第3話 夜崎さんについて

 一度自分の気持ちを自覚してしまうと、もうどうにも自分で自分を制御できなくなってしまう。夜崎さんと親しく、そして特別な関係になりたい。恋人どころか友達すら碌に作れなかった私が果たしてそんなことできるのだろうか。いや、最初から諦めてはいけない。

 まずは、夜崎さんの個人的なことを知っていこう。私は夜崎さんのことをほとんど知らない。知っているのは、授業はサボるが悪さはせず、背が高く顔がいいことくらいだ。

 翌日も一限からサボり屋上に向かった。踊り場にはすでに夜崎さんがいた。顔にはまだガーゼが張られている。

「おはよう」

 私は若干緊張しながら声をかけた。夜崎さんも小さく手を上げて答える。たったこれだけのやりとりなのに心が躍る。恋する乙女とはこういう気持ちなのか。

 いつものように日陰で並んで寝転がった。手を伸ばせば夜崎さんに触れられるが焦ってはいけない。

 まずは夜崎さんについて情報収集から。

「夜崎さん、下の名前教えて」

 一ヶ月近く一緒にいるのに名前を知らない。まずはここからなのか、とゴールまでの遠さに気が重くなってくる。

「……嫌だ」

 聞き間違いだろうか。それとも『夜崎嫌だ』が本名だろうか。いや、そんなわけないか。

「夜崎嫌だ、が本名?」

 ちょっとした冗談くらい挟んでもいいでしょ。これから友達以上になりたいのだから。

「そんなわけあるか。教えたくないってことだよ」

「教えてくれたっていいじゃん、ケチ」

 ちょっと力を込めて抗議したが、夜崎さんは意に介さず無視し、しばらく沈黙が続いた。

「え、本当に教えてくれないの」

 なおも無視。ここまで頑なだとは思わなかった。たかが名前なのに。前途多難とはこのことか。

 それでも私はめげずに名前を聞き出そうとした。十回くらい聞いたところで、夜崎さんが大きく溜息をついて小さく答えた。

「ミエ。美しい枝で美枝」

 夜崎美枝、私は口の中で小さく呟いた。よし、覚えた。

「これからは下の名前で呼んでいい?」

「嫌だ」

「……美枝」

 こんなことで怯む私じゃない。私のことは春子と呼ばれているのだから、私も下の名前で呼びたい。仲良くなる第一歩だ、多分。

「呼ぶなって言ってるだろ」

「美枝」

 その瞬間夜崎さんがはじかれたように起き上がり、私の首元のワイシャツをつかみ、引き起こした。

「あたしの言葉理解できるか?」

 明らかに敵意を剥き出しにして睨んでいる。まさか下の名前で呼んだだけでこれ程の仕打ちを受けるとは。私は呆然とし、何も言えなかった。

 しばらく首元のワイシャツをつかまれたままになっていたが、夜崎さんが冷静さを取り戻したのか

「悪い」

と小さく謝ってゆっくりと手を離した。

「ごめん、どうかしてた」

「私もごめん。嫌だったのに」

 夜崎さんがもう一度謝ってからまた寝転がった。これ以上の会話は得策じゃないことくらい、人との距離感がおかしい私にも分かる。午前中はもうそっとしておこう。昨日みたいに夜崎さんから話しかけてくるのを待つしかない。

 それにしても、どうして夜崎さんは自分のこととなると何も話してくれないのだろう。顔に張られたガーゼに関しては何かしらの事情があるだろうと察することはできる。でも名字ではなく名前で呼んだだけでこんな反応が返ってくるなんて夢にも思わなかった。夜崎さんは私と仲良くなりたいとも思っていないということなのだろうか。それは寂しいなあ。


「春子はさあ……」

 お昼になりお祖母ちゃんのお弁当を食べていると、昨日と同じように夜崎さんが話しかけてきた。

 機嫌は直ったのだろうか、私は少しウキウキしながら続きを待った。

「……何でもない」

 夜崎さんは目を逸らし、右手で頭をガリガリと掻いた。髪が伸びたのか、根元が黒くなっている。

「言いたいことあるなら言いなよ」

「いや、特にないんだ。……その、午前中は悪かったなと思って、あたしから話しかけようとしたんだけど、何も思いつかなくて」

 夜崎さんは夜崎さんなりに気を使ってくれているということなのだろうか。それは嬉しいけど、何も思いつかないっていうのは、私に興味がないってことなのだろうか。

「私に聞きたいこととかないの?」

「え……特には」

「私の誕生日とか、スリーサイズとか、家族構成とか!」

 私はやけくそになって色々例を上げてみたが、夜崎さんは全然興味がないのか、

「聞いてどうするんだ」

 とだけ言ってコンビニのパンを頬張った。

 ここまで温度差があるか。もう心が折れそうだよ、夜崎さん。


 午後の授業も二人で全部サボった。夜崎さんと一緒に過ごすようになって一ヶ月、夜崎さんが屋上から授業に向かったことは一度もない。かく言う私も一度もない。

「携帯、教えて!」

 一日が終わり、さっさと帰ろうとする夜崎さんの背中に慌てて声をかけた。仲良くなるための第一歩がお互いのことを知り合うことなら、次は連絡先の交換のはず。高校生になってから一度も連絡先を交換した覚えがないからすっかり抜け落ちていた。

 私はポケットから、いわゆるガラケーを取り出し、夜崎さんに突き出した。

「ないよ」

 夜崎さんは振り返って少し困った表情を浮かべていた。また嫌だと断られたらどうしようと身構えていたが、予想外の返答に戸惑う。

「……どういうこと?」

「だから、携帯電話、スマホって言うのか、持ってないんだよ、あたし」

 斜め上過ぎる。今時、携帯電話を持っていない女子高生なんているのだろうか。そういえば、夜崎さんは屋上でいつも寝ている。私の想像上の女子高生は、私も女子高生だが、スマホをいじってばかりいるイメージなのに、夜崎さんにはそれがない。

「私と連絡先交換したくないから嘘ついてるとかないよね」

「そんなわけないだろ」

「あれ、もしかして、私と連絡先交換したいの?」

 意外にも夜崎さんが素直に頷いた。

「ああ、いつも屋上の鍵がどこにいるか分からないからな」

 鍵目当てですか、そうですか。言っててそんな気はしていましたよ。

 夜崎さんはじゃあ、と言って今度こそ帰ってしまった。何だか夜崎さんは不思議な人だ。まあ嫌いじゃないどころか好きなのだが。


 今日も一限からサボりだ。夜崎さんは二限が始まるタイミングで屋上へ通じる扉の踊り場にやって来た。私は律儀にそこで待ち続けていた。

 ガーゼはもう張っていなかった。ただ、そこには引っ掻いたような傷が三本赤く走っていて、大きな痣が見えている。夜崎さんは喧嘩はしないと言っているけど、これは喧嘩の痕じゃないのだろうか。聞いたところで怒るから、触れないでおこう。

 軽く挨拶して屋上に出て、いつものように並んで寝転がる。さて、今日は何を聞こうか。

「夜崎さん、誕生日は」

「一月一日」

 本当か? 適当にあしらわれていないだろうか。そんな勘ぐりが働いてしまう。でも、へそを曲げられては困る。

 ここで「春子は?」なんて聞き返してくれるのを期待していたけど、夜崎さんはぼんやり空を眺めている。まあ、そんな会話らしい会話はあまり期待していなかったと言えばしていなかった、私は自分に言い聞かせた。

「家族は? 一人っ子?」

「……教えたくない」

「趣味は?」

「特にない。……春子は、あたしとお見合いでもしてるのか」

 お見合い。したことないが、確かにそんな風に聞こえる会話だ。当たらずといえども遠からず。

「家で何してるの?」

「特に何も」

 どんなことならちゃんと答えてくれるんだ! 私は爆発しそうな感情を必死に押さえ込んだ。こうなったらもうやけくそだ。

「スリーサイズは?」

「ちゃんと測ってないから知らん」

「ファーストキスはいつ」

「十三」

「初体験はいつ?」

「十三」

 さすがにそろそろ怒られるかと思っていたのに、まともに返ってきたことに感動しつつ、ショックを受けた。十三……十三て。中一とか? 私がそういうことに疎いだけで、皆それくらいにしてるものなの?

「何慌ててんだよ。……と言うか春子もそういうことに興味あるんだな」

 夜崎さんがニヤニヤ笑いながらこちらを見ていた。ちゃんと反応が返ってくることは嬉しいが、もっと別の話題でもちゃんと返して欲しい。

「春子は」

 そう言うと夜崎さんはゆっくり起き上がり、寝転がっている私に覆い被さってきた。

「処女なの」

 夜崎さんの左手が私の右手首をつかみ、右手が私の頬を優しく撫でる。

 ヤバい、心臓に悪い。少し細い目に射貫かれ、私は動けなくなってしまう。このままキスをされ、さらに……と勝手に妄想を膨らませていたところに、夜崎さんは「春子」と私の耳元で小さく囁いた。ゾクゾクとする不思議な感覚が体中を駆け巡っていく。これは……これは……!

 私が密かに意を決した瞬間、夜崎さんは興味を失ったみたいに、私から離れ、もう一度寝転がった。残念な気持ち半分、嬉しい気持ちが半分。

「冗談だって。……でも、処女なんだ」

 夜崎さんが確信を持って断言した。事実だけど、何だか悔しい。やり返したい、何となく舐められている気がする。こうやって対抗心を持ってしまうこと自体が駄目なのだろうか。

 私は起き上がって、夜崎さんのお腹の上に跨がった。完全に腰を下ろすかは迷ったが、夜崎さんに怒られるのは嫌だから自重した。両手を夜崎さんの顔の左右真横に置き、顔をぐいっと近づけ見つめ合う。

 私はこれだけでいっぱいいっぱいなのに、夜崎さんは微笑みを浮かべ余裕そうだ。

「どうしたの」

 夜崎さんの息がかすかに顔にかかる。夜崎さんは規則正しく呼吸をし、そのたびにお腹が膨れるのを感じる。

 ……勢いでこんなことしてしまったけど、この後どうすればいいんだろう。キスか、キスから入るのか。このままだと夜崎さんに舐められたままになってしまう。でも、付き合っていないのに、そもそも友達と呼べるかさえも怪しいのに、そんなこと、できるか!

「春子、何もしないならどいてくれ」

 夜崎さんが若干冷ややかな視線を向けて来る。

 せっかくのチャンスを逃した気がする。私は渋々、夜崎さんの上から撤退し、寝転がった。まだドキドキしている。もしあのままキスしてたらどうなってただろうか。

「処女には荷が重いか、って思ったでしょ」

「……そんなことはない」

「今の間はなに!」

 どうして夜崎さんは平然としていられるんだ。これが経験者との差なのか。納得がいかない。それに、夜崎さんの相手は誰だろう。顔も知らない人間のことが無性に腹立たしい。

「初体験の相手はどんな人」

「教えない」

 そう言うと思ってました。初体験はいつ、なんてふざけた質問にまともに答えてくれただけで今日のところはよしとしよう。

「春子が興味あるならいつでもいいよ」

 夜崎さんがまたニヤニヤしながらからかってくる。興味があるにはあるが、誰でもいいわけじゃない。夜崎さんだから興味があるのだ、夜崎さんと付き合ってからしたいのだ。そこは勘違いされたくない。上手く伝えられる気はしないが。

「……そのうちね」

 夜崎さんが不意を突かれたのか、真顔になり

「ふうん」

とだけ言って目を閉じてしまった。

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