第134話 マスター
恵奈の体は眠りに落ちた。
脈もあるし、体温も平常だ。彦根は裾を破くと、恵奈の太腿の止血を行った。動脈を押さえ、宮部に習ったやり方で、布をきつく結んだ。
汗をかいた彦根は、着ていたジャケットを脱ぎ、それを恵奈の体にかぶせた。
屋上の柵に手をつき、洛中を一望する。この空の続いた先にある東京を考えながら、そして由良島が一一〇年前に見た景色を思いながら、行き交うヒューマノイドを俯瞰して眺めた。
止血を終えてから数分後、恵奈が目を覚ます。
自分の身に何が起こっていたのか、全くもって分からない様子だった。
「起きたか恵奈」
「彦根さん、ここどこ? それに私どうなって……」
恵奈は混乱しながら、辺りを見渡した。そして太腿の鈍痛に表情を曇らせる。
「あまり動かないほうがいい、少し長旅になるかもしれないが、帰ったら博士が必ず治療してくれる」
「長旅? ここ、東京じゃないの?」
「残念ながら京都だ。詳し話は帰ってからだ」
「それに彦根さん、その姿――」
「ああ、これか。似合っているか」
恵奈は黙り込んだまま、彦根の生身を凝視した。
「どの姿でも俺は俺だ。中身が変わったわけじゃないから安心しろ」
彦根はそう言うと、恵奈に手を差し伸べる。
「少し驚いたわ。でも似合ってる」
「ありがとう」
国際展覧会は今日、無事に開催された。
日本エリアの目玉となった解放のバベルも一つのモニュメントとして、展示され、その中にファインドソフトのコンピューターが眠っていることは誰も知らない。由良島天元という天才の名前も大衆の記憶からは薄れていくことだろう。
東宮は沢渡によって逮捕されたが、その逮捕が報道されることはなった。そして次の日に東宮の稼働は停止した。
本来ならとっくに定年退職をしている年齢だったのだ。だが年齢を詐称し、ずっと居座り続けたため、その地位と人脈を築き上げることができたのだろう。
東宮にとって、これは人生最後の大勝負だったのかもしれない。
今後は沢渡が公安に改革を加えながら引っ張っていくことだろう。まず初めに、東宮のような人間を生まないためににも、人事管理の見直しを図らなければならない。そしてサイバー庁や鉄道庁のシステムの差別化を図り、癒着を徹底的に撲滅していく。
とは言え、全てを一気にやることは不可能だ。まずはゆっくりと、できることから進めていく。
ヒューマノイドはめくるめく情報社会の中で生きている。
一部の人間が熱狂した渾沌もいずれも都市伝説となり、事実は現実によってもみ消される。「そういえばそんなことがあったね」なんて話の隅にも置けないように一蹴され、いずれは忘れ去られる。だがそれでいい。記憶は新しくなり、世界はアップデートされいていく。裏でこれだけ大きな事件が起こっていたとしても、国民はそれを知らずに生きていく。平和とはそういうものなのだ。
恵奈を連れ、品川の駅を降りた時、そこには皆が待っていた。
見慣れた部下の顔と、ほんの少しだけ日常からは逸脱した印波と朱雀。
「よく戻ったな」
「室長、おかえりなさい」
「室長……待ってましたよ!」
「二人とも無事でよかったよ」
彦根はにこやかに笑いかけると、手のひらを太陽にかざし、血液の赤を見つめた。
まだまだ世界は変わるだろう。そして自分も変わりゆくだろう。流転する日常の中で、ただ前に進むのみである。
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