第105話 奈落
手足の感覚がない。先ほどまで額を煌びやかに照らしていた光は遥か彼方だった。
連絡橋から落ちた沢渡の意識はかろうじて残っていた。解放のバベルの足元は暗くて、寒い、まさしく奈落と呼ぶに相応しい場所だった。
ずっと遠くに見える連絡橋の影にはもう手が届かない。それどこから伸ばす腕がない。沢渡の四肢は落下した衝撃でバラバラに砕け散った。これでもなお、意識を保てているのは奇跡に近い。だがこの状況を「功を奏した」とは表現しがたい。この無力な絶望感あふれる状況であるなら、一層のこと意識を失ってしまったほうが幾分増しだっただろう。
痛みのない、感覚のない、胴体だけがただ残され、自分で立ち上がることすらもできない、虚無感は人が持ち得る限りの誇りを木っ端微塵に粉砕した。
まさか、あの男があんな手段を持っていたとは……
沢渡には予想できなかった。確かにヒューマノイドの神経系は自動修復を始めていた。だが抵抗できるほどの力は発揮するにはまだまだ時間がかかった。沢渡の計算は寸分違わず、完璧だった。
あの樽井の思い付きが、そしてレイレイの助言が、すべての歯車を狂わせた。
沢渡は奥歯を噛みしめながら、連絡橋の影を見つめていた。
するといきなりEYEから着信が入った。着信元は東宮部長である。
沢渡は何とか残った肩で耳たぶを押し込むと、電話に出た。
「うまくやれているかね、沢渡君」
「お疲れ様です、東宮部長」
電話口から聞こえる沢渡の声は実に優雅なものだった。そんな高みからでは、現場の状況など分かりっこない。自明のことだが、電話を掛けた相手の四肢が砕け散っているなど考えるはずもないだろう。
「二つ、予想だにしない事態が起きました」
「なんだね?」
北海道からの帰庁後、沢渡は警備部の部長である東宮から本件に関する全権を委任されていた。それを踏まえた上で、沢渡は冷静に報告を重ねる。
「一つは奴らに逃げられました」
「奴らというのは、持永と樽井かね」
「ええ、そうです」
「何を悠長に言っているんだ。君はいま何をしているんだね」
「私ですか……?」
沢渡は自分の胴体を見つめてから言った。
「寝ています」
「なにをふざけたこと言っているんだ! 本件の責任は全て君にあるんだぞ。奴らを取り逃がしてみろ。君の懲戒は免れない」
「懲戒ですか」
「ああ、そうだ。何か言いたげな態度だな」
「問題はもう一つあります」
「なんだね!?」
東宮の口調は先ほどよりも強くなった。
「札幌拘置所から護送中だった田村和樹が何者かに襲われ、死亡しました。死因は生嶋事件と同じ消失です」
「いま、そんなことはどうでもいい。それよりも持永と樽井の記憶データは回収できたんだろうな」
「樽井は回収済みです」
「持永はどうした!?」
「そちらは報告通り、口を割らず……」
「なにをやっているんだ、沢渡!! 私は君の実力を見込んで責任者にしたんだぞ」
「すみません」
「いいか。持永、樽井、彦根、この三人の検挙するまで警視庁の敷居は跨がせないからな」
「分かっています。この一連の事件を犯したテロリストを必ずこの私が検挙して見せます」
「頼んだぞ、沢渡。国民を失望させないでくれよ」
東宮との通話が切れた。ツーツーというビジートーンがこの暗闇の中で波紋のように広がっていった。
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