第4話 知の集合がもたらすものは

 緊急会議終了後には、医学部の根元教授、工学部の木村教授、そして薬学部の安西講師の3名から正式に共同研究の申し込みがあった。こうして異分野の研究者が集まり構成された研究チームが正式に発足し、謎の生物と向き合うことになった。

 

 さらに、木村教授と根元教授のその後の行動は驚くほど迅速だった。すぐさま各学部の関係部署に直接出向き、研究の重要性と予算の必要性について説いて回った。両教授の熱心な働きかけが功を奏し、今回の研究で必要となる消耗品や解析費用、施設使用料については分野横断型の基礎研究予算を充当することとし、4つの学部で協力体制を構築することで話はまとまった。


 具体的な方針さえ決まってしまえば、その後の対応は早いものだ。

 早速、薬学部へ行くと、安西先生から薬浴液に添加する抗真菌剤を受け取った。同様の薬剤を練り込んだ塗り薬の軟膏も調剤してもらえたので、実験室に戻ってくるなり念のため鍵付き保管庫の中に入れて施錠する。

 そして、根元先生、安西先生の2人とは、実際の薬浴方法についての最終調整を行った。

 

 検疫室の脇にある実験室へ場所を変え、清浄な空気が供給される畳0.5畳ほどのクリーンボックス内に設置されたステンレス製の台の上で薬浴液を準備する。滅菌した大きな広口ビンの容器に抗真菌剤を薬用量の下限ぎりぎりに溶かし込んだ動物細胞用の培養液をたっぷりと入れ、もはや全体の9割近くが不透明化領域と化した物体を注意深く浸漬した。万が一のことを考えて、溶存酸素量調整装置を起動させておくと、溶液中の酸素濃度が安定していることを確認し、現在の酸素濃度を実験ノートに書き込んでおく。

 木村教授からは予備も含め、2種類のプローブを受け取っていた。1つは、測定感度の高いプローブで、可能な限り微量の代謝産物でも検出できるように、測定可能な限界値を小数点以下2ケタ台まで引き下げられる高感度タイプ。もう1つは、測定感度は低いが、幅広い測定レンジで測定可能な一般タイプである。元気な生物の活発な代謝を測定する場合には、一般タイプのプローブの方が測定には適している。

 どちらのプローブを使うか少し迷ってから、借りてきた高感度測定用プローブの方を袋から取り出し、先端部をアルコール綿で拭いてから薬浴液にそっと差し込んだ。測定用プローブにつながるポータブル測定用試作機の電源を入れ、動物モードで測定するようにセットした後で、生物の入った容器には蓋をした。

 測定画面をよく見ると、代謝産物の放出量自体は全体に淡い青色を示しており、木村教授の解析結果の時と比べても、この生物の代謝レベルがさらに低下していることを示していた。しばらくの間観察を続けて、測定値そのものが安定した数値として測定されていることを確認してから、実験ノートに数値と生物の状態を記録する。

 とりあえずは、急性の副作用を示すような急激な数値の変化が起こらないことに安堵し、胸を撫で下ろした。


 予定していた作業を終えて顔を上げ、壁に掛けられた時計を見る。時計の針は18時を少し過ぎたところだった。急いで根元教授の研究室を訪ねると、あらかじめ採材しておいた真菌サンプルを渡して、培養と解析を依頼した。可能性は低いが、万が一の事態に備えて、この真菌による人間への病原性についても注意しておく必要がある。

 ひと段落ついた所で、自分のお腹が減っていることに気が付いたので、学内の自販機コーナーで購入したカップラーメンのフタをあけてお湯を注ぐと、まだ少し硬めの麺を胃の中に流し込んだ。

 その後は、木村教授から送られてきた簡易解析の結果をもう一度よく確認する。似たような生物の報告例がないかどうか、論文検索サイトを使ってひとしきり調べてみたが、類似の報告はどこにも見当たらなかった。治療報告のような文献があれば参考にしたかったのだが。どうやら我々の研究チームは、これまで誰も経験したことのないような事例に遭遇してしまったようだ。

 

 私は謎の生物の状態をもう一度確認するために、クリーンボックスが設置された実験室へ向かうと、電気をつけ、明るくなった室内の様子を伺う。薬浴液の入った溶液の中で、謎の生物は、静かに容器の底に沈んでいた。代謝レベルを確認しても、数時間前の測定値と大きな変化はない。可もなく不可もなく、小康状態といったところか。

 今日一日の目まぐるしい変化を振り返り、肉体的な疲労を感じた私は、生物学部棟にある大学の宿直室で少し仮眠をとることにした。

 この宿直室は、今でこそあまり利用されていないが、以前は農学部が飼育するウシや豚の出産に立ち会うために、教員や技術員によって頻繁に利用されていた。ところが、昨今の国により緊縮財政の影響は、経営陣による大学内の不採算部署への予算削減という名目を取りながら、徐々に教育や研究に不可欠な人員や各施設の維持費の削減にまで及んでいた。少しずつ「大学」という組織の運営規模自体が切り取られ、縮小される事態が進行していた。この宿直室も、いずれ廃止されることになるのだろう。


 仮眠を取ろうと寝袋にもぐり込んだはいいが、頭の中には、謎の生物にまつわるこれまでの出来事が次からと次へと浮かんでくる。体は疲れているにも関わらず、気持ちが興奮してしまい、なかなか寝つけなかったが、うつらうつらしているうちに次第に意識は薄れていった。気が付いた時には窓からみえる空は薄く白み、まだ薄暗くはあったが、すでに早朝といわれる時間帯になっていた。体は思いの他疲れていたのだろう。私はいつの間にか、寝てしまっていた。


 宿直室を出て、まだひと気のない、静まり返った校舎内を早足で歩くと、急いで実験室へと移動した。昨日から薬液に浸漬してあった物体を観察しようとして、私は言葉を失った。そこには、昨晩まで全体が不透明化領域に覆いつくされそうになっていた物体と同じものとは思えないほどに、全体の半分程度までを半透明化領域として急速に回復させた球体が薬浴液の中に存在していた。急いでポータブル測定機の画面を見ると、半透明部分に一致して淡い赤色の領域が拡大してきている様子が確認された。これは、代謝活動もまた、回復してきたことを示す「良い兆候」として捉えることができた。

 私はそっと胸を撫でおろし、容器の中の謎の生物を再びじっくりと眺めた。

「コポコポ、ゴボリ、ゴボリ」と半分半透明の球体から出された大小の気泡がくるくると回りながら水面に向かって吸い込まれていった。

 昨日は気が付かなかったが、半透明の球体は、培地の中でゆらりゆらりと左右にかすかに揺れながら、容器の底に球体の一部を接着させているようだ。そんなこともできるのか。だけど相変わらず、目や鼻、口といった器官は見当たらない。この生物の体は一体どのように維持されているのだろうか。

 私は深く息を吸い、深呼吸をして気持ちを少し落ち着かせてから、回復の兆しをみせる生物の写真を撮影し、現在の計測値を記録した。

 

 古くなった薬浴液は、時間と共に有効成分の消費や分解により効果が薄れてしまう。1日に1度、新しい薬浴液を作って交換する必要があった。私は新しい薬浴液を作り、あらかじめ滅菌しておいた容器にたっぷりと流し込み、薬浴の準備を整えた。古い薬液に浸かっている生物は、すくい網を使って慎重に容器の底から引きはがし、水面の上へと持ち上げてから、新しい薬浴液の入った容器に移す。半透明化した領域が室内の明かりに照らされて、キラキラと光を反射しながら再び底の方へとゆっくり沈んでいった。ポータブル測定器が動物モードであることを確認し、新しい容器の横に設置すると、空気中の余計な浮遊物が混入しないように、注意深く容器の蓋を閉めて交換作業は完了した。

 薬浴液に交換した直後の状態について詳細な記録を残しておこうと思い、少し考えてから、容器の底に沈む球体の全体像を撮影できる位置にビデオカメラをセットして録画を開始しておいた。さらに、角度を変えた位置から何枚か写真を撮影し、その画像データを持って1階の実験室をでると、3階にある自分の居室へと戻るために階段を駆け上った。


 居室に戻った私は、薬浴治療を開始してからおよそ16時間が経過した現在の状況を簡単にまとめた結果について非公開会議システムを使って3人の先生に報告した。


 根元教授からはすぐに反応があった。

「思いのほか、効果がありそうですね。おおむね順調と考えて良いのではないでしょうか」

 T大学医学部付属病院の皮膚科外来には、一次診療施設から紹介された大勢の難治性皮膚疾患の患者が根元教授の診察を待っている。その状況を考えれば、根元教授が今回の共同研究に費やす貴重な時間を実りあるものにしなければならない。


「これなら、塗り薬を使わなくても完全に回復まで持っていかれるかもしれませんね」

 未知の生物に薬剤を使用することで、何か予期せぬ副作用が生じるのではないか、と気をもんでいた安西先生も、少し嬉しそうな声で答えた。

 安西先生には、中学2年生になる娘さんがいると聞いている。学内の懇親会でたまたま隣り合わせになった際に話した内容が、ふと思い出された。離婚を経験して以降、女手ひとつで子育てをするようになった安西先生は、アレルギー体質である娘さんの体について絶えず心配する必要があったので、薬物の副作用とか、食べ物の添加物だとか、そういったことには特に敏感になっちゃうのよね、といってビール片手に困ったように笑っていた。薬剤に添加する添加剤に関する研究も、少しでも副作用を減らしたい、そんな想いから始めたんだ、と話していた。


「森野先生、この代謝産物の放出量の増加傾向を見る限り、これはとても順調だと私も思う。ただ、これまでの経験から、全身状態の急速な悪化から多臓器不全で死亡する直前には、一時的な代謝量の増加が生じることが分かっている。あとは腫瘍細胞などの異常な細胞が無秩序に増加するような増殖性病変の際にも代謝産物量の増加が生じる場合もあるので、やはり今後も注意深く経過を観察する必要があると思う。しかし今の所は回復の兆し、と考えてよさそうだね。これは今後の経過がとても楽しみだ」

 木村教授は心から楽しんでいるような、明るく弾んだ声で答えてくれた。この先生の場を動かすエネルギーには、いつも感心させられる。

 木村教授は、今でこそ工学部の教授だが、もともとは医学部在学中に研究者への道を志すことを心に決めたという。6年制の医学部を修了後、多くの同級生が医師の国家資格取得を目指す中、周囲の反対を押し切る形で1人だけ医師国家試験を受験せずに、工学部へ編入する道を選ぶという、かなり異色の経歴をもつ人物だった。だが、今ではそれが功を奏している。医学の知識と工学のものづくりの技術を併せ持つ木村教授は、幅広い分野の課題解決に道筋をつけてきた実績が評価されて、若くして工学部の教授に就任した。面倒見の良い好人物で、裏表のない明るい人柄だったこともあり、今では国内外を問わず生物系から工学系の研究者まで、多くの分野の研究者から頼りにされていた。

 だから今回も、分野横断型で対応する必要があると判断するとすぐさま他の先生との緊急会議を提案し、そのセッティングにまで気を回してくれた。こういうとき、広い見識をもつ先生が味方についてくれていると本当に心強い。私は、最初に相談したのが木村教授で本当に良かった、と心の底から込み上げてくる尊敬の感情を胸に刻み込むと、膝の上の拳を握りしめた。


 根元教授は、私が依頼した真菌の解析には1週間程度を要するが、結果がでたらすぐに報告する、と云い置いて、医学部の教授会に参加するためにひと足早く会議システムから退室していった。

 謎の生物の代謝状況が変化した際には、状況に応じて柔軟に対応すること、球体全体が半透明化するまでは、ひき続き現在の方法で薬浴を続ける、という方針でその場の意見は一致した。


 会議を終え、1階の実験室へ向かうために廊下を歩いていると、学生室の前で私を探す3名の学生に出くわした。

 私の研究室では、自身の居室や実験室の他に、廊下を挟んだ反対側の区画に「学生室」を設けていた。生物学部の学生は3年次になると、卒業研究を行うために各研究室に配属される。そこで各自がそれぞれ興味ある研究テーマに取り組むことになっていた。学生室には、研究室に配属された学生たちのためにスチール製の机が5台ほど置かれており、実験結果のとりまとめや、自主学習を行うためのスペースとして使われていた。

 どうやら、午前中の授業へ向かう前に昨日の出来事がどうなったのか、経過を聞きたくて研究室に立ち寄ったらしい。学生たちは私の姿をみつけると、すぐに周囲を取り囲んだ。

「先生、昨日の変な物体の調査はあれからどうなりましたか?」

「何かわかりましたか?」

「家に帰ってから、自分で確かにつまずいたはずなのに、あれは夢だったんじゃないかと思えてきました。自ら体験したはずのことなのに、何だか信じられなくなりました。もう一度よくあの物体をこの目で確認したいのですが、駄目でしょうか」


 好奇心の塊と化した学生たちからは口々に疑問が投げかけられる。普段の授業でもこのくらい積極的に質問にきてほしいものだ、と思いつつも、私は彼らをなだめなければならなかった。

「あの物体については、現在解析を進めている最中だ。1つはっきりしていることは、カビ、いわゆる真菌に感染していることが分かった。人にも感染するかもしれないから、今は君たち学生を調査に関わらせることはできない。人間に対する実害がないことが確認できて、安全性が担保できる状態になったら必ず声をかけるから、その時は一緒に観察をしよう。正直なところ、今後どうなるのかは、私にも予想がつかない。だが今は、学内の先生方と協力して解析を進めている。もう少し、我慢して待っていてくれないだろうか。どちらにしろ、結果がでたら、研究室の皆にも説明するから」

 教員である建前上は、少し厳しい顔をしながら安全面への懸念と判断材料が不足している現状についての説明を行った。しかし、学生たちが自ら行動しないではいられない程に、何なのかよくわからない未知のものに対する好奇心や興味を抱いてくれたことを思えば、素直に嬉しく思う。

 それぞれに残念そうな顔をしながら、「安全性が確認できたら絶対に教えてほしい、自分たちにも何か手伝わせてほしい」、と云い置いて授業へ向かう学生たちのうしろ姿を私は感慨深い想いを胸に抱きながら見送った。


 その日の夕方になると、謎の生物の体は7割程度まで半透明化が進んだ。順調な経過に安心した私は、途中のコンビニで買った好物のカルビ焼肉弁当と緑茶のペットボトルの入ったビニール袋を片手に下げながら、上機嫌で大学近くに借りてある家賃6万円の自宅アパートへと帰還した。思えばこの時の私は、あまりに順調すぎる経過ゆえに注意を怠り、完全に油断をしていたことに後で気がつくことになる。


 1日ぶりにたっぶりと睡眠をとった翌朝は、すがすがしい気持ちでいつもより早く家を出て、2時間ほど早く大学へと到着した。

 朝一番で新しい薬浴液に交換しなければ、と少し足早に実験室へと向かった。ところが実験室へ入るなり、それまで順調だった生物の状態がすでに一変していることは、容器の中の生物を見ればすぐに分かった。

 昨日まで順調に拡大していた半透明化領域は減少し、再び不透明化した領域がまだら状に拡大・侵食していたのだ。その割合は見事なまでに逆転していた。しかも、新たに広がった不透明化領域は全体にひどく黒ずんだ色をしており、これまでに経験したことのない状態変化がおこっているであろうことは、すぐに予想がついた。

 代謝状況を確認すると、すでに赤色を示す領域は失われ、大半が淡い青色を示している。これは、ほぼ代謝が止まっている状態に近い。

 私が設置したビデオカメラには、昨晩の深夜から朝方にかけて急速に黒ずんでいく生物の姿が録画されていた。突然起こった急速な変化に、心が押し潰されそうになる。

 容器の底に沈むどす黒い球体は、私の目から見ても、もはや生きているようには見えなかった。しかし、今はとにかく新しい薬浴液を調製して黒ずんだ生物を沈め、その後で対応策を考える必要がある。


 あの時のことを思い出すと、今でも胃の深いところがキリキリと痛み、不安と焦りの混ざり合った感情が体中にふつふつと湧き上がってくる。


 あの日、それまで順調かと思われていた謎の生物の状態が悪化したことで、現在の治療方法には暗雲が立ち込めていた。

 その日は午前中の2限目から60分間の生物学の授業が予定されていたが、私にとって今のこの状況は緊急事態以外のなにものでもなかった。

 生物学の授業は、もともと生物学部の古木教授と交代で担当していたから、日程の変更について急遽相談を持ちかけると、幸いにも来月に学外で野外調査を予定していた古木教授にとっても都合の良い話であったらしい。その月の私の授業日を全て古木教授と交代する代わりに、翌月の授業は全て私が担当することで話はついた。


 そして今、早朝にもかかわらず、私からの緊急通報を受けて集まった3名の先生が謎の生物の入った容器の周囲を取り囲み、黒ずんで底に沈んでいる生物の身に起きた変化について、考えを巡らせていた。

 やがて木村教授が動き出し、ポータブル測定機を使って、この10分間に動物モードで測定した代謝産物の累積濃度を示す。昨日まで拡大していた赤い領域は消え失せ、かわりに淡い青色の領域が広がっていた。しかし、木村教授は動揺することなく、植物モードでも撮影したものを示した。すると、減少する半透明の領域の中に、わずかだが小さな赤色の点状の領域が、まばらに散在していた。

「大丈夫、この生物はまだ生きていると私は思う。しかも、ごくわずかではあるが、ところどころに植物的な代謝が活発な点状か所が観察できる。現在は昨日観察されたような活発な動物的代謝能は損なわれてはいるが、一部の細胞は植物的代謝を行うことで、この危機的状況を乗り越えようとしているのではないだろうか?この薬浴により治療方針を基本とすることが間違ってはいないことの表れではないかな」

 重苦しかったその場の雰囲気が少し軽くなった。


 根元教授がスライドガラスを手に取ると、検査の準備に取りかかった。

「それではこの黒ずんだ部位を取って顕微鏡で観察しよう。おっと、培養用に採材もしておかなくてはいけないね」

 根元教授自らが、謎の生物の表面から黒ずんだ部位を採取して顕微鏡で観察している。

 顕微鏡を見ながら、根元教授が私に向かって話す。

「森野先生は『混合感染』という言葉を聞いたことはありますか?今、この顕微鏡では黒色色素をもつ真菌が観察されます。病変部が黒ずんでいるのは、この真菌由来の色素の影響によるものでしょう。原因は不明だが、この生物に感染していた真菌は1種類ではなかった、という可能性が強く考えられますね。この生物を発見した当初は白いうぶ毛状に見える真菌が増殖していた。こちらを仮に『白色真菌』と呼びましょう。今は、この黒くなっている部位で黒色色素をもつ真菌が優位に増殖して、病変部が黒くなっている。こちらの真菌は便宜的に『黒色真菌』と呼びますね。この個体は、その白色真菌と黒色真菌に混合感染していたものと考えられます。病変形成は、感染した病原体の量や宿主の状態によって大きく影響を受けます。2種類の真菌の間でも生存競争がありますから、当初は白色真菌の方が増殖できるような環境だったのでしょう。だが、薬浴が開始されて、その環境は激変した。おそらく薬浴液に添加した抗真菌剤に対する感受性は、2種類の真菌間で違いがあるのだと思います。今回の薬剤が効果的に作用した白色真菌の増殖は抑制された。だが、白色真菌がいなくなることで、この薬剤が効かない黒色真菌の増殖を許す状況になったのではないかと推測します。今使用している抗真菌剤に加えて、もう1種類の新たな抗真菌薬を添加することを提案します」

 しかしこれには安西先生が反対の意を唱えた。

「その方法では、生体への影響が強すぎると思います」

 根元教授が安西先生をしっかりと見据えながら云う。

「しかし一刻も早く病原体の増殖を止めるためには、今使用している真菌剤も維持しつつ、もう1種類の黒色真菌に有効な薬剤を加えて増殖の勢いを止めないと、このままではこの個体の生存は絶望的な状況に陥ってしまう」

 大西先生は持ってきていた薬用量辞典を開くと、根元教授が使用を予定している抗真菌剤のページをひとしきり調べた後で、少し考えると、本から目を上げずに云った。

「宿主細胞への影響を最小限にするためには、薬用量を小児に使用される一般的な濃度の半分量に抑えて用いるのであればあるいは」

 しかし根元教授にはこれまでの経験もあるのだろう。その鋭い視線を大西先生に向けたまま話を続ける。

「それではこの増殖スピードには対応できない。もう少し薬用量を増やせないかね」

 大西先生が少し悩んでいるとみるや、木村教授が割り込んだ。

「大西先生の危惧している抗真菌剤の個体への影響を最小限にして、根元先生が求める真菌増殖抑制効果を最大限発揮させるためには、温熱療法を組み合わせてみてはどうだろう。根元先生、昨年の学会でも発表されていましたよね」

 根元教授は驚いたように木村教授の顔をみてから、納得したように云った。

「先生、よくご存じですね。確かに温熱療法を試す価値はあるかと思います。温熱療法を併用することで、大西先生のいう抗真菌剤の薬用量でも十分な効果が期待できます」

 根元教授と目線を合わせると、大西先生も大きく頷いた。

 根元教授と大西先生の納得する方法を引き出した後で、木村教授は私の方を向いて話し始めた。

「森野先生、この生物を神社の境内で見つけた時は、日光に当たっているようにみえた、と云っていたね」

「はい。木々に囲まれた神社の境内の中で、社殿の床下など暗い場所ではなく、木漏れ日ではありますが日当たりの良い場所にいた、ともいえると思います」

「あとはこの生物が温熱療法にどの程度耐えられるかどうかが問題だが、根元先生の実績を参考に、温熱の持続時間を連続ではなく、間欠的にして様子をみようじゃないか。他にもやれることは全てやっておきたい。森野先生、今この生物は植物的な代謝の方が勝っている。培養液の組成を代謝の状態に合わせて少し変えてあげることはできるだろうか」

「そうですね。植物細胞用の組成に少し近づけることはできると思います。もちろん、動物細胞がいつでも代謝できるような環境も保持したいので、その原料となる成分は維持します」

「植物と動物細胞の両方がうまく活動できる状況を作る、ということになるね」

「はい。この生物の細胞は、おそらく状況に応じて両者の代謝様式を使い分けているようにみえます。ですから、どちらの代謝様式に転んでも利用できるように、代謝に必要な成分を10種類ほど追加で添加したいのです」

 木村教授が根元教授と大西先生の2人に向かって問う。

「薬浴液に用いる溶媒の組成を少し変えたいが、薬剤の活性とその持続時間は変化するだろうか」

 根元教授と大西先生は顔を見合わせると、大西先生が代表して答えた。

「はい、森野先生が加えたい成分を予想すると、薬剤がその有効性を保てる時間は約1/4にまで減ることになると予想されます」

 私の対応を促すように木村教授がこちらを向いている。

「それでは、薬用液を交換する頻度を上げることで、常に新鮮な薬剤成分と栄養分にさらす状態を維持したいと思います。私が大学に泊まり込んで対応します」

 3名の先生方は、新しく2種類の抗真菌剤と10種類の栄養成分を追加した薬浴液の作製を手伝ってくれた。

 私は、実験室の奥から取り出してきた加熱用撹拌機の上に薬浴液の入った容器を載せ、液体の温度が2時間おきに30分間、間欠的に40℃になるように設定を行った。最後に容器の中に木村教授が高感度用プローブをセットしたことを見届けてから、先生方はそれぞれの研究室へと戻って行った。


 私はその日から、クリーンルームが設置された実験室の隣にある部屋の中に寝袋を持ち込むと、昼も夜もなく、約2時間おきに薬浴液の交換を継続して実施した。

 その調合と方法を変えた薬浴による効果は、すぐに表れ始めた。新しい薬浴液による治療を始めてから12時間ほどで黒ずみはすっかり消え、5日目を過ぎた頃になると、全体のほぼ9割程度まで半透明に回復した球体が、薬浴液の中ほどに浮かんでいた。


 その間、3名の先生は授業や実習、会議の合間をぬうように、時間が許す限り実験室を訪れては、謎の生物の様子をみていった。

 なかでも大学病院で多数の外来患者を抱え、最も忙しいはずの根元教授の訪問回数は群を抜いて多かった。

「どうやら危機は脱したようだね。様子はどうだい?」

 代謝状況が改善したため、高感度用プローブから一般用プローブに変えてセットする私を見て、根元教授がにこやかな顔で私に向かって笑いかけながら、実験室の入り口から中へと入ってきた。

「こんな夜遅くまでご苦労様です、根元先生。ぜひもっと近くで見てやって下さい。おかげ様で大部分の領域を半透明化することに成功しました。順調だと思います。ただ不思議なことに半透明化が進んだことによる影響なのか、薬浴液に浸漬しても底まで沈むことはなくなりました。今はこうして、液体の中央付近に浮かんでいることが多くなっています」

 不透明な領域が多かった時には、すくい網ですくった時に、どっしりとした質感を手に感じ取ることができていたのだが、治療によって半透明化が進めば進むほど、その質感は軽いものへと変化していった。そして今ではもう、容器の底まで沈む姿を見ることはできなくなっていた。

 容器をのぞき込むと、根元教授は謎の生物を眺めながら珍しく感傷的な言葉を口にした。

「こうして見ていると、なんとも不思議で、そして見ているだけで癒される生物だとは思いませんか。クラゲよりももっと透明で透き通っている」


 それまでは同じ大学に所属していても学部が違うし、根元教授と直接仕事をする機会にはなかなか恵まれないでいた。医学部では有名な先生だったから、私の方は現在の職位に就任した当初から顔だけは知っていたのだが、根元教授が私の存在を認識したのはいつ頃だったのだろうか。ふと、そんなことを思いながら、根元教授の横に並び立ち、容器の中の生物を眺める。このとき、教授の背が自分よりも低いことに初めて気付いた。そんなことも知らなかったんだよな、と頭の中で苦笑しながら、素朴な疑問を投げかける。

「先生がとてもご多忙なこともよく承知しています。先日も先生がこの実験室にいる間、事務部長の大黒さんが根元教授を探し回って大騒ぎになっていました。それでもなぜ、こんなにもこの生物のことを気にかけて下さるのですか?」

「そうですね。この生物が生きて代謝をしていると思うだけで、様々な疑問が次々と湧いてきてしまう。ここ最近、休憩時間など空いた時間には必ずといっていいほど、ふと気が付くとこの生物のことを考えてしまうので、少々困っています。そして私は研究者ですが、病気を治療する臨床家でもある。だから、どんな生物であれ、やはり患者の病気が治癒していく様子を見るのが好きなのです。病気が治って元気になっていく様子をみるのは何度見ても良いものです。普段から生き物を相手にしている森野先生も、そうは思いませんか?」

 そして、根元教授は眉を寄せ、声をひそめるようにして続けた。

「事務仕事はね、あまり得意な方ではないし、いや大黒さんには不備のある書類を修正するたびにずいぶんお世話になっているからなあ」

 意外だった。私の中の根元教授はいつも厳格なイメージで、大学の組織構造の中では雲の上の人、何でもこなせるスーパーマン、感情を仕事に一切持ち込まない冷徹な人物、などと、勝手な枠に当てはめて考えていたのだ。その夜の会話以降、根元教授だって人間なんだなあ、と今までよりもその存在をごく身近に感じられるようになった。

 また別の日には、居室に戻った私が扉を開けようとドアノブに手を伸ばすと、そこには、「わらびもちベーカリー」と印字されたビニール袋が引っ掛けてあった。触ってみるとまだほんのりと温かい。中をのぞくと、白い紙に包まれたカレーパンが4つ入っていた。学生たちに聞いても誰が置いて行ったのか分からなかったものの、カレーのスパイスのあまりに香ばしい匂いに負けてしまい、4つのカレーパンは学生と私のお腹の中に納められたのだった。それから数日が経過した頃、根元教授とは実験室で会った。その日も謎の生物を眺めていた根元教授から「カレーパン」の感想を聞かれたことで、やっとカレーパンの贈り主が誰であったのかが判明したのであった。

 その日、お気に入りのベーカリーで「好物のカレーパン」をたくさん購入した根元教授は、どうやら私の研究室にもおすそ分けを持ってきてくれたらしい。私がたまたま席を離れており、根元教授も急いで医学部へ戻らねばならなかったがために、カレーパンの入ったビニール袋は送り主不明のまま、急遽ドアノブに引っ掛けられたのだった。


 実験室には、2度の状態悪化を乗り越え、回復しつつある謎の生物が入った薬浴容器が置かれている。すっかり日常となった謎の生物がいる風景を眺めながら思う。私1人の力でこの生物をここまでの状態に回復させることは到底できなかったであろう。3名の先生と共同で事に当たってきたことが、事態を収拾させる良い方向へと相乗効果的に働いたことは動かしようのない事実である。 

 けれども今回の一連の出来事を通じ、思いがけず根元教授の人間味あふれる側面にふれ、教授の大好物であるカレーパンの味を知ることができたことも、私にとっての「思わぬ収穫」だったのかもしれない。

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