第5話 その生物の和名は「おばけ」

 私が大学での泊まり込みを開始してから7回目の夜を迎えた。数分前に新しく交換したばかりの薬浴液の入った容器の中をのぞけば、全体が透き通るように半透明となった球体の生物が、水面にぷかぷかと浮かんでいる様子を観察することができる。

 木村教授の提案で、回復期の生物の代謝状況を逐一把握できるように動物モードと植物モードの両方の測定方式を使って、日々の計測を続けている。

 数日前に病状が急激に悪化したことなど、まるで幻だったのではないかと思えるくらい、その急激で目覚ましい回復ぶりは、活発な代謝産物の放出量にも表れていた。もはや高感度タイプのプローブでは値が振り切れて測定不能になってしまうので、今は幅広い範囲で測定が可能な一般型プローブに切り替えて測定を行っている。現在の病状は安定していたし、悪化の兆候を示す所見は、もはやどこにも認められなかった。

 根元教授からは、いわゆる「白色真菌と黒色真菌」の分離培養の結果について報告を受けていた。

 根元教授は真菌から遺伝子を抽出して既存の真菌データベースに一致するものがあるかどうかを試してみたらしい。真菌にしかない遺伝子配列をもつので、真菌であることには間違いがないのだが、どの種類の何という真菌であるのかまではつきとめられなかった、という話であった。それはすなわち、新種の真菌である可能性が高く、一致する該当データがどこにも登録されていないということでもある。

 さらに不思議なことは、これらの真菌を単独で培養することは可能であっても、哺乳類や鳥類の細胞が産生する代謝産物と一緒に培養を行うことで、真菌の方が死滅する奇妙な現象が生じるという。一般的な真菌であれば、むしろ増殖が促進するというから、今回分離された2種類の真菌は、一般的な真菌とは相反あいはんする性質を持っているようであった。

 根元教授は、哺乳類や鳥類の細胞から産生された何らかの物質が、これらの真菌の生存や増殖を阻害している可能性があると考えており、これら2種類の真菌が謎の生物以外の我々人間のような生物には病原性を示すことはないだろう、と付け加えた。 

 現状では「謎の生物に真菌感染症をひきおこす新種の真菌」ということまでしか明らかになってはいないが、この真菌の性質を新しい治療法に応用できるかもしれない、おかげで良いアイディアを思いついたよ、と云って、根元教授は私に検査報告書を手渡してくれた。


 さらに5日が経過した頃、実験室で事件が起こった。

 その日の昼休みに私が実験室へいくと、薬浴容器の中に謎の生物が見当たらない。どんなに目をこらしてみても、容器の中には半透明の球体を見つけることができなかった。あわてて部屋中の引き出しという引き出しの中まで全て開けて周辺を探し回ったが見つからず、体力を消耗した私は一旦小休止して、ふと窓の外に目をやった。窓から差し込む日の光に目を細め、視線を室内に戻そうとする最中さなかに、を見つけた。窓際に設置された机の上に無造作に置かれた生物学辞典の革表紙の上に、はいた。ほぼ「透明」に近い状態に変化した体は、よほど注意深く観察しなければ見逃してしまうだろう。窓辺から差し込む光に照らされて、ゆらめくかげろうのように不明瞭なうすぼんやりとした球体。周囲との境界線はかろうじて確認できる程度で、すぐに消えてしまいそうな儚い存在感をかもし出していた。

 一体どうやって薬浴液の入った容器の外に出たのだろうか。あの容器には確かにフタがしてあったはずだ。外からフタを開けるか、容器を割らない限り、外へ出ることは不可能なはずだ。

 しかし何より、薬浴容器の外に出てしまった謎の生物が、半透明どころか、ほぼ透明な状態に変化していることの方が驚きだった。それを見た私はあわてて3名の先生に連絡をした。この生物が、いついなくなってもおかしくはないと思ったからだ。

 安西先生と根元教授は学生実習中で不在だったが、木村教授とはすぐに連絡がついた。

 木村教授は、私からの話を聞いて電話を切るとすぐに工学部を出たらしく、10分後には興奮した様子で実験室に駆け込んできた。

「森野先生、例の生物はどこにいる?」

 私が指を指した方向を確認すると、木村教授が12インチほどの液晶ディスプレイと黒い円盤状をした機器を持ってきたバッグの中から取り出した。

「これはね、特殊な波長の照明機器だ。植物の光合成による代謝によって放出されたエネルギーを可視化できる。あの生物が『透明』になった状態のときは、植物的代謝を活発に行っていることが多い。この照明機器で照らせば、透明な生物の姿がディスプレイ画面に映し出せるはずだ」

 私が円盤状の機器を持って、設置する予定の位置に立ち、木村教授がその位置を調整する。

「森野先生、もう少し右の方へ置いて。あ、行き過ぎだ。半歩左だな。その円盤状の中心部の出っ張った部分を引っ張ってアンテナを伸ばしたら、測定対象のいる方向へ向けてくれるか。まだ感度が悪いから対象物から半径0.5メートル以内の範囲しか検出できないのだが、これで、どうだ」

 測定機器の設置が完了したようなので、急いで木村教授の方へ駆け寄ると、液晶ディスプレイを横からのぞき込む。

 木村教授は、設定画面からいくつかの項目を選択した後で、画像表示を選択すると、そこには濃い赤色の球体がはっきりと映し出されていた。

「やってみるもんだな。けっこうきれいに可視化できているじゃないか」

 木村教授は嬉しそうに云って、肉眼で見る実物のうすぼんやりした生物と、画面上にくっきりと表示された赤色の球体として現れた生物の画像を見比べている。

「例の食虫植物を使ってずいぶんと検討しているが、本物の植物の方はまだ、これほどうまい具合に可視化できていない。だからこれはとても興味深い結果だね」

 木村教授はポケットからメモ帳を取り出すと、現在の可視化条件を箇条書きにしながら、ふと思いついたように云った。

「森野先生、これ、メガネ型の液晶ディスプレイに映し出すようにしたら使い勝手がもっと良くなるかな」

「そうですね。メガネ型にすることで、やはり両手が自由に使えて、リアルタイムで観察できるようになりますから。今後、もしこの生物が完全に透明化するような事態がおこったとしても、探すときには役立ちそうですよね」

「なるほど。では早速メガネ型タイプも用意することにしようか」

 全ての条件を書き終えたのか、木村教授はメモ帳を閉じてポケットにしまうと云った。

「そういえば昨日、結晶解析の結果が出て、荻野先生がまとめていたようだから、検査センターから森野先生の所にそろそろ結果が届くはずだよ。楽しみにしているといい」


 その後、実験室の中で木村教授と私は頭を悩ませていた。生物学辞典の上にいる透明に近い生物の代謝産物の測定をどうするのか。

 薬浴容器のような容器の中にいる状態でないと、大気中に放出された代謝産物がすぐに希釈されてしまうので、可視化はできても、正しい値として測定することが難しいためである。

 私は、まずはこの生物を工学部に設置された試作2号機の所まで運んで測定しようと考えていた。そして、ほぼ透明状態になった生物に触れようとしたのだが、これはすぐに断念せざるを得なかった。

 なぜなら、からだ。

 そのうすぼんやりとした透明な生物に向かって手を伸ばしてはみたものの、何にも触れることは出来ないままに、伸ばした自身の手は、そのままその生物をすり抜けてしまった。現実に存在しているという「質感」がまるで感じられない。しかしながら、この生物は現在、生物学辞典の革表紙の上に確かにいる。そこで、生物学辞典ごと持ち上げてみると、革表紙の上に体の一部をくっつけているのか、今度は一緒に持ち上げることができた。逆さまにしてもくっついたままである。以前、薬浴容器の底にも接着していたことがあったので、そういう性質をもつ生物なんだろう。


 生物本体に触れることはできないが、生物学辞典の革表紙にはくっついているので、生物学辞典を持って移動すれば、その生物もおのずと移動することになる。ところが木村教授は、窓辺で日の光を浴びる生物の現在の状態(はた目には日向ぼっこをしているようにも見える)を維持したまま、代謝状況を測定しなければ意味がない、と私に伝えた。

 それからが力仕事であった。

 アクリル板で作られた簡易測定箱を工学部から生物学部へと運び、机の上の生物学辞典ごと、生物全体を覆うようにかぶせたのだ。

「この状態で箱の中の代謝産物を測定しよう」

 木村教授がポータブル測定機を測定箱の横に設置した後で、条件を少しずつ変えながら測定を開始したので、私は出てくる測定値を記録しながら、謎の生物のほぼ透明化した姿に目を奪われていた。

 これは自分にも経験があることだが、研究者というものは、興味ある出来事に夢中になると、寝食を忘れて取り組み、周りが一切見えなくなってしまう、ということもしばしば起こる。

 だからこの時も、教授と私は、木村教授の研究室の秘書である前田さんが怖い顔をして実験室の入り口に立っていることに、すぐには気付くことができなかった。

「先生、木村先生!」

 大きな声がして、顔を真っ赤にした前田さんが大股でつかつかと木村教授の方へと歩み寄ってきた。

「おお、前田さんじゃないか。悪い悪い。ちょっと今立て込んでいたものだから。気が付かなかったよ。ここまで駆けつけて来てくれるなんて珍しいね。何か急用かい?」

「私、出版社の方から泣きつかれました。先生に執筆依頼をした原稿の閉め切りは1か月も前に過ぎているのに、未だ先生から原稿を頂けていないそうです。他の先生方の原稿は揃っていて、原稿が未提出なのは、もう先生だけなんですよ。明日中に何としても原稿を頂きたい、と電話口で何度も念を押されたので、こちらも何度も謝っておきました。一体どうなっているのですか」

 木村教授は、作業の手を一旦止めると、少しの間、何かを思い出そうと考えている様子だった。

 だが、なおも前田さんの陳情は止まらない。

「この際だから言わせてもらいます。木村先生は大らかだし、懐の深い先生でうらやましい、と他の研究室の秘書さんからは云われます。でも私から言わせてもらえば、いつもいつも、書類の提出期限は守らないし、何か急に思い立って実験器具を教授室に持ち込んだと思ったら、やりっぱなし、散らかしっぱなしで机の上がいつも本当に汚ないんです。この間だって、私は、重要な書類の提出締め切りの期限を前もって先生にお知らせしました。パソコンのキーボードの上にもお知らせメモを貼っておいたのに。先生は『わかった』、ておっしゃったのに、今日だってくだんの出版社から催促の電話が何回も何回もかかってきて、それなのに先生はいらっしゃらないし、担当の方は困っていらっしゃるし。大体、先生はズボラすぎるんです。私、きちっとしていないのが嫌なんです。わたし、わたし、ちょっともう、本当に耐えられそうにありません」

 見開いた両目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ち、前田さんはポケットから出したハンカチで、目頭を押さえるようにして涙を拭いた。

「申し訳なかった。夢中になるとつい周りが見えなくなってしまって、悪い癖だなあ。今回は本当に私が悪かったよ。許してほしい」

「先生、今回は、じゃありません。今回、です。」

 ハンカチで涙を拭きながら、強い口調で前田さんが怒っている。

「わかった、わかったよ。もう明日からはきちんとするから。前田さんには本当に感謝しかない。ほら、あれだ。あまりにも君がいつも私に親切にしてくれるもんだから、私も少し頼りすぎてしまった所があったかもしれないね。おわびにほら、今度、君の大好物のあんこのついたお団子を買ってくるから。今日の所は勘弁してくれないか。だけど今はちょっと手が離せないから、明日中に原稿は必ず提出するから」

 木村教授になだめるように云われて、前田さんも少し落ち着きを取り戻したようだった。

 確かに、木村教授は普段から多くの仕事を抱えているし、とにかく研究最優先で自由に行動する豪快な性格だから、そんな研究者を相手にする秘書さんはいろいろと大変だよなぁ、と私は心の中で思いながら苦笑した。


 場の雰囲気が少し落ち着こうとしていたその時、木村教授の「あっ」という叫び声がして、私が謎の生物の方を振り返ると、その驚きの光景が目に飛び込んできた。


 この時、謎の生物は生物学辞典の表紙の上を離れ、空中に浮かんでいた。

 その場にいた前田さんも教授も私も、皆驚きのあまり、天井付近を浮遊するぼんやりと透明な生物をただただ下から見つめていた。

 空中を浮遊する生物はやがて、ふわふわと漂いながら、前田さんの方へと飛んでいき、左肩の上にふわっと乗ったかと思うと、その色合いが淡い萌黄色の半透明な球体へと変化した。

「あっ、ちょっと先生、何ですかこれ。私の肩に変な物が。いやー、気持ち悪い。取って下さい」

「前田さん、ちょっと落ち着いて。そのまま動かないで、その場に立っていてくれるか」

「森野君、見たか。信じられない。この生物はアクリル板の測定箱を通り抜けて空中に浮遊して飛んだのだよ。」

 目を輝かせて嬉しそうに話す木村教授の横で、前田さんがその生物から少しでも顔を遠ざけようと身をよじっている。

「木村先生、色が、あの生物の色が淡い黄色に、また変化しました。」

「一体、何がどうなっているんだ。」


「先生、何だかハーブのような良い香りがします。それにこれ、半透明で、すごくきれいですね。何だかわからないけれど、よく見るとかわいいような、少し気持ちが落ちついてきたような、そんな気がします」

 前田さんは、すっかり落ち着きを取り戻し、左肩の生物を右手の人差し指で軽くつついている。

「さわれるのですか?」

 私は思わず聞いた。

「ええ、何だかふわふわした羽毛のような触り心地がします。」

 木村教授と私は、思わず顔を見合わせた。

「状態変化を起こしているんだ」

 木村教授がどんな変化も見逃すまいと、変化する生物を凝視しながらつぶやいた。


 前田さんはまるで飼い猫の頭でもなでるかのように右手で左肩のそれをなでていたが、その生物の色が再び萌黄色に変化したかと思うと、やがて前田さんの肩から離れて再び空中へと浮かび上がった。そして、ふわふわと浮遊しながら、もといた生物学辞典の革表紙の上へ着地すると、再び、うすぼんやりとした透明色に変化した。


「これまで取得したデータと今日取ったデータをよく見直して、少し頭を整理したい。また明日時間を見つけて来るようにする」

 そう云うと、木村教授はすっかり機嫌が直って不思議な体験に興奮冷めやらぬ様子の前田さんと共に、工学部へと戻っていった。


 翌日の夕方、昨日の現象を見逃した2名の先生が、校内でたまたま出会った木村教授から自慢話を聞かされた、と云って、業務を終えた後に急いで実験室を訪ねてきた。

 根元教授と安西先生の2人は、昨日おこった驚きの出来事を私が話すのをじっと聞きながらも、2人の目線は、話の主人公である、そのうすぼんやりとした透明な生物に注がれていた。

 その日は、午前中に検査センターから送られてきた結晶解析の結果と、木村教授が昨晩まとめたこれまでの結果について報告会を行い、情報を4人で共有する予定になっていた。 

 お昼ごろになると、木村教授からは、すまん、17時開始ということだったが、今日は18時頃まで抜けられそうにない、という連絡が入っていた。大西先生と根元教授は16時半から実験室に来ていたし、あの生物が物体をすり抜けてしまった今となっては、もはや何が起こってもおかしくはない。どうせなら現地で実物を見ながら報告会をやろうじゃないか、ということで、木村教授の到着を待ちながら、私の話を2人の先生に聞かせていた所だったのだ。


 根元教授が、うすぼんやりとした生物に手を伸ばし、触れることができない事実を実際に体験しながら私に聞いた。

「その後、何か大きな変化はありましたか?」

「いえ、今日も朝から生物学辞典の革表紙の上にずっと張り付いたままの状態で、透明度や色調の変化もなく、空中に浮かんだりもしていません」


 根元教授と場所を交代すると、今度は大西先生が身を乗り出すようにして、生物の体を通り抜けていく自分の手を見つめながら云った。

「木村教授の秘書の前田さんが経験したという、『ハーブのような香りが漂ってきた』、という話ですが、この生物が危険を感じたか何かで、何らかの伝達物質を放出して敵をかく乱させる、みたいな作戦ですかね」


 大西先生の意見を聞いて、私もその可能性はあるかもしれないと思った。そういう生物は自然界にたくさんいるし、何なら毒を吹きかけて、相手がひるんだすきに逃走する生き物もいる。

 ただ、今回の前田さんの件はそういう危険回避行動とは、意味が少し違うように思えてならなかった。あの時も、透明化して建物をすり抜けて逃げてしまう方がよほど手っ取り早いと思うのだが、実際は逃げる訳でもなく、まるで、前田さんの興奮を抑えてから元の場所に戻ったように思えた。そして今もこの場に留まっている。

 

 17時半を過ぎた頃、木村教授が実験室の入り口から中へと入ってきた。

「いやー、まいったまいった。締め切りを過ぎた仕事が多くて、なかなか前田さんに開放してもらえなかったよ」

 あの後、前田さんのことも気になっていた私は、木村教授に聞いた。

「前田さん、あれから大丈夫でしたか?特に体調の変化とか、左肩の皮膚がただれるとか、何か異常はなかったのでしょうか」


 木村教授はこちらを向くと、ニヤッと笑ってから云った。

「なんの問題もないそうだ。むしろ昨日までの私へのイライラ感が嘘のように消えた、と云っていたな。確かに最近は鬼のような形相で怒っている顔しか思い浮かばないが、今日は何か憑き物が落ちたような、すっきりした良い顔をしていたよ。おかげでバリバリ仕事をさせられて、ここに来るのが遅くなってしまったんだよ。ああ、前田さんもまた来たいってさ。何でも、この生物に触れたことで、心が癒されたような気がするそうだよ」


 それから我々は、早速、これまでの結果について話し合うことにした。

「森野先生から先に、結晶化サンプルの結果を我々に説明してもらおうかな。その後で、私の方の結果を説明しよう。その順番の方が分かりやすいと思うから」

「わかりました。それでは私の方で、結晶化サンプルの解析結果について説明します。この生物は、保護した当初は主に白色真菌に感染し、不透明化領域が拡大していました。ちょうどその頃に、木村教授にお願いして試作2号機を借りて動物モードと植物モードの2種類の方法で結晶化サンプルを採取しました。その結晶化サンプルを学内の検査センターに出して、解析して頂いた結果がこちらになります」

 代謝産物の種類と割合がまとめられた検査結果を3名の先生の前に置いた。

「当時、この生物全体の代謝は、それほど活発な状態ではありませんでした。おおよそ8割程度の領域が、不活発な動物的代謝を示す領域として確認された一方で、500円玉硬化と同程度の小さな透明化領域では、非常に活発な植物的代謝が観測されています。そして、この時結晶化されたサンプルの組成をみると、空中に放出された代謝産物の組成は、やはり当時の代謝状況をよく表していると思います。動物モードで結晶化された代謝産物の種類や量は、一般的な健常状態の動物と体積比で比べても1/3程度しかありませんでした。やはりうまくエネルギーを産生することができていなかった、と考えられます。また、植物モードで結晶化された場合では、代謝領域が少ないこともあって、含まれる代謝産物の量自体は少ないのですが、一般的な植物には含まれないユニークな酵素成分がいくつか確認されています。これらの結果からいえることは、やはりこの生物は、植物と動物の両方の代謝特性を1個体の中に併せもつ、という1点になるかと思います。今後は、真菌感染症が治癒した状態の結晶サンプルと、これまでの結果とを比較したい所です」


 続いて、木村教授がこれまでに計測した様々な場面でのこの生物の代謝状況について説明を行った。


「これは黒色真菌が増殖した際に動物モードと植物モードで測定した画像だ。量は少ないが、ご覧のように、1つの個体の中で動物的代謝産物と植物的代謝産物が確認できる。そしてこちらが、ほぼ透明化して日光に当たっている時の画像だ。興味深いことに、日光に当たっている間は植物的代謝が爆発的に活性化している。そしてそのときの動物的代謝の方はかなり抑制されているらしい、ということが新たに分かった。おそらく、生物の状態が悪くなった時や、周囲の環境に応じて、柔軟に代謝様式を切り替えることで、生存に必要なエネルギーの産生効率を最大限高めることで生き残ろうとしているのではないだろうか。それが、この生物の生存戦略となっている可能性があると思う。この生物が原始的な生物なのか、それとも進化の先にある生物なのか、分類ができない現状では、まだ分からない。森野先生、遺伝子配列は?」


「この生物に触れることが可能だった初期の頃に、不透明化領域から、スパーテルで生物の表面を少しかきとって、得られた細胞から抽出した遺伝子で配列を決定しようとしてはいるのですが、うまくいってはいません。何でも技術員の話によれば、部分的に配列が消えたり、配列がその都度変わる、などの原因不明の現象によって、遺伝子配列を決定することが出来ないそうです。つまり、大変信じがたい話ですが、生物の体だけではなく、遺伝子を構成する分子自体も透明化してしまう可能性があります。これも、この生物の生存戦略の1つなのでしょうか」


 木村教授が要点をまとめる。

「食中植物にちょっと似ている所があるよね。要は太陽光パネルのもっとすごいやつなんじゃないかな。日の光があるときはそれを利用してエネルギーを作るが、無い時には別の方法でエネルギーを得る」


 大西先生が聞いた。

「この生物は動物なのですか?それとも植物?例えば、動物に分類される『サンゴ』のポリプのように、植物プランクトンと共生している可能性はありますか?」

 しかし、木村教授は首を横に何回か振って答えた。

「いや、この生物の場合は、サンゴのような共生関係ではないと思うよ。代謝分布をみていると、どうやら細胞自体が周囲の環境に応じてその代謝様式を切り替えているからだ。これは、新しい薬浴液に変更して治療を開始してから1週間が経過した際の半透明状態になった対象物の代謝様式を示したものだ。生物全体で、植物的代謝も動物的代謝も中程度に行われている。そしてこちらは、ほぼ透明な状態となり、窓辺で日光浴をするようになってからの代謝の状態だが、今度は全ての領域で植物的代謝活性が爆発的に増えている。つまり、1つ1つの細胞が状況に応じて動物的代謝から植物的代謝へ切り替えて代謝を行っている、という話になる。こうなると動物とも植物とも言い切れない。これは既存の生物では説明がつかないのだよ。つまり『新種』ということになる」


 今まで、じっと聞いていた根元教授が口を開いた。

「実は、私が培養した白色真菌と黒色真菌ですが、あれらも既存の真菌ではなく、新種であることが分かりました。興味深いことに、人間を含む哺乳類や鳥類などの細胞の代謝産物に暴露されると、死んでしまうのです。ですから、我々人間に対して病原性を発揮することはないでしょう。ああそうだ、森野先生が定期的に採材してくれたサンプルの簡易検査では、直近の5日間、2種類の真菌は一切検出されていません。また、大西先生に実施して頂いた薬剤感受性試験の結果は、ほぼ生体で認められた結果と一致しました。最初の薬浴液では、白色真菌の増殖は阻害されますが、黒色真菌の増殖は止められません。最終的に森野先生に調製して頂いた新しい薬浴液で温熱療法と似た環境を作ると、2種類の真菌は死滅することを確認できました。今回の治療は完了した、と考えて問題ないと思います」


 木村教授がふと思いついた様子で云う。

「例えばだけど、真菌をとりまく微生物叢の変化が新種の真菌出現頻度に関係しているかもしれないよ。新しい生物が出現する時というのは、大概は生物の周囲に生じる環境変化がある種の選択圧力となっていて、生物の方が環境に対応しようとした結果、新種としての固定化が起こることが多い。この謎の生物がこれまで見つからなかったことから考えても、この生物に感染できる病原体自体が気候変動などの要因が重なって出現した、ということなのかもしれないし、これはこの地域だけの話なのか、すでに地球全体での話なのか。森野先生のこれまでのデータも併せて考えた方が良いだろうね」


 これから我々は、この新種の生物の発見者として結果をまとめ、のちに論文として報告することになるのだが、そのためには名前のない生き物に、学名と和名を与える必要があった。

 私は手元に白い用紙を用意すると、ここ数日の間、ひそかに考えていた学名と和名を黒いサインペンで書き、3名の先生方に向かって披露した。


「学名は、Perspicuus fluitans creaturaでどうでしょうか。意味するところは、『透明な浮遊生物』です」


 3名の先生方は、頷いている。反対意見はないようだ。


「和名の方は、『おばけ』でいかがでしょう。形や性質が一定しておらず、周囲の環境や、自分自身の状態によってその体をより良いものへと『変化』させる能力をもつ、つまりそれは『化ける』ということになるからです」


が効いていて良いんじゃないかな」

 この木村教授の一言により、今回発見された生物の学名と和名は決定した。

 

 こうして我々はその日、この生物を「おばけ」と名付けた。

 そしてこの日以降、私たちは、おばけがもつ変わった能力を次々と目の当たりにすることになる。

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