2話 事実確認

 先輩のベッドで目を覚ました。


 昨晩の出来事を思い出し、掛布団を捲り上げ身体を確かめる。


 何の異変も無く、薄橙の肌があり手と足がある。


 シャツの内側に手をさしこみ腹を触ったが少しだけ硬い腹筋があるだけだった。


「なんだ、夢か」


「夢じゃないよ」


 キッチンから先輩の声がした。


 エプロンを掛けた先輩が出来立ての朝ごはんを携えて居間に戻って来るところだった。


「朝から重いかな? 男の子だし平気だろ?」


 大皿に盛られているのは肉野菜炒めだ。


 居間のテーブルには既に、茶碗に盛られた白飯が湯気を上げて待ち構えていた。


「何肉ですか?」


「何だと思う?」


 魔法少女ですか。


「正解」


「夢じゃなかったのか……」


 頭を抱えた。


「食べた方が良いよ。その姿で居るには魔力を使うからね」


「はぁ?」


「ほいっ」


 先輩は人差し指を俺に向けた。


 すると俺の身体はぎゅっと縮み上がった。


 縮み上がったのは感覚で分かったが、具体的に俺の身に何が起きたのかまでは分からなかった。


 それが何とも気持ち悪い。


 先輩はデスクから持ってきた手鏡を俺に向ける。


 そこに映っていたのは、猫のような狸のようなファンシーでメルヘンチックな獣だった。


「ははっ」


 思わず空笑いが零れた。


 すると鏡の中の獣も同時に片方だけ口角が上がった。


 瞬きをすれば獣も瞬きをする。


 右手を上げれば獣の左前脚、もとい左手が上がった。


 目の前の事実に思わず溜息を吐いてしまい、やはり獣も溜息を吐いた。


「二度寝するかぁ」


「待ちたまえよ未来君。これは紛れもない現実だよ、受け入れてくれ」


「受け入れられる訳な──声が高いなぁ! きっもちわり!」


 例えるなら鈴が踊るような、夏祭りで買ったラムネ瓶の中にあるビー玉が擬人化した声のような。


 少なくとも声変わりを終えた男性の声では無い。


「悪いね、今日は一限があるんだ。また夜飲みに行こう。オススメのバーがあるんだ」


「待ってください、どうすれば元の身体に戻れるんですか」


「思い浮かべるだけで良い」


「あっ、ほんとだ」


「それじゃね。未来君も授業はサボらずに出席するんだよ」


「ちょっ、ほんとに置いていくんですか!」


 返事はドアの閉まる音だった。


 冷静になりたい。


 寝起きの気持ち悪い口内を清めるべく、乾いた喉を潤すべく、水道水をコップに注いで一気に飲み干した。


 それから居間に戻りクッションに座り込む。


 先輩の言葉を信じるなら、俺は昨晩人の肉を食べた。


 先輩とディープキスをしたかと思えば、突然腹が裂けた。


 あのキスが先輩が言うように何かしらの契約であり、それのせいで俺は人間の身体を失った。


 いや、失ったというのは少し違うか。


 人間ではない獣の身体を手に入れた、と言うべきか。


 冷静になってはみたが、冷静になってはいけない事態だという現実だけが理解出来た。


 逆に言えば、大切な部分は何も分からないままだ。


 俺は人間なのか、人間ではない何かになってしまったのか。


 人間でないとすれば今の俺は何者なのか。


 先輩の言っていた魔力とは何なのか。


 そもそも魔法少女が実在するのか。


 実在するとしてその肉を保管していた先輩は何者なのか。


 ただ一つ、この状況を腑に落とせる答えがある。


 先輩からイリーガルなクスリを盛られたのではなかろうか。


 それなら全ての説明が付くのだ。


 腹が裂け獣になったのではなく、そういう幻覚を見ただけ。


 先輩はクスリを常用しており、市販の肉を魔法少女なんていうまじかるな存在の肉だと信じ切っているだけ。


 種族がどうとか言っていたのも妄想に過ぎないのだ。


 俺は鏡で見た獣の姿を思い浮かべてみた。


 するとっ突然身体が縮み上がり、掌には肉球が現れた。


「クスリ、残ってんのかなぁ……」


 俺の考えたクスリ説、先輩の言っていた謎の契約説、そのどちらが現実であろうと俺には絶望しか残らない。


 これ以上考えても仕方が無いからベッドに横になった。


 スマートフォンで時間を確認すると午前八時過ぎ。


 今日の授業は三限からだからもう少しだけ寝られる。


 アラームをセットしようと思ったが獣の手ではスマートフォンを操作出来ず、人間の身体に戻り十二時にアラームが鳴るようにセットした。


 ベッドから甘い匂いがする。


 先輩の匂いだ。いつもは仰向けで寝るのだが、今回だけはうつ伏せで眠りに就いた。


 目を覚ますと窓から夕陽が射し込んでいた。


 今更授業をサボろうが何とも思わない。


 しかし先輩の枕をよだれで汚してしまった事には幾ばくかの感情が湧いて出た。


 その感情とは罪悪感ではなく性的な興奮だが。


 目を擦りながらスマートフォンを確認すると先輩からメッセージが届いていた。


 確認すると、新宿にあるバーの住所と待ち合わせの時間だった。


 三時間も余裕がある。


 すぐに発つと早く着いてしまう。


 そういえば昨晩からシャワーを浴びてなかった。


 バスルームを拝借し、先輩がいつも使っているシャンプーとトリートメント、ボディーソープで身体を綺麗にさせていただいた。


 脱衣所にバスタオルが一枚あったが、触ると少しだけ湿っていた。


 少し悩んでからそれで身体を拭いた。


 自分でも引くほど興奮してしまい、これはよろしくないと思ったので一発抜いてからもう一度シャワーを浴びた。


 先輩の家を出る時に鍵が無い事に気付いた。


 おそらく部屋のどこかにスペアキーはあるのだろうが、それを探すのは面倒だったからそのまま出た。


 このマンションはオートロック式でエントランスには入れないし、まさか何十室もある中で偶然にもこの部屋が空き巣に狙われる事も無いだろうと、自分を納得させる事で事なきを得た。


 空は既に暗くなっていた。


 つまり今日の授業は全部サボったのだ。


 起きてすぐに家を出ていれば六限には間に合っただろう。


 だがシャワーも浴びずに臭い身体のままで授業に出れば他の学生に迷惑を掛けてしまう。


 それは非常識な人間のやる事だ。


 つまり俺はサボらざるを得なかったのだ。


 よし、これで俺は悪くない。


 先輩の家の最寄り駅から新宿まで地下鉄で十分も掛からなかった。


 先輩から届いた住所をマップアプリに入力し案内されるままに歩くと、先輩から指定された時刻よりも三十分も早く着いてしまった。


 迷いつつも多少は早く着くと思ったがそれでも早過ぎた。


 そのバーはビルの地下フロアにあるこじんまりとした隠れ家的バーだった。


 内装の雰囲気は良い。


 こんなバーを知っているとなればいよいよ先輩がおっさんを誑かしているという俺の予想にも信憑性が増してくる。


 カウンター席は少々気まずい。物静かなナイスミドルなマスターが寡黙にグラスを拭いている。


 七席あるカウンターには妖艶な雰囲気の女性と憎いほどハンサムでワイルドな男性が二人の世界を構築し、しっぽりと酒を飲みながら言葉少なながら会話をしている。


 俺は二席だけある二人掛けのテーブル席に座りジントニックを注文した。


 それにしてもお洒落なバーだ。


 そのうち女の子を誘って我が物顔でここを訪れよう。


 間違いなくヤれる。


 グラスが空になる頃、先輩が到着した。


「お待たせ。わお、久しぶりだね!」


「お前が顔を出さないからだろ?」


「あら、お隣どうぞ」


 どうやら先輩はカウンター席に座る二人組と顔見知りのようだった。先輩も含め三人はここの常連なのだろうか。


 尚の事カウンター席に座らなくて良かった。


 俺だけ初顔なんて気まずいなんてものじゃない。


 あれだ、異国の地だ、もはや。


「悪いね、こちらの少年と待ち合わせをしていたんだ」


 先輩から紹介されてしまい挨拶せざるを得なくなった。


「どうも」


「おっと、いよいよかい?」


「何よぉ、それならさっさと紹介しなさいよね。ワタシはエリーザ、こっちはベズ」


 外国人だろうか。


 さっきは横顔しか見えていなかったから分からなかったが、非常に整った顔をしており瞳の色もうっすら青みがかっている。


「そんなんじゃないわよ」


「ディープキスはしましたけどね」


 してやったつもりがエリーザさんとベズさんから笑われてしまった。


「初心な子ねぇ」


「嫌いじゃねえがな」


「ま、そんな訳で今日は一緒に飲めないから。また今度ご一緒願うよ」


 先輩はワインを注文した。


 グラスで来るかと思いきやボトルで運ばれてきた。


 先輩名義のキープボトルのようだ。


 ついでに俺も二杯目のジントニックを注文した。


「さてと、まずは乾杯から」


「悪夢のような昨晩に」


「「乾杯」」


 互いのグラスを軽くぶつけ、一口煽る。


 先輩はその一口でグラスを空にした。


 俺は先輩のグラスにワインを注ぎ、ある予想の元、勝手に一口飲んだ。


「やっぱり」


「あはっ、バレた?」


「説明してください、全て」


「まあそう急くなよ少年」


「たかだか二歳差でしょう」


「五万と二歳差だよ」


「は?」


「ゆっくり説明するよ、未来君が知りたい全てをね。その為にここを選んだんだ」


 先輩は赤い液体を一口啜り、ゆっくりと話し始めた。


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