第135話 新時代

 それから数年後――


「特別延命処置法はもう永遠に凍結か」


 病室のベッドで印波がそう言った。その傍らで丸椅子に腰を掛け、顔を覗き込む彦根は真剣な眼差しで答える。


「場合によっては考えています。でも永遠に生きながらえるなんて、とんだ罰ですよ」


「不老不死は誰もが夢見るものだぞ」


「どうしたんですか。ついに死が怖くでもなったんですか」


「馬鹿を言え、僕はずっとこの時を望んでいたんだよ」


 印波の体はもうあと数分も持たないだろう。ついに人間の体の限界である。酷使してきた一四〇年間、ついにその体に永遠の休息が訪れる。数々の功績を残した天才学者だが、その最期は皆と等しい。


「由良島よりもいい死に方なら、本望だ」


「そうですか」


 彦根は笑った。


「特別延命処置法は確かに渾沌とした世界を切り開く一手にはなるでしょう。だけど今はそのための教育を従事させることのほうが重要です。主権者教育を日本は怠ってきた。だから他国に依存し、現実問題を棚に上げ、辟易してきた。生嶋総理の言った偉大な指導者が永遠に引っ張っていく未来。それが一番手っ取り早い。だけどそれは宮部先生が言った種の輪廻から逸脱している。この進化し過ぎた世界を維持しつつ、なおかつ人間らしい生き方。俺はそれを目指したい。だって一人だけにこの国の未来を担わせるなんて、そんな辛い拷問を私はできませんよ」


「そうだな、君はもうヒューマノイドじゃあないんだもんな」


「まさかその拷問をさせるつもりだったんですか」


 彦根が冗談めかしく笑うと、印波も微笑んだ。


「だけどヒューマノイドではないからこそ、できたことも多くあるだろ」


「ええ、それは沢山。この体になってよかった……とは決して言い切れない。でも後悔はしていませんよ。あなたのお陰で今の俺がいます」


 その時、病室の扉が開いた。

 入ってきたのは持永だった。以前は肩まであった髪の毛を短くし、表情も多少なり、きつくなった。だが決して不幸せな顔ではない。大変な毎日だが、充実している。そんな強さがさらに増していた。


「彦根総理、そろそろお時間です」


「ああ、分かったよ」


「ジェンダー初の総理大臣か。やはり由良島の予言は間違っていなかったのかな」


「新時代構想ですか。私は由良島よりもゆっくりとやっていきます」


「頼もしいな」


 彦根は立ち上がり、ベッドの前に立つと、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。ゆっくり休んでください」


「こちらこそ、死に際にいいものを見させもらったよ」


 彦根が病室を出てから数十分。

 印波は窓の外を眺めながら静かに息を引き取った。供に歩んだAR革命と二人の天才。その時代についに幕が下ろされた。

 まだ変革は始まったばかりだ。問題は山積みだが、一歩一歩、少しずつ進めていくつもりだ。この黒い煙に覆われた空も、鉄骨が剥き出しのビル群も、血のない人類も、その全てを背負い進んでいく。

 歴史とは不可逆だ。これが間違った道であろうとも人類は進み続けなければならい。

 それがヒトとして生きる最後の使命である。

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血のない我ら マムシ @mamushi2001

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