第133話 マスター

「ただの結晶体に過ぎないとはどういうことだ?」


 恵奈の体に覆いかぶさった彦根が問いかけると、由良島はフェンスを眺めながら言った。


「私はただ、もう一度のこの景色が見たかったのかもしれないな」


 フェンスの先に広がるのは何もない空だった。その下の京都大学の敷地内には、学生が少しだけ。実に簡素な日常風景だった。


「私はずっと印波に憧れていた。人の渇きを印波は意図も簡単に克服していた。いまから一一〇年も昔の話だ。ただのあの一年間は本当に楽しかったよ」


 彦根は気づく。だんだんと由良島の影が薄くなっている。見た目では分からない。喋っているのも、呼吸しているのだって恵奈の体だ。だがその中の意志のような、魂のようなものが薄れているのを感じた。

 うまく説明はできないが、由良島の存在が消え去っていくように思えた。


「息子にこんなことを言うのは何だが、私は一度だけ恋をしたことがあってね。それまでは女なんぞ、渇きを埋めるためだけの存在だった。あの文化祭の日、ここで印波と話した時、私は理解していないふりをしたが、心のどこかでは分かっていた。だがそうなれない自分を頭で分かっていたし、だから印波を羨んだ。それから数十年経ってから、やっとの自分が印波の言っていた〝恋〟をしたのだと気がついた。その時は驚いたよ。私はずっと死ぬことは怖くはなった。だが彼女に出合った時、死ぬことが怖くなっていたんだ。出会ってからまだほんの少しの時間しか経っていないのに、人間のことが好きで堪らなくなったんだ。なぜ私はこんなにも弱くなってしまったんだろう。そう思ったよ」


「それは弱さじゃない、強さだ。死はいつだって甘美な響きで誘ってくる。生嶋総理が言っていた、生は重荷だと。だが死を選べる自由の中で、辛く苦しい生を選ぶのが人の強さだ」


「そうか、お前は分かっているのか」


「AR世界はあんたが生きたいがための世界か。そして彼女が死んだから、この世界を元に戻そうとしたんだろ」


「やはり因子が反応しているのか」


「そんなじゃねぇよ。あんたも俺も男ってわけさ。まるでつまない理由。だけどまっとうな理由だよ。天才、天才って揶揄されていても人は人なんだ。同じ赤い血が流れるヒトなんだよ」


 由良島は両手を伸ばし、胸の前で合掌した。


「懐かしい、そして暖かい」


 由良島の因子は二つが同時に合わらなければ存在を許されてない。遺伝子という証明と、生きているという認識。

 日本中に響き渡った真実が、印波の存在を消し去る。そして由良島を最も強く認識し、ファインドソフトを作った宮部が死ぬことによって、認識は完全に消滅する。

 由良島は思い出の地で、愛した女の胸の中で、死を迎える。

 人の死は二回ある。一つは肉体の死、そして二つ目は精神の死。双方の死の順番は人によって異なる。由良島は長く生きながらえ、その生涯に幕を下ろした。

 肌寒い風が屋上を吹き抜ける。その風が恵奈に残された由良島の存在を秋の空へと運んでいった。


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