おばけがいる世界 編

第6話 研究室に棲みついた「おばけ」

 私を含む4名の研究者が共同研究体制を組んでから、はや1か月が過ぎようとしていた。

 3名の先生方は、多忙な仕事の合間に時間を見つけては、生物学部にある私の研究室を頻繁に訪ねてくるようになった。何かとそれらしい理由をつけてはいるものの、それもこれも全ては、おばけの「バックラム」に会うためなのである。


「バックラム」という名前の名付け親となったのは学生たちだった。


「おばけ」という和名がつけられたばかりであったこの不思議な生物を、私は約束通り学生たちに紹介することにした。

 根元教授とも何度か相談して、人間に対する危険性は未知ではあるものの、我々がこの1か月間過ごした限りでは、大きな危険性はないのではないか、と考えていた。もちろんひき続き、細心の注意を払う必要はある。けれども、新種の生物と出会う機会なんて、人生でそれほど頻繁にあることではなかったし、何より学生たちの学びや成長につながると思ったからだった。

 それに、真菌感染症を克服して以降、木村教授の秘書の前田さんの怒りを鎮めた実績をもつこの不思議な生物が、人間に対して何か害をなすとか、危険な行動を取るようなことは、これまでに一度もなかった。前田さんはその後、木村教授の目を盗んで何度も「おばけ」に会いに来ていたし、私自身もある出来事を経験して以降は、「1つの考え」を持って「おばけ」と接するようになっていた。


                  *


 その出来事は、我々が「おばけの治療は完了した」と判断してから数日が経過した頃に、自身が起こした行動が発端となって生じた。

 当時の私はまだ若かったし、生物学者である前に、1人の人間として次に取るべき行動について思い悩み、日々考え続けてもいた。

 それは、生物を元いた場所に返す、という行動だった。そう、「おばけ」を元いた自然に返すのだ。


 私の中で「おばけ」という生物は、今や野生生物の範疇に分類されていた。

 本来であれば、交通事故などのように、人間による行為がもとになって怪我や病気になった訳でもなければ、それは自然の成り行きに任せなければならないはずだった。ただ、あの時はその正体が「生物」であることすら分かってはいなかったし、学生がつまずいて触れてしまった以上は、とにかくこの物体の正体を確かめる義務というものが、当時の私には生じていたのである。   

 けれども、今はもうあの時とは状況が異なる。「おばけ」は生物なのである。このまま大学の研究室にいることがこの生物にとって本当に良いことなのかどうか私には分からない、というのが、心の奥に潜む正直な自分の気持ちでもあった。

 だから一度、治療によってほぼ完全な透明化に成功した「おばけ」を発見した場所に戻すことを試みたことがあった。

 天気の良い日曜日を選んで、私は生物学辞典ごと「おばけ」を神社の境内に置きに行き、元気で暮らせよ、といい置いて研究室に戻った。生物学辞典は翌日にでも取りに行けばいい、と考えていた。ところが居室に戻ると、背中に妙な違和感を覚えた。室内に設置されていた鏡で自分の背後を確認してみると、着ていたポロシャツの背中部分には、半透明化した「おばけ」がしっかりとくっついていたのである。嬉しいような悲しいような、そんな複雑な気持ちを胸に抱えながら、「おばけ」を背中にくっつけたまま、私は仕方なく神社の境内に残されることになった生物学辞典を取りに戻ったのである。研究室に戻ると、「おばけ」は私の背中を離れて、再び生物学辞典の表紙の上に戻ってくっついた。その一件以降、この「おばけ」には何か意志のようなものがあるのではないか、という考えを持つようになった。

 適した環境が他にあるのであれば、いずれは自分で移動するのかもしれないし、しないのかもしれない。いずれにしても、病気から回復した今、「おばけ」を阻むものは何もないのだから、そうなればもう、「後は本人の自由にさせるしかないのだ、何かあれば全ての責任は私が取ろう」、とその時から私は腹をくくった。


                    *


 「神社の謎の物体を皆に紹介したいから、希望する学生は学生室へ集合して下さい」という連絡を研究室の学生宛にあらかじめ送っておいたので、指定した時間に学生室に入ると、すでに3名の学生が部屋の中央に置いてある大きな作業用机の周りに集まっていた。どうやら、後期試験の試験範囲について、学生同士で情報交換をしながら私を持っていたようだ。


 部屋に入った私は、中央に置かれた作業用机の上に生物学辞典にくっついたままの「おばけ」を置くと、これまでの経緯について簡単な説明を始めた。3名の学生は、私の説明を聞きながら、食い入るように目の前にいる「おばけ」をじっと見つめている。

 やがて、かつて神社の境内でおばけにつまずいた学生が手を挙げて、私に質問を投げかけた。

「先生、なぜ『生物学辞典』なのでしょうか。他にもたくさんの本があるのに」

「下田くん、良い質問だ。もし興味があるようなら、少し実験をして調べてみるのはどうだろう」

 下田、村本、明石の3名は、目を輝かせながら口々に意見を口にした。

「やってみたいです。ぼくは、神社でおばけにつまずいた不思議なご縁がありますから」

「図書館でいろんな種類の本を借りてきて並べてみて、どの本に移動するかどうかを調べてみるのはどうかな」

「それ、面白いと思う。じゃあ、本の準備は太田くんと明石くんにまかせるね。私は準備室からビデオカメラを借りてくるよ。実験記録には動画撮影も必要でしょ」

 いつもは他の2人に遠慮しがちな村本さんが、珍しく積極的な発言をしてくれたので、私自身のはやる気持ちを抑えながら、教育者としての意見を学生たちに告げた。

「まあまてまて、まずは自分達なりに考えた実験計画を作ってごらん。皆でよく話し合って、具体的な方法と日程、役割分担を決めてから、皆で実験室を準備して実行するのはどうかな」


 学生たちが考え、作成して私に提出してきた実験計画書は、なかなかどうして、良く考えられていた。

 私と3名の学生は、この素案を基にして、具体的な実験方法と必要な準備について、さらなる最終調整を行った。その結果、「なぜおばけは生物学辞典にくっついているのか」という素朴な疑問を解決するべく、主に2つの点に着目した実験計画を実施することになった。

 まず1つ目の検討項目は「本の材質について」である。

 製本された本の表紙の材質には、いくつかの種類がある。

 一般的な材質は、3種類。1つ目は紙製の表紙で、表面を透明なビニール成分でコートした厚手の印刷用紙が使われる。2つ目として綿や麻、絹などの平織物を加工した布製の表紙。そして3つ目の、古くから使われている材質といえば、やはりなめした革で作られる革表紙であろう。

 おばけがくっついた「生物学辞典」の表紙は革表紙だが、他の材質の本を周囲に用意したらどうなるのか。その反応をみてみよう、という試みである。


 つづいて2つ目の検討項目は、「本の内容」である。本の内容をジャンル別に分類して、どれを好むのか検討してみよう、という予備的な実験である。表紙だけで中身を理解できるのか、というツッコミもあるだろうが、何事も行動してみよう、というのが、我々の研究室のモットーでもあった。


 このときの結果から言うと、「本の材質」についてはかなり好みがありそうだった。幸い、「生物学辞典」は、時代と共に最も古い初版本から現在の第27版まで、改訂を重ねながら革表紙、布製、厚紙製、の材質の製本が全て揃うという好条件だった。そこで、各材質の「生物学辞典」を図書館から借りて来て、「おばけ」の周囲に並べてみたのだ。並べた直後は変化がなかったので、1晩そのままの状態にして帰宅して、次の日の放課後に確認してみた所、おばけは、革表紙の上から、布製の生物学辞典の上へと移動していた。

 そこで、次は本の中身は全て白紙にして、表紙を麻、絹、綿で作られた布製のもので製本された本を横に並べてみることにした。しかし、1晩経っても、おばけは布製の表紙で製本された「生物学辞典」の上から移動することはなかった。

 この時、おばけが好んでくっついていた「生物学辞典」の表紙の材質を調べた所、綿を織り込んだ平織物に接着剤やでんぷんを混ぜたものを塗り込んで加工し、耐久性を向上させた「バックラム」とよばれる材質で作られた布製の表紙であることが判明したのである。

 その後、様々なジャンルの「バックラム」製の表紙をもつ本を並べてはみたものの、「生物学辞典」は最強だった。内容を理解しているのかどうかはともかく、おばけの居場所は、皮表紙から「バックラム」製の表紙をもつ「生物学辞典」に移ったのである。

 この実験がきっかけとなり、学生たちは、このおばけを自然と「バックラム」と呼ぶようになった。つられるように、私や教授陣の間でも、いつの間にか「バックラム」という呼び名が定着してしまった。

 「バックラム」という呼び名が浸透すると、学生たちのバックラムへの愛着は急速に進行した。

 ある時、村本さんが親愛の意味を込めてバックラムのために小さな手作りポシェットを作って大学へ持ってきた。それは、オレンジ色をした小さなポシェットで、人間であれば肩から斜めがけにできるような、肩ひもがつけられていた。

 しかし学生たちは、バックラムにどうやってそのポシェットをかけたら良いのか分からずに悩んでいた。球体のバックラムには、通常は肩にかけるポシェットのひもをかけられる部位が見当たらなかったのだ。

 困ったように明石君が云う。

「でもさあ、今はバックラムが透明だから、そもそも通り抜けちゃってさわれないよなあ」

 村本さんが、両手を顔の前で合わせると、バックラムに向かって頭を下げた。

「お願い、バックラム。あなたのためにポシェットを作ってきたの。少しの間でいいから、私たちがさわれるように姿を見せてくれないかな?もし、バックラムが嫌だったら、無理しないでいいから」

 3人の学生は、バックラムをじっと見つめている。

するとその時だった。

うすぼんやりとしたバックラムの球形の体は、淡い萌黄色をした半透明の状態へとみるみる変化したのである。

 3人は顔を見合わせると、ポシェットを持っている村本さんが代表して、そっとひもをバックラムにかけた。

「ふわっとした感触がする」


 さらに、下田君が「このままじゃ、ひもが滑り落ちるから仕方がない、テープではり付けるしかないよ。」と云った時だった。

 これまで球形だったバックラムの形状は徐々に変化し始め、数分後には、頭部と思われる部位と胴体と思われる部位の間にが形成されていた。


 村本さんは、くすっと笑って、「小さな雪だるまみたい」と云いながら、バックラムのくびれに向かってポシェットをひっかけた。

「気に入ってくれてるのかな?」


 この時、私は学部会議があったので、その場にはいなかった。この時の出来事は、会議が終わって居室に戻ってきた直後に、ものすごい勢いで部屋の中に駆け込んできた3名の学生たちから聞いたのだ。


 人の言葉を理解しているのか、場の雰囲気を読む能力に長けているのか、どのように感知しているのかは分からないが、ある程度こちらの意図を理解する様な行動が見られたのは、この時が初めてだった。


 オレンジ色の小さなポシェットを引っ掛けたバックラムの愛らしさは、その姿を目にした全ての人間達をたちまち虜にしてしまった。


 そして村本さんからポシェットをプレゼントされてからのバックラムは、半透明の状態でいる時間が以前と比べて、明らかに増えた。


 やはりバックラムは、人間との関わりを嫌ってはいない。むしろ好んでいるのではないだろうか。そんなことを思わせる様子を様々な場面から見受けられるようになった。

 バックラムが好んでいるのどうか、その本当の所は分からないが、最近は、生物学辞典の上を離れ、気が向くとふわふわと空中を飛んで移動する姿をよくみかけるようになった。そして、我々よりも研究室の学生の傍らに寄り添うようにいることが増えたのは確かだと思う。


 ただ、人間の中でもバックラムが苦手とする人物がいるらしいことも薄々感じてはいる。

 それは、事務部長の大黒さんである。大黒さんが、何かの用があって研究室に来ると必ずといっていいほど、バックラムの姿は見えなくなる。

 ここにどんな意味があるのか、来年の春に入ってくる新3年生の誰かの卒論テーマにしても良いかもしれない。こういった内容に興味のある学生がいるといいのだが。


 こうして、透明になったり半透明になったり、時には形状が変化したり、空中にふわふわと浮遊したりする、そんな仲間が我々の研究室に加わった。いや、加わってしまったのだ。


 バックラムは、今日もふわふわと空中に浮遊する。そして、気が向くと姿を完全に透明化したり半透明化したりしながら、研究室の中を自由に飛び回っている。窓辺で日の光を浴びている時もあるが、もうすぐ授業を終えた学生たちが研究室に戻って来る時間だ。バックラムはきっと、学生室の方へ向かって、ふわふわと飛びながら移動するだろう。

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