短編集

加賀美 龍彦

「傘忘症」

朝、家を出る時に傘を忘れた。

その時は雨が降っていなかったからだ。

帰りの時間に降った雨が傘を思い出させた。

傘がない。今日はもうこれから雨は止まない。

既に本降りだ、雨宿りは必要ない。

いっそ、篠突く雨粒全てに当たるよう歩こう。

ここには、余分な傘はない。

仕方ない。


一歩、踏み出すと雨が当たる。

数秒かけて体に染み込んでいく。

打たれ始めはなんてことないと思うが、徐々に頭先から顔に流れる水が存在感を増す。


髪が束ね萎れる。服がほんの少し重くなるが、雨がそれを鈍感にする。

目的地がある。

そこでシャワーを浴びて、拭けばいい。

気にするに値しない。


なんで傘を忘れたんだろう。

家から出る瞬間だけは、いつも通り晴れの日の想定をしてしまったのだろうか?

いや、ニュースで天気を見たし、親の忠告もあった。

忘れるわけがない。


堂々巡りの思考が、雨足を遠くさせた。


もし雨に打たれても、

風邪を引かなければ良い、

服をすぐ乾かせれば良い、

なんの問題もない。


傘なんて気休めだ。

そう思うことにした。


目の前を相合傘のカップルが歩いていた。



雨だ。


小学校付近の公園によく描かれる恋人相合傘の落書きの擬人化みたいなものが歩いていた。


コンビニに置いた傘はよく盗まれるが、諦められる。

私が目の前の落書きどもの傘を奪う。


何が違うのか。

奪おうと思う。

だけど、思うだけだ。


幸せなやつらの強さを私はよく知っている。

彼らは正当なんだ。


早足で通り過ぎる。

彼らの足元にある水溜りのそれが、彼らに跳ね返っていることを祈って。


歩く。体温が少し下がる。

段々、雨に慣れる。

寧ろ雨を浴びることによって自分が清かになれた気がし始める。


何も育てないコンクリートに降る恵の雨、せめて私を育ててくれたら良いのに。


傘が一本、路地裏を覗ける位置にあるバス停の沓石にあった。

もちろん壊れているし、私はここまでそれなしで来たのだから使わないだろう。


その様に共感はする、理解はしない。

バスは待たない。

こんな姿だとシートを濡らしてしまうだろう。

だから乗ることはできない。


歩く。


ポケットの中の携帯が気になるが、防水機能付きだから大丈夫だろう。


たまに建物の中にいる人たちから無遠慮な視線を浴びせられる。


普段、空気な私がまるで主人公になった気分だ。

心地いい、悪くない。


歩く。


歩く。


雨を飲む。


歩く。


履き慣れたスニーカーが味噌汁の中の油揚げのように水分を含む。


歩く。もう少しで着くだろう。


歩く。水溜りを踏み抜く。足元の雨空が揺れる。


家に着く。


今日もまた私は生き延びた。


いつから私は傘を忘れるようになったのだろう。


いや、正確にいえばいつから"傘を忘れること"を意識せざるを得なくなったのだろう。


単に成長したからだろうか、

それとも周りに存在する雨に打たれない幸せな奴らが目に入るようになったからだろうか。


明日も私は傘を忘れるかもしれない。


【完】


------------------------------------------------------------------------------------------------


(説明)

・巷での流行病、傘忘症

・認知症の一種

・性格が変わってしまう

・梅雨入りから罹患する人が多くなる

・治らない

・年々悪化していく

・声の音程を取れなくなる

・目が少し良くなる

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る