第108話 解放のバベル

 一同に激震が走った。信じがたい発言に時間が止まる。まさか彦根以外に娘がいたなんて、そんなこと聞いたことが……いや彦根は記憶の断片を遡った。あの日、恵奈が拳銃で撃たれた日、宮部が車の中で言っていた。由良島には彦根以外に娘がいると、まさかこの男はその時から恵奈が由良島の娘であることを知った上で、泳がせていたというのか。

 混乱する記憶の最中、確かにあの言葉がよみがえった。


「私が……由良島の娘?」


「まさか自分自身でも気が付いていなかったとはな……君に流れる生き血こそ、由良島が残した唯一の生きる遺伝子だ」


「そんな……嘘でしょ」


「室長、これはいったい……」


 話が宙吊り状態で転がっていく。把握しきれないほどの情報過多に持永は戸惑った。


「俺も聞かされていない、恵奈が由良島の娘だったなんて」


「ゆえに由良島の血統因子が反応し、由良島は娘と融合したのだ。そう考えるほかないんだ」


 宮部は狂ったように笑い出した。この男は由良島の影にすがっている。自分が信じてきた由良島の存在を正当化しようとしているのだ。だが、そこへ印波が口を挟んだ。


「そんなことは起きんよ。いくら魂素体とはいえ、そんな幽霊じみたことができてたまるか。それは君が一番よく知っているはずだろ宮部君」


「印波博士はこのことを知っていたんですか」


 彦根が目を向けた。


「ああ」


「なぜ言ってくれなかったのよ」


 恵奈が印波に泣きつくようにして、裾を握り締めた。すると印波は振り返り、恵奈の頬に手を当てる。


「すまなかった。騙すつもりはなかったんだ。僕も君が由良島の娘であることに確証を持てなかった。ただ私は君を見守っていたんだ。もし本当に由良島の娘なら、先ほど宮部君が言ったように、血統因子を持っている唯一の人間となる。いつ由良島がその体を狙うかも分からん。ただ君と一緒にいればいるほどその可能性は高まっていった。思い出してみなさい、さすれば思い当たる節があるはずだ。君は無意識下で由良島の認識に引き寄せられていたんだよ」


「私が由良島に引き寄せられていた……」


「そして血統因子の微弱な電波が君たち二人を引き合わせたんだ」


 印波はそう言うと、彦根に目を向けた。


「彦根君、君はどうやって一度だけ通っただけのあの複雑な水路を記憶したというのだね。迷うことなく、なぜ居住区までたどり着けた?」


 彦根は思い出した。確かにあの時、恵奈を背中に乗せて走った日のことだ。まるで何らかの力によって導かれているような、するすると頭に地図が入ってくるような、不思議な感覚を味わった。あれが恵奈の血統因子の反応というのだろうか。


「そんなことが……」


「起こるのだよ。それが由良島の遺伝子だ。君の幼き記憶と恵奈の血統因子がリンクし、記憶を共有させたんだ。あの男の認識の克服とはまさしくこのことだ。僕はここに来て確信を得たよ。だからはっきり言おう。由良島天元は死んだ。だが皆の記憶の中で生きている。宮部君、君は本当に由良島と会っていたのかい? そこに由良島はいたのかい? それは君が作り出した記憶の断片ではないのかい? もう一度よく思い出してみたまえ、生嶋事件の日からゆっくりとな」


 印波は宮部の視線を捉えたまま、逃がさなかった。

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