第6話 その6

 マリー・アントワネットの子供が生存している。タンプル塔にいるのは重病の別の子供であり、ルイ17世は逃亡した。そんな噂が流れていた。

 実際にタンプル塔で勤務する者も、独房で幽閉されている姿を見た者もごくわずかである。そのためブルボン家の財産を目当てにして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが、ヨーロッパだけではなくアフリカ大陸まで出没する有様だった。


 フランス北東部付近で発見されたある少年は、牢番がかごに入れ脱走させたルイ17世だ、という噂が流れ、総裁政府までもが振り回された。偽王太子の中でもドイツに現れたという人物は有名であるが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。



 マリー・アントワネットは王子に「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いでいた。

 国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。移動の際、馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けたという。



 やがて王子は1人引き離され、王室を汚い言葉で罵る靴屋の元で過ごすことになる。ルイ16世はギロチン台送りになり、それを知らないまま、貴族的なものを忘れるための再教育が行われた。ルイ17世には革命党員の制服を着用させたのだ。

 そして革命歌、王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。やがて教育には虐待が加わり、ギロチンにかけて殺すとまで脅す有様であった。

 靴屋はルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。


 ついにはタンプル塔の独房に幽閉されると、数学が理解できない牢番は、王子が壁に書くものを暗号の通信文を書いていると勘違いしたという。


 ルイ17世を押し込んだ独房の窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下に置き、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、汚れたパンとスープだけが監視窓の鉄格子から入れられた。呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。

 室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと暴君の息子などと長々と罵倒を受けた。それが終わるまではパンは受け取れなかったのだ。このような行為は何度も繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。





「結菜さん、ルイ=シャルルって知ってる?」

「ルイ=シャルル、それってマリー・アントワネット王妃さまの次男でしょ」

「そう」


 おれと結菜さんもそうだが、王妃さまもその話題を出すことは決して無かった。なるべく避けてきたのだ。

 史実でルイ17世は不衛生極まりない独房で衰弱死している。

 この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。


「ルイ17世は生きているらしい」

「えっ!」

「トキに頼んで、やっと正確な場所を探し当てたんだ」


 おれはその事を王妃さまに話した。しばらく声が出なかった王妃さまだが、もちろん直ぐにも助けに行きたいとおっしゃる。


「結翔さん、王子さまでしょ!」


 直ぐにでも飛び出していきそうな結菜さんを、おれは引き留めた。


「結菜さん、待って」

「ーーーー!」

「そっとしておこうよ」


 おれたちを知っているのは王妃さまだけにしようと話した。これ以上おれたちが出ていったら、フランスの歴史がめちゃくちゃになりかねない。

 独房には王妃さま1人で行って頂いたが、多分タイムマシンもトキによる時空移転も違いが分かってないんじゃないかな。



 独房の空間が歪んだのは、もちろん王妃さまが事情を知って直ぐだった。

 ルイ17世は独房の壁に「ママ、僕は…」という書きかけの言葉と花の絵を残していた。花が好きな母のためにと、母の名前の横に花の絵が描かれていたのだ。

 それを見たマリー・アントワネットは息子の前にひざまずき、「国王陛下」と深くこうべを垂れた。その目には涙が溢れていた。

 ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光を浴びたのだ。だが、ウィーンの宮廷に空間移動され、驚愕して叫ぶ息子に王妃は、


「神の思し召です」と答えたのだった。



 王政復古の可能性は流動的であったが、戦争に疲れて平和を求める世論に押されて戦勝国も妥結した。恐怖政治を終わらせたマリー・アントワネットの噂も、パリ市民は皆聞いていた。あのオーストリア女、贅沢三昧の浪費家と評判の悪かった王妃が、なんと騎馬軍団を率いてロベスピエールを追い詰めたのだ。


 第六次対仏大同盟軍はルイ17世を復位させた。新憲法は全フランス人の法の前の平等をうたっていたが王侯貴族の特権を大幅に温存していた。


 戦後フランスは7億フランの賠償金の支払を課せられ、その国境を1790年当時のものに縮小された。ワーテルローの戦いの後120万の外国兵に占領されたが、最終的には約20万の兵が占領するとされ、賠償金に加えて占領軍の駐留経費負担の支払が課せられた。


 だがマリー・アントワネットはついにフランスの宮廷に戻って来た。国王ルイ17世の母として。


「ユイト、私は宝石の全てを売る事にしました」

「えっ」

「そんな物が無くっても生きていけるでしょ。それよりも、カレーライスのレシピを教えて」

「はっ?」


 王妃さまは宝石を売った代金を賠償金返済の一部に当て、さらに戦争で疲弊した市民たちの生活を支援するプロジェクトを立ち上げると、その一環としてカレーライスを作って庶民に食べさせたのだった。

 王妃さまの計画は、即刻国民公会の議員達に知らされる事となった。






 ここは宮廷にはほど遠い我がアパートだ。食事をカレーライスにしようかと話し会っていた、ある日の事だった。また結菜さんが歓声を上げた。


「キャー!」

「どうしたの?」

「王妃さまからメールよ」


 メールには王妃さまの短いメッセージが書かれていた。


「お願い、またカレーライスを食べさせて。それから後でストロベリー・フラペチーノもね」

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マリー・アントワネットの反撃 @erawan

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