あなた・茶柱・群青
彼女は夏世に手を出さなかった。
十一月の末、その女と初めて出会った寒い夜を、夏世はまだ忘れていない。何事にもさして興味を持たない彼女には珍しいことだ。女はあれから時折夏世の前に現れるようになり、そのたびに一晩を同じベッドで過ごしたが、何度会っても自らの名前すら明かそうとはしなかった。夏世もわざわざ訊こうというつもりはなかった。
彼女が女を相手するのに慣れている人間であるということはすぐわかった。ある夜、ふたりがエレベーターに乗り込んだとき、見知らぬ若い女が走り寄ってきて、閉じかけたドアを強引にこじ開けた。そして怒鳴った。聞き取りづらい声だったけれど、きっとこう言っていた。いやだどうして会ってくれないの。従業員が駆けつけてきてその女をどこかへ連れていったから、ふたりは何も喋らずにそのまま夏世の暮らす客室へ向かった。
その寝入り端、とりとめのない会話のほとりで、知り尽くしたら飽きがくるのはしかたないことなのにね、と女は言った。それに続けて、あなたのことは知らなくったっていいや、と笑う。寝ぼけたような声だった。そうやってふたりは髪が触れ合うほどに近くでただ眠った。
残暑の頃、夏世は夢を見た。明るい太陽の光の下、どことも知れない芝生に幼い夏世が立っている。白いブラウスにスカート、手元には邪魔なだけの日傘を携え、ぼうっとして青い空を見ている。そこに駆け寄ってくる同じくらいの歳の少女。その顔はわからない。少女は幼い夏世の手を引いて、遊ぼうと誘っているようだ。指差す先には小さなシーソーが見える。ふたりはそちらへ走っていく。遠ざかっていくふたつの小さな後ろ姿、そう、夏世はそれを見ている。風が吹き、一面の芝が揺れ、雲が流れ、笑い声が響く。
ふと波が引くようにその光景は薄れ、静まり返った寝室の景色が押し寄せてきた。夏世はうすぼんやりとした視界に自分と他人の肌の色をとらえる。もはや爽やかな風の匂いは綺麗さっぱり失われていた。夏世の頭の下で血管を圧されている腕は、そうねだったわけでもないのに今夜の相手が差し出してきたものだ。夏世は寝返りを打ち、そこから逃れた。壁へ視線をやる。薄いレースのカーテン一枚を引いたきりの窓の中に月がある。ただ泣きたくなったから夏世は涙を流し、そうしてまた眠った。
ここには暑さも寒さもなく、穏やかな欲で組み上げられた快適さが夏世の上に覆いかぶさっているばかりだ。人々はただ好奇心から自分を抱き、そしてすぐに飽きては離れていくのだと夏世は思っている。実のところ彼女を恋する者はそれなりに存在していて、彼女の全身に巣食う無関心さがそれを彼女に認識させていないだけであるのだ。
夏世の日々は這うような速度で進んでいく。これまでのどこにも、また、この先のどこにも彼女の幸福はなく、不幸もない。そう、彼女には何もありはしない。
そして、再び冬が訪れようとしていた。
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