が最期まで会うことはなかった。


冷たい水の中を泳がせてしまったことが彼女の病状にとって最後の一押しになったのか、今となっては分からない。


人魚葬は予定通り予定より早く行われた。

私はもっとも近い位置にいることを許された。


見物人が息を呑んで見守る中、彼女の遺体が運ばれてくる。

その体の腰から下は大きな白い布で巻かれており、それだけで美しい人魚のように見えた。


式は執り行われ、別れの挨拶の後、静かに彼女の体は湖の中へ手放された。



――湖を泳いだ彼女は本当に美しかった。きっと彼女の望みは叶えられたのだろう。


【完】


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