第48話 異邦人

 それから数か月後、由良島はアメリカに飛び発った。入学してきた時には皆に注目され、歓迎された由良島だが、出発日は空港には誰も訪れなかった。最初はその天才を称賛したが、あまりにもかけ離れた実力に、人々は次第に離れていったのだ。

 それだけではない。由良島が自我を保つために行っていた悪癖のうわさは広まり、むしろ非難のほうが集まった。

 大衆はまるで自分たちの言葉を忘れたかのように、いきなり手のひらを反す。これも天才という火に当てられた人々の運命なのだろう。天才は離れた場所で見ているのが丁度いい、近づけば火傷する。IQが四〇以上離れた人間同士は会話をすることが出来ないと言うが、それでは由良島はどこの誰ともまともに会話することが出来ないのではないだろうか。

 キャリーケースを引きながら、ロサンゼルス行のゲートを潜ろうとした時、背後からその名を呼ぶ声がした。


「由良島――」


 そこには髪の毛も整えていない、印波が立っていた。靴もろくに履かず、サンダルのままビジネスバッグを肩から掛けている。目の下には酷いクマがあり、頬もげっそりとしていた。


「あなただけは来ないと思っていましたよ」


「忘れ物だ」


 そう言って印波がビジネスバッグから取り出したのはホッチキス止めされた論文だった。それは印波が研究室で発表した際、由良島にダメだしされ、「あの印波でさえ」という言葉を初めて使われたときものものである。

 その論文を由良島の胸に押しあてながらこう言った。


「自分のことが孤高だと思うな、すぐ後ろには僕がいる」


「それでそのクマですか……」


「君はこれを愚か行為だと言うだろう。研究は競争じゃない。だが僕はどうしてもあの悔しさを忘れることが出来なかった。この一年間、眠れない夜が何度もあった。そのたびに君が夢に出てきて、僕を苦しめた。正直、僕は君のことが嫌いだ。君の性格も君のプライベートも、何一つ理解できないし、考えるだけでも胸糞が悪い」


「悪口を言いにわざわざ成田まで来たんですか」


 すると印波は笑った。


「これは宣戦布告だよ。僕は君の理論を認めない。僕は人の意識が他者を介する認識だけではないことを証明してみせる。人類が紡いできた文化や医学の偉大さを証明してみせる。その論文を飛行機の中で読むといい。君がアメリカに言っても僕が日本にいることを忘れないことだな」


 由良島はその論文を大事そうに受け取ると、不敵な笑みで言葉を返した。


「忘れ物、しかと受け取りました」


 この日をもって、二人の天才は別々の道へと進み始める。由良島はアメリカで、印波は日本で、真っ向から対立した二人の研究はさらなる推進力を得て、ぐんぐん進んでいく。

 この二人を青春小説のライバルと言うにはあまりにもいびつ過ぎる。印波の一方的な恨みが籠った論文は由良島の指摘点を全て改善し、そして由良島の意見を全く取り入れずに書き直されていた。

 印波はこの一年間、崩れ去れた理論を再構築するために何度も書き直していた。結局、一年の間でまともに推敲できたのはこの一つのみだったが、それは由良島でも文句のつけどころがないほど、完璧な論文として仕上がっていたのだ。


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