第128話 マスター

 数時間前、彦根が出ていったのを見送ると、ラボで樽井が持永にあるものを見せた。


「これ見てください」


 樽井の手の中にあったのは紙切れだった。前時代的なメモだ。宮部がよくやった手法で、わざわざ紙媒体に書くことによって、機密の漏洩を防ぐという効果がある。

 そのメモ用紙にはグリット線が二行にあり、上の線にはヒューマノイドの個人IDらしきものが書かれていて、さらにその下には旧式のインターネットブラウザで用いられるIPアドレスが記載されてた。


「なによこれ?」


「実はこれ、この拳銃の中に入っていたんですよ」


 樽井いわく、その紙切れは沢渡が残した拳銃のグリップの中に忍ばされていたという。グリップの先に見えた白い紙切れに疑問を抱き、軽く分解したところ、見つかったのだ。


「朱雀、これの照合できるか」


 彦根がその紙を手渡すと、朱雀は首をひねりながら答えた。


「これがあれば本人との照合は可能だけど……」


「やってみれくれないか」


「どうせあたしたちの個人IDじゃないの?」


「そうでしょうか、俺なんか引っかかったんですよ。あいつの言った正義って言葉に」


「もしかして沢渡が味方かもしれないっていうの?」


「そんなことは言っていません、だけど……」


 すると朱雀が呟いた。


「いま照合させたけど、この個人IDは東宮のものだ……そしてこっちのIPアドレスは渾沌のマスターが使っているものと同じだよ。渾沌のマスターのホストはずっと隠されていて、どうしてもIPアドレスを開示することができなかったんだけど、これを照合させたら確かに書き込みと一致する」


「やっぱりな……」


「そいつは由良島の認識と、どこか繋がりがありそうだな」


 印波も顎をさすりながら、樽井の意見に賛同した。


「持永さん、俺たちで沢渡を助けに行きましょう。あいつなら何かを知っているかもしれない。これはあいつが残した最後のメッセージだったんですよ」


「あんた正気? あいつこそが私たちを狙っていた張本人よ。また解放バベルに戻るというの?」


 すると樽井はこれまでにないほど、真剣な眼差しを向けた。


「あいつは今頃、半壊状態ですよ。もしも何か真実を知っていても自分一人では動くことすらできない。これは賭けです。印波さん、由良島は認識によって存在しているんですよね」


「ああ、そうだ」


「そして宮部も言っていた、渾沌のマスターは他にいると。室長がいくら由良島を倒したとて、この祭りが終わるとは思えないんですよ」


 持永は口ごもった。そして少し考えてから答える。


「確かに……由良島の因子を破壊しても、皆の記憶に残り続ければ、一定数の効果は発揮される……ということかしら」


「その可能性は十分にあり得る……」


 印波も深く頷いた。


「分かったわ。その賭けに乗りましょう」


「まさか敵に塩を送ることになるとはな」


 印波はそう言うと、ラボに置いてあった救命道具をかき集め、バッグに詰め込んだ。


「日和、お前はここで僕たちを誘導してくれ」


「うん、わかった」


「印波さん、ありがとうございます」


「もう時間はない。あと数時間であの塔は地上に姿を現してしまう。樽井君のその勘に賭けてみるのは大いに意味があるだろう」


「そうね……やってみましょう」


 三人はもう一度、解放のバベルに戻ることを決意した。だが今度は登るのではない。あの堅牢な塔の奈落まで下るのである。


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