異邦人たち

クニシマ

蛾・苔・あたし・修羅

 その夜の新宿はひどく冷え込んでいた。だから余計その姿が目に留まったのだろう。

 十二階のバーからロビーへ降りたとき、日付はもう変わっていたと思う。壁一面に嵌まったガラスの向こう側で風が唸っているようだ。天井は高くひっそり閑として、シャンデリア然と吊り下がる照明ばかり煌々と輝いている。

 ふと、居並ぶソファの群れの中にひとり、退屈そうな気配を伴って座面に沈む女を見た。正確には、その細く生白い脚がまず視界に入った。彼女は上半身こそ暖かそうなカシミヤのセーターを纏っていたが、そのほかは季節などまるで無視した短いスカート、それにおそらく素足のまま履いているのだろうムートンブーツとちぐはぐだ。近寄って覗き込んだその顔立ちは端整なものだったが、ひとくちに美人と称するにはどこか歪であるとも思われた。あたしは彼女に呼びかけた。

夏世なつよさん。」

 彼女はそっと首をかしげる。右頬の小さなほくろがその表情をやたらに艶めかしく際立たせているようだった。

「……どこかで?」

 その声音はウインドチャイムを鳴らしたように透き通ってきらびやかだ。

「そう呼ばれているのを、前に聞いたから。それだけ」

 大嘘だった。あたしは彼女を知っていた。幼い頃、まだ小学校に上がる前、郊外の小さな公園であたしと彼女は出会った。蝉のやかましい季節だった。彼女は小さな日傘を差し、上から下まで仕立てのいい服を着ていた。草と土の匂いにまみれ、日に焼けたい放題焼けていたあたしとは大違いで、それでもあたしは彼女と仲良く遊んだのだった。寺﨑てらさき夏世——彼女は大金持ちの家の末娘で、その夏の間だけ祖父母の家に預けられていたのだと後から知った。

 それから二十年以上が経って、あたしは土曜の夜をこのホテルのバーで過ごすことのほか何も起伏のない生活を送っている。

「今日はひとり?」

 あたしがそう尋ねると、彼女はより不思議そうな顔をした。

「どうして?」

「いつだって、誰かと一緒にいるでしょう。」

 あたしはここに通い出した頃から何度も彼女の姿を見かけていた。初めてロビーですれ違ったとき、それはまったくの偶然だったが、寺﨑夏世であるとすぐにわかった。幼い時分からまるで顔つきが変わっていなかった。彼女は年齢も身なりも性別さえもその都度まったく異なる相手の横でいつも美しく微笑んでいて、そうしてエレベーターに乗っては最上階の客室へ消えていった。そこに住んでいるのだと、いつかバーで知り合って抱いた子から噂に聞いた。

「そうかな。そうかも。」

 彼女は何も思っていないふうに応える。その瞳がずっとあたしを綺麗に見つめていた。

「あたしも、あなたの部屋に連れていってよ。」

 ソファの布地にうずもれる彼女へ手を差し出すと、あまりに細い指先で握り返される。彼女の腰を支えて立ち上がらせ、あたしたちはそのままエレベーターホールに向かった。

 部屋は想像よりもいたずらに広く、むなしい空気が充満して仕方なかった。扉が開け放しになったクロゼットの中に十数着の服が見えた。不必要に大きい鏡台には雑多なアクセサリーが無造作に置かれている。間接照明が室内を夕暮れじみた色に染めていた。

「シャワー、使っても?」

 そう訊けば、「お湯、張ってくれてると思うよ」と言って浴室の方角へ視線を向ける。ありがたく湯船に浸かり、脱衣所に置かれていたバスローブを着て寝室に戻ると、彼女はベッドに寝そべって被写体の毛穴まで美麗に映るテレビを眺めていた。あたしもその横に寝転がり、しばし一緒になってそれを見た。そのうちに飽きたのか、彼女はリモコンを取り上げて画面を消した。

 寒々しいほどに天井が高い。あたしが彼女のほうへ視線を向けると、彼女もあたしの顔をじっと見返してきた。そしてあたしたちはどちらからともなく目を瞑り、浅く無価値な眠りについた。


 電話のベルが鳴る音で目を覚ました。フロントからのモーニングコールだった。刃物にも似た朝の陽光が白い壁にぶつかって眩しい中で、彼女が受け答えする声を聞いていた。

「おはようございます。……ええ。……はい。お掃除は……今日はいいです。使わなかったから。……うん。ありがとう、それじゃあ。」

 明るい光のもとで見渡した部屋は、いたるところに大袈裟な花など飾られてあるにも関わらず、ただ殺風景なだけの場所だった。受話器を置いた彼女は壁の時計へ目をやって「起きてるの。」と尋ねてくる。あたしは返事の代わりにゆっくりと体を起こした。彼女はひとつ頷き、それから浴室へ入っていった。かすかに響く水の音を聞きながら着替え、勝手に鏡台を借りて化粧をし、彼女が出てくるのを待つ。

 やがて裸のままの彼女が浴室のドアを開けた。クロゼットから適当な服を引っ張り出そうとするその姿は奇妙に可憐だった。薄い肉の下に肋骨の形が透けている。しばらくして、やはり季節に合わない生地のワンピースを着ることに決めたらしい彼女は、鏡の前に立ちながらあたしを見やった。

「あなたって、朝ごはん、食べるひと?」

「うーん、まあ。」

 すると彼女は、頼んだら持ってきてもらえるよ、と電話機を指差す。受話器を取り上げてフロントへかけてみると、律儀にも一度の呼び出し音で繋がり、慇懃な声が「朝食をお持ちします」と言った。

 適当にチャンネルを回したテレビから聞こえてくる天気予報に耳を傾けつつ、彼女が髪を梳かす姿を眺めていると、従業員が数人やってきてダイニングルームに朝食を運び込む。おそらく一番の上司であろう中年の女がこちらに向かって頭を下げた。

「おはようございます、夏世さん」

 彼女は軽い会釈を返し、ありがとう、と言って櫛を置く。手際よくテーブルセッティングを終えた従業員たちが出ていった。あたしたちはダイニングルームへ入った。

 白いテーブルクロスの上には簡単なメニューが並んでいる。向かい合って座り、ひとまずコーヒーを飲んだ。彼女は果物の乗った皿からいちごを取って食べていた。クロワッサンをかじり、熱いスープに口をつける。そのまま喋ることなく食事を終えた。

 それから正午を迎える前には彼女の部屋を後にした。去り際になんとなく「またね」と言うと、おうむ返しに同じ言葉が戻ってきたのを覚えている。

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