第7話 おばけの研究補助員

 外を吹く風は冷たくなり、校内を歩く人々の服装は半袖から長袖へと衣替えをする季節となった。

 おばけのバックラムが私の研究室に棲みつくようになってから、はや1か月が過ぎようとしていた。

 よくよく観察をしてみると、バックラムが好む研究室内の居場所というものは、大体3カ所に絞られるようになってきていた。最も出現頻度の高い場所は、やはり実験室で、その次が学生室、最後が、私の居室である。最近ではこの3カ所を探せば、大体どこかでバックラムに遭遇することができる。

 けれども、以前から私が感じていた通り、バックラムには「の度合い」というものが存在し、それは、それぞれの人物との接触によって少しずつ変化し、徐々に差が生じているようであった。

 そこで私はある期間、バックラムが私の居室にいる間に入ってきた人物と、そのときにバックラムが姿を消した回数を集計してみたのである。姿を消した回数がダントツで多いのは、やはり事務部長の大黒さんであった。大黒さんが居室にくるということは、事務処理関係における何らかのトラブルを抱えていることが多い。だから話が進むほどに私と大黒さんの議論は白熱し、時には殺気立ってしまう程に部屋の雰囲気がピン、と張り詰めたものになることも多い。大黒さんの訪問時にバックラムが姿を現していたのも、集計を開始した初回と2回目だけ。この2回の訪問では、事務処理手続きの簡素化の必要性を訴えた私の要望と、大黒さんの「将来的には検討しますが、今はそれどころじゃないでしょう」という本心が露骨に表れた言動がぶつかり合って、数十分間の激しい議論の応酬となった。本人たちはその場の議論が終われば至って普通の関係性に戻るわけだが、おばけにはちょっと刺激が強すぎたらしい。3回目の訪問時には、大黒さんが私の部屋に入って来るなり、バックラムは数秒でその姿が見えなくなった。それ以来、大黒さんの訪問と同時にバックラムは姿を隠すようになってしまったのである。おばけという生物は、攻撃的な場面を忌避し、穏やかで和やかな場を好むという繊細な一面をもち合わせてもいるようなのだ。

 次にバックラムがを置きたがる人物がいる。それが、木村教授である。木村教授の方は、未知の塊であるバックラムのことが何しろ大好きである。そしてあの性格なので、思いつけばバックラムに新しく試作した装置を装着しようとしたりするから、部屋を出たり入ったり、とにかく動き回っていてせわしない。暇ができれば、バックラムに会いに私の居室を訪ねてくるので、さすがのバックラムも少し辟易しているのか、それとも先日装着された装置が気に入らなかったのかは分からない。が、最近では、木村教授が入ってくると、大体1-2m程度の物理的距離を置くようになった。そのことについては、木村教授本人も気付いており、そして、結構本気で悩んでいるので、昨日は長々と相談を受けたのだが、こればかりはどのような対策が有効なのか、そもそもの本当の原因ですら、まだ何も分かってはいないのである。

 敬遠される人物もいれば、部屋に入ってくると、むしろバックラムの方から近寄る機会が多い人物もいる。根元教授や大西先生、前田さんなんかは、部屋に入ると、バックラムの方から近づき、時には肩の上に乗っていたりするから、これは相当興味を持たれているか、何らかの関係を築きたがっていることの表れではないかと私は考えている。バックラムに好かれる3人に共通していて、大黒さんや木村教授との大きな違いを客観的に観察するならば、それは柔らかい雰囲気、とか落ち着いた雰囲気、であるかもしれない。

 一方で、大人たちに対する接し方と少し違いがあるな、と感じたのは、研究室に所属する学生達に対する時である。学生室では、絶えずバックラムの方から学生に寄り添い、ときには頭の上に乗ったりもしている。頭の上に乗る行為は、学生に対する時だけみせる行動なので、こちらは私の完全な主観だが、保護すべき対象を褒めたりなぐさめたりする時や遊ぼうよ、とか、そういった類の雰囲気のときに示すことが多いのではないだろうか。

 それでは、私自身とバックラムの関係性はどうなっているのか、というと、おそらくは「ほどほど親しい」の部類に入るのだと思う。そばにいない時はいないし、近寄って来ることもあるけれど、同じ部屋の中にいても、遠く離れた場所にいることもある。姿を半分だけ消すこともあるし(半分だけ消えた姿は、未だ私しか目撃していない)、背中にくっついている時もある。私といるときには、とにかく本人のきまぐれのままに過ごしているようにも思える。それは唯一、気の置けない仲間や家族のような感覚なのかもしれない。

 そして、ある夜を境に、研究室におけるバックラムの行動は大きな変化を見せ始める。


                  *


 その日は朝から居室の電話が鳴り響き、研究とは全く関係のない、ろくな仕事の話が入ってはこなかった。

 その週の私は、学部運営の仕事や担当する大学院の入試業務などの会議が重なり、とにかく疲れていた。


 ― 研究以外の業務はどうしてこんなに疲れることばかりなのだろうか。


 しかしどんなに疲れていても、自身の研究内容が、微生物や細胞などの生き物を扱う仕事である以上、毎日世話をする必要があった。研究以外の業務をとにかくやっつけて、微生物や細胞の世話を終え、その日やるべき実験作業の準備を始めた時、時計の針はすでに夜の10時を回っていた。

 業務に忙殺されていたために、その日の学食の営業時間にも間に合わず、夕食を食べ損ねた私は、すきっ腹を抱えたまま実験室にこもって、その日の作業を進めていた。

 実験台の上に並べられた50本の試験管の中に、測定用の試薬を等量ずつ分注していく。次に試薬の入った試験管の中に、準備しておいた各サンプルを加えてよく混合した後、別の容器に移してから、速やかに装置で測定する。すると、目的とする物質の含有量が装置の前面に設置された液晶パネルに表示されるのである。ただし、測定までに余計な時間がかかってしまうと測定値がブレてしまうので、各サンプルを同じように測定する必要がある。予算が潤沢な研究室であれば、「研究補助員」という、研究業務を補助してくれる人員を雇用することもできただろう。しかし現在の研究室の予算規模では、人を雇用できるだけの余裕はなかった。昼間であれば、手の空いた学生に測定装置での計測を手伝ってもらうことで、効率よく作業を実施していたのだが、学生も帰宅してだれもいない今夜は、1人で全ての作業をこなす必要があった。

 誰もいない実験室でたった1人、黙々と作業を進めていく。空腹の疲れ切った状態で試験管の中に溶液を入れていく単純作業をしていたせいか、油断すると、どこまで入れたのかが分からなくなりそうになる。そしてサンプルの入った容器のフタを開け忘れていることに気付く。しかし、右手には分注用の器具を握り、左手には試験管を持っている。両手はふさがっていた。ああ、もう1本手があればサンプルの入った容器のフタを開けられるのに、と考えながら、一旦手を止めて確認作業をしていたその時だった。私の横に、色味の無い半透明の球体となったバックラムがふわふわと飛んできた。そして、これから使おうと電源を入れておいた測定装置の上にふわっと乗っかったのである。

 その時の私は相当に疲れ切っていた。だから思わずバックラムに向かって言ってみたのだ。


「そこの容器のフタを開けてくれると助かるのだが」


 本当に期待をしていた訳ではなかった。こちらの要望が通じるか分からなかったし、通じたとしても無視されるかもしれないのだ。自身の両手に持っているものを一旦実験台の上に置いて、容器のフタを開ける、というひと手間を増やせば良いだけなのだから。


 しかし、私の呼びかけに対する反応はすぐに起こった。バックラムの体の輪郭が波打つように乱れ始めたかと思うと、形態変化が始まった。次の瞬間、球体の体の左右からニョキニョキっと2本の腕が伸びていき、みるみるうちに、先端部分には5本の指をもつ手のひらが形成されていった。

 数分後、バックラムの半透明な体には2本の立派な手が生えていた。バックラムはその手を伸ばすと、私が開けてほしいと言った容器のフタを器用につかみ、カパッという音がした次の瞬間、フタの開いた容器が、両手のふさがった私の前に差し出された。


 これまでにない興奮が耳の奥にまで響き渡る。うるさい程に拍動する心臓の鼓動を全身で感じながら、私はやっとの思いで声を絞り出した。

「ありがとう」

 興奮と緊張のせいか、かすれ声だった。

 

 極度に興奮した気持ちを何とか抑えながら、目の前に差し出された容器の中からサンプル液を右手に持った器具で吸引すると、自分の左手で持っている試験管の中に移した。バックラムは測定機の上に陣取ったまま、2本の手を伸ばして、混合溶液を測定機で計測する作業工程を間違えることなく、見事にこなしていった。

 バックアラムの流れるような作業を見ていて、ふと、思い当たった。そういえば先週、学生と2人で全く同じ作業をこなしていた時に、バックラムが実験台の上に居座っていたことを思い出したのだ。バックラムは、その時に目の前で繰り返し行われた作業の様子を何らかの方法で情報として取り込み、その工程を覚えているとしか思えない。

 何はともあれ、バックラムが実験作業を補助してくれたおかげで、この夜の作業時間を30分以上短縮させて終了することができた。

 そしてこの日以降、私が実験室にこもって1人作業を行っていると、必ずと言っていい程、2本の手を生やしたバックラムが実験作業に参加してくるようになったのだ。

 人間が1人とおばけが1体、夜な夜な研究室で作業をするなんて、ちょっと聞いたら怖い話になってしまいそうなのだが。


 さらに不思議なことは続く。

 実験台にいる私から見て、到底手の届かない離れた位置にある棚に収納されたフラスコやビーカーを持ってくるのを忘れたな、取りに行かなければ、と頭の中で考えていた矢先のことである。次の瞬間には私の手の届く位置に、必要とする器具がそっと置かれているのである。言葉に出していないにも関わらず、強くイメージされた実験器具をバックラムが感じ取り、棚から持って来てくれたのだ。

 そのほかにも、私の研究室では不思議なことが次々と起こるようになっていった。

 使い終わった実験器具は、いつの間にかきちんと洗浄されて、乾燥されたものが棚に収められている。実験室のゴミは、いつの間にか出入り口付近にまとめられて、学内のゴミ捨て場に持っていくだけの状態にして置かれている。その日やろうと考えていた実験に必要な器具類がいつの間にか、整理整頓された実験台の上に並べられている。学生たちに聞いても、自分たちはやっていない、と首を横にふるばかり。

 実際、全てがバックラムの仕業なのである。バックラムはこの頃から、自分から進んで自然と研究を補助する「研究補助員」としての役割を果たすようになっていった。

 半透明のおばけが試験管を抱えて空中を飛んで行く。この光景を目にするたびに、バックラムにも給与を支払うべきだよなあ、と考えながらも、報酬は何をどのように渡せばいいのか分からずに悩む。そして私自身は、感覚器官がどうなっているのか判然としない「おばけ」という生き物が、どのように情報を取り入れて、その行動を環境に合わせて変化させているのか、そのことが不思議でならなかった。こちらの話す言葉をどの程度理解しているのか、実は言葉ではない方法でこちらの要望を感じ取るのか、疑問は尽きない。

 だから、おばけの生態を理解するヒントを得るためにも、少し距離を置いた所から、学生たちとバックラムの関係性について客観的な調査をしてみよう、と思い立ったのである。


 秋も深まり、学内の銀杏の葉が黄色く色づくこの時期の研究室は、来年度の正式な配属を前に、お試しで各研究室に体験入室をしに訪れた学生たちで活気づき、とてもにぎやかになる。

 研究室の棚に置かれたフラスコやビーカーが時折触れ合って、カチン、カチンと音を立てる。洗浄済みの試験管を棚に戻すときに、置いてあったフラスコやビーカーに当たった音だろう。学生たちが実験室で実験作業をしているのだ。実際、体験入室の学生たちはまだ実験に慣れておらず、器具の扱い方は、個人の持つ性格に大きく影響される。作業は早いが乱暴に扱うので、1日目でビーカーを割った学生もいる。逆に、慎重すぎてなかなか行動に移せない学生や、先輩の学生の見本を見て、要領よくこなす学生など、様々である。研究室に配属になった後で、実際の手順や方法について学び、経験を重ねることで、実験作業に関するこれらのバラツキは徐々に少なくなっていくはずである。

 しかし、私の期待とは裏腹に、体験入室の学生が出入りしている間は、見知らぬ人物の多さに警戒したのか、バックラムは実験室に姿を見せなかった。むしろ私の居室にいる時間が増えていたように思う。やがて1週間の体験期間が終了した。体験入室の学生は去り、慣れ親しんだいつもの面々が実験をするようになったこの頃になると、やっと、バックラムの姿を再び実験室で頻繁に見かけるようになった。


 そういえば先日、学生たちが、同じ研究室内でもバックラムに実験を手伝ってもらえる人と手伝ってもらえない人がいる、という話をしていたことがあった。最近では私の研究補助のみならず、学生たちの実験作業までも手伝うようになったらしいのだ。学生たちによくよく話を聞いてみると、これまでに数回ほど手伝ってもらえた学生と、1度も手伝ってもらえていない学生がいることが分かった。ただし、これは単純な好き嫌いによるものではないだろう、と学生たちは皆、口々に話している。なぜなら、実験補助の件を除けば、学生たちとバックラムの関係性は非常に良好に見えるからだ。どの学生にも分け隔てなく近づいて来るし、頭の上に乗られることも、全ての学生が体験済みだった。一方で、姿を消されてしまう、といった現象を経験した学生はまだ1人もいない現状を考えると、非常に良好な関係性、というのは言い過ぎではないと思われた。

 当時、私の研究室には、2回生が2名、3回生が3名、全部で5名ほどの研究室生が出入りしていた。教員のいない環境下における学生とバックラムの関係性を知りたくなった私は、3回生の下田、村本、明石らを居室に呼ぶと、実験室における学生とおばけの関係性と研究補助行為が行われた際の状況について、無理のない範囲で調査に協力してほしい、と告げた。


「先生がいない所でどうなっているかを調べれば良いんでしょうか?」

 下田が開口一番、私に向かって聞いてきた。


「でも先生、バックラムが実験室ではなくて、学生室に居る時もあるけど、どうしましょうか」

 続けて明石が疑問を投げかけてきた。


「そうだね、特に調査したい状況というのが、教員がいない実験室におけるバックラムと学生の関係性についてだから、実験室に絞った調査をしてほしい」


「先生、観察項目はどうすれば良いでしょうか?」

 村本がノートPCを開いて、早速、調査のための段取りを打ち込みながら聞いてきた。


「そうだな。私の方で5項目ほど標準項目を設定しよう。特記すべき事象が別途発生した時には、備考欄に記載してくれればいいから。様式を後で皆のメールに送っておくよ。観察期間は明日から2週間でお願いしたい」


「わかりました。じゃあ、3日ごとに結果を持って、3人で先生の居室に経過報告に来ます」


「ありがとう。手間を取らせて申し訳ないが、それは非常に助かる」


 こうして、実験室における学生とバックラムの関係性についての調査は、開始された。

 学生たちは交代で、バックラムと学生が実験室にいるときの行動について記録を行う。さらに、同一の学生に対し、バックラムが実験を手伝う時と手伝わなかった時の学生本人の状態に違いがあったかどうかについて聞き込みを行った。また、調査期間の間、実験室で作業を行ったにも関わらず、一度もバックラムに手伝ってもらえなかった学生にも、本人の状態について聞き込みを行ってもらった。

 実際に学生たちの報告を3日ごとに聞きながら、学生と私とで気付いた点について議論をしていくと、バックラムが如何にして対象とする人間の状況を把握して行動に移しているのか、状況把握のために感知している可能性のある項目が、徐々に浮かび上がってきた。

 例えば、今回の調査期間中に、こんなことがあった。その日は、2年生の学生1名が、必修科目の小テストを2日後に控えて、実験に勤しんでいた。同じ実験室内には、すでに必修科目の中間テストを午前中に終えて、晴れ晴れとした顔をしている3年生が全員揃っていた。彼らは各自がそれぞれの実験台で作業をしていた。その時に実際に行われた実験の作業量としては、2年生と比べると3年生の方がはるかに多かった。ところがその日、バックラムが空中を飛んで行って作業を手伝ったのは、2年生の学生の方だった。

 バックラムにとっては、作業量の多さが、必ずしも補助作業を実行する上での判断材料になっているわけではないらしい。

 そこで、この事象が発生した当時の学生の精神状態について記載された部分を確認すると、その心理状態には大きな差があることが分かった。

 その日の学生たちの心理状態を知るために、実験作業を実施した際の心境やその時感じていた感情を色に例えて答えてもらった資料がある。その日、中間テストを終えた3年生は、つかの間の解放感からか、選ぶ色は明るい色が多かった。作業量が多くとも、楽しんで実験作業をこなしていたようだ。一方で、バックラムがその日の作業を手伝った2年生の学生の心理状態は、この日実験室にいた4名の学生の中では最も不安定たった。その日、彼が最も今の気分に近い色として選んだのは「黒色」だった。なぜ普段から勉強をしておかなかったのか、その後悔の気持ちについて、本人から聞き取った内容が、長々と特記事項欄に記載されていた。2日後に控えた小テストに対する焦りや不安感を抱えた状態で実験作業を行っていたことがわかる。

 そこで、これまでの調査で記録された標準項目を基にしてストレス度合いを数値化してみる。すると、バックラムに作業を手伝われた学生の数値は、軒並み高値であることが分かってきたのである。高いストレス状態にある人間を助けるということだろうか?

 そうなってくると、おばけが、過剰なストレスを感じている人間から微量に放出されるホルモンや何らかの物質を感知している可能性がでてくる。

 2週間の調査機関が終わり、3名の学生たちと結果をまとめてみると、ストレス値とバックラムの研究補助を受けた人物との相関性は、もはや誰の目にも明らかだった。

 ― 強いストレス下にある学生を感知し、バックラムはその人物の実験作業を手伝っている。

 調査に協力してくれた学生達は、学生室でも似たようなことを経験した、と云う。

 それは、実家で飼っていた犬の大吉が老衰で亡くなった、という緊急連絡を受けた村木さんがその場で泣き崩れた時、学生室にいた皆が村木さんを慰めていた。その時、村木さんのひざの上にバックラムが球体のまま、そっと乗ってきたそうだ。村木さんの大好物である紅茶のアールグレイの香りが辺りに漂ってきたので、泣きながらも少し気分が落ち着きました、と村木さんは云った。村木さんが落ち着くまでの間、バックラムはしばらくその場に留まっていたそうだ。

 学生たちからすれば、まるで、バックラムが村木さんを慰めているようだった、と、その場にいた誰もが同じ感想を持ったようである。

 

 その日、今回の調査結果に興奮し、熱中していた我々は、窓の外がすっかり暗くなっていることにやっと気が付いた。日の入りの時間もすっかり早くなってきていたので、調査に協力してくれた学生3人にお礼をいうと、研究室から帰宅する彼らのうしろ姿を廊下で見送った。学生たちは、これから各自アルバイト先へ向かうという。

 私は1人居室に戻り、椅子にもたれかかると、天井を見上げながら呟いた。


「おばけという生き物は、この上なく人間にやさしい生き物なのかもしれない。高木一郎先生の描いたおばけ像は、一概に創作ばかり、とは言えないかもしれないな」


 学生時代、実験をすれば失敗ばかりして落ち込んでいた学生の私に、高木先生はいつも励ましの声をかけてくれた。


「きみの仮説はとても面白い。ただ、新しい事柄を証明するためには常に困難がつきまとうものだよ。気長にやりなさい」


 この言葉が支えになって、私は今でも研究業界で何とか研究を続けることができている。

 恩師を思い出して熱くなった目頭を指で押さえると同時に、ふと、思った。


 ― 当時の高木先生はすでに「おばけ」にどこかで出会っていたのではないか?会ったことがあるから、あれだけ人にやさしい等身大のおばけの物語を描けた、という可能性はないのか?


 ふと、頭の中に浮かんだもやもやとした疑問を無理やり胸の奥に仕舞うと、椅子から立ち上がった。研究以外の仕事は常に山積みだったが、とてもじゃないが、これから他の仕事に集中できる心境ではなかった。机の上の書類の山を見やってため息をつくと、明日の朝早くから取りかかろう、という決心をする。コート掛けから取り上げた上着に腕を通し、カバンを手に持つ。一応、室内を見回して異常がないことを確認してから部屋の電気を消すと、その日は早めに帰途についたのだった。

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